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気の赴くままにつれづれと。
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14:原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。
15:気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。
16:しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。
10:魂の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。
11:道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。
12:したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。
13:自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。
7:純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。
8:将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由(frei, Freiheit)である。
9:また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。
1:純粋実践理性(reine praktische Vernunft)は、経験(Erfahrung)からは独立して意志(Wollen)を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。
1:純粋実践理性(reine praktische Vernunft)は、経験(Erfahrung)からは独立して意志(Wollen)を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。
2:思弁的理性は、実践理性の理念が感情に与える影響に対しては理由を示しえない。
3:同情から善(Gute)をなすことは好ましいが、義務(Pflicht)と責任(Verantwortlichkeit)とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない。
4:また快楽と義務とは峻別される。
5:偉大にして崇高な名である義務は、威嚇によって意志を動かすのではない。かえって法則を定めるのみである。しかしわれわれはこれを尊敬せざるをえない。
6:その根源は、機械的自然から独立した自由な人格性(Persoenlichkeit)にほかならない。
7:純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。
8:将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由(frei, Freiheit)である。
9:また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。
10:魂の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。
11:道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。
12:したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。
13:自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。
14:原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。
15:しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。
16:動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。
· 第71節 いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考えられる欠如的無であり、記号の交換が可能である。 意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが 存在すると考えているものがじつは無であり、かの無こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。
· 生きようとする意志は、おのれを自由に肯定したり、あるいは自由に否定すると言われる。第三部までに考察されてきたような、意志が肯定された場合においては、この世界で「ある」ものが生ずる。これに対し、意志が否定された場合における、この世界で「ない」ものについては、最終的には哲学者は沈黙する他ないものといわれている。
· 抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。
· 最終第71節では意志の無への転換が説かれている。意志の完全な消失は、意志に満たされている者にとっては無であるも、すでにこれを否定し、意志を転換し終えている者にとっては、これほどに現実的なわれわれの世界が、そのあらゆる太陽、銀河をふくめて無であるとし、これらのことが仏教徒における般若波羅蜜多、「一切の認識を超えた世界」であると結んである。
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