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「実践理性批判」批判(6)

14:原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。
15:気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。
16:しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律
(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。




(考察)

14:同意。しかしカント自らこの原則を破っている。
15:同意。ただ、この項目に何の重要性も感じない。要するに、カント自身の「人間は常に絶対的な格律に基づいて行動すべきである」という主張の押し付けである。その主張の正当性が証明されないと、この15の主張も意味を持たない。
16:「最高善」という概念もカントの主観、勝手な設定にすぎない。自分自身の内面にある道徳律に「つねに新しくされる感嘆と尊敬の念」がある人間など、不気味そのもの、夜郎自大そのものだろう。宗教界の上層部の偽善者にこそたくさんいそうである。「人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する」はほぼ同意。しかし、そういう生活が人間としての「生」を十全に生きる道であるとは思わない。不道徳そのものの人間がその生を最大に満喫することもありうるだろう。つまり、「良心の無い人間」もまた生活を満喫するのである。要するに「創造主(唯一神)」を前提としない道徳律を打ち立てることこそ世界の哲学者に求められているのである。


以上、カントの「実践理性批判」は、キリスト教世界以外では通用しないと思う。そして世界的なキリスト教衰退の現在ではもはやほとんど説得力を持たないと思う。

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「実践理性批判」批判(5)



10:の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。
11:道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの
最高善を促進すべき希望が必要となる。
12:したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。
13:自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう
これらの概念は物自体に他ならない。



(考察)

10:不同意。まったく合理性を感じない。
11:不同意。カントの主観的意見にすぎない。
12:不同意。これは哲学ではない。宗教(キリスト教)プロパガンダである。魂の不死など証明不可能であり、事実として受け入れることは不可能である。
13:不同意。12と同じ。





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「実践理性批判」批判(4)

7:純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。
8:将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由
(frei, Freiheit)である。
9:また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。



(考察)

7:「純粋実践理性」の定義が不明であることは冒頭に書いたが、おそらく「純粋理性」が「世界認識」の理性、つまり「世界はこのようである(ザイン)」であるのに対して「実践理性」は「我々はこのように行動すべきである(ゾルレン)」を認識するための理性だろう。まあ、このような区別が必要か、また区別が可能なのかは彼らドイツ観念論哲学者たちの「趣味」的判断でしかないと私は思うが、「純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する」というのも奇妙な言葉である。世界認識は純粋理性においても知性だけでなく感性によるものでもある、と考えるのが自然なのではないか。なぜ「行動を司る理性」においてのみ知性と感性が同時に働くのか。これは、おそらく「共感」とか「同情」などの「感情」のことを「感性」と言っているのだと私は思うが、原著書を見ないと何とも言えない。とにかく、通常の「感性」の意味で読むとこの一文は奇妙である。
8:舌足らずな文章で、カントがこう言った文脈が分からないとこの文も解釈が難しいが、まあ、要約というのは難しい作業だから仕方がない。この一文を逆に見れば「将来のことが正確に予見できる行動を選ぶ行為は自由とは言えない」という思想があるわけだろう。なぜわざわざカントがこれを問題にしたのかが問題だ。つまり、私が何度も言う「時計仕掛けのオレンジ」問題だ。「善しか選びえない状態で善を選ぶのは自由ではない」ということである。逆に「悪を選べば確実に損をする状態で善を選ぶのは本当に道徳的行為か」と疑問を呈することできるわけである。それは「計算して利益を選んだだけである」からだ。ドストエフスキーが「2・2が4」を嫌ったのもそこである。
しかし「将来の結果を(予見できる)」ではなく「将来における人間の行為を(予見できる)」という文章だと、カントが何を言っているのか、私には判断不能である。

9:「法則」とは「道徳的法則」だと思われるが、そのようなものが存在するかどうかは疑問である。時代や土地が違えば道徳の内容がガラリと変わるのは良く知られた事実だ。ただし、時代や土地に限定されない「普遍的道徳」を考察し作り上げることこそ哲学者のやるべき仕事だろう。また、世の中にはまったく良心を持たない人間もかなりの割合で存在することをカントは無視している。



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「実践理性批判」批判(3)

3:同情から善(Gute)をなすことは好ましいが、義務(Pflicht)と責任(Verantwortlichkeit)とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない。
4:また
快楽義務とは峻別される。
5:偉大にして崇高な名である義務は、威嚇によって意志を動かすのではない。かえって法則を定めるのみである。しかしわれわれはこれを尊敬せざるをえない。
6:その根源は、機械的自然から独立した自由な
人格(Persoenlichkeit)にほかならない。

(考察)

3:文の後半「義務と責任とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない」という部分が日本語として理解困難。「道徳的法則と我々との関係」に「義務と責任が与えられる」というのはどういう意味か。「関係」に義務と責任が与えられるとは? 分かりやすく言えば「我々は道徳的法則を守る義務と責任がある」ということかと思うが、なぜこれほど分かりにくい言い方が必要なのか。そして「のみ」という一語も意味不明である。我々は道徳的法則と我々との関係以外には義務と責任を持つ必要は無いとでも言うのか。
あるいは、「同情から善をなした際の義務と責任は道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない」ということだろうか。日本語としては成立するが、意味はやはり理解しにくい。そもそも、同情から善をなすことに義務や責任が生じるということをなぜ事々しく言う必要があるのか。おそらく、これは「善を為すことは絶対的な道徳的法則に依るべきであり、同情などから軽々しく行うべきものではない」という趣旨かと思う。まあ、奇妙な厳格主義であり、そういう意味かどうかは私は強いて主張はしないが、日本語として曖昧すぎる。

4:当たり前である。
5:「義務」が「威嚇によって意志を動かす」というのは奇妙な言い方だが、実際、我々が義務で行動する場合、義務を果たさない場合の「応報」「処罰」を意識しており、それは「威嚇」だとは言える。しかし、「義務」が「法則を定める」はあまりに不自然である。誤訳でなければ、カントの勇み足だろう。義務というのは社会の上位者が下位者に押し付けることもあり、それは「法律」になることはあっても「法則」になるわけではないだろう。また、社会構成員相互の行為がやがて義務として「道徳」となることもあるだろう。しかし、それは「法則」だろうか。守ってもよいし守らなくてもいいものは「法則」ではない。逸脱可能性という点から見て、法律も「法則」とは言えないが、道徳はなおさら「法則」ではない。
6:「その」の指示内容が何か分かりづらいが、前文の中の「義務」だと解釈するのが一番自然だろう。しかし「義務の根源は機械的自然から独立した自由な人格性である」という命題は正か否か。前にも書いたが、「義務」とは自由の束縛であり、自然の欲望に従うことを「機械的自然」として否定するのはいいが、義務に従うことも隷属でしかないはずだ。つまり、ある選択において、善悪いずれでも選ぶことが可能であることが「意志の自由」なのであって、善しか選べない人間とはまさに「時計仕掛けのオレンジ」なのである。それこそまさに「機械的自然」以上の機械性だろう。

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「実践理性批判」批判(2)

1:純粋実践理性(reine praktische Vernunft)は、経験(Erfahrung)からは独立して意志(Wollen)を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。


2:思弁的理性は、実践理性の理念が感情に与える影響に対しては理由を示しえない。



(考察)

1:2で言う「思弁的理性」と「実践理性」の定義が不明だが、「純粋実践理性は経験からは独立して意志を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える」としている。要するに実践理性とは「信仰(宗教)」である、と言えば単純だが、この段階ではそれを隠しているようだ。いったい、この「純粋実践理性」は「誰の」理性だというのか。「経験から独立している」以上、我々自身でないことは明白なようだ。(人間には経験から独立した認識は「表象」以外には存在しない。)つまり、純粋理性(思弁的理性)では論証不可能な「何者か」の命令を聞くことが、我々にとっての「自由」だと言っているようだ。主人の命令を聞くことが奴隷にとっての自由だ、と言っているわけだ。(笑)

2:実践理性(信仰)の「支配領域」は思弁的理性の支配領域とは異なり、「感情」の分野だ、ということだろう。


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カント「実践理性批判」批判(1)

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」の考察作業が私自身には面白かったので、今度はカントの「実践理性批判」を検討してみようかと思っている。まあ、ウィキペディアに書かれたその概要を検討するだけだ。ただし、概要とは言っても、それを分解すればかなりな量になる。そこで、今回はその分解作業を行う。つまり、箇条書きにして番号を付ける作業だ。容量の問題もあるので、元の文章の転載は省略して、そのコピーをすぐに分解する。分解自体は適当にやる。
今、全体をざっと読んだ限りでは、これは「キリスト教が前提の哲学」でしかない、という印象である。しかも、「自由・魂の不死・神」という「物自体」が認識の対象になりえない、という実に卑怯な論法であるように思えるが、まあ、個別に検討していきたい。

(以下引用と分解)

概論[編集]

1:純粋実践理性(reine praktische Vernunft)は、経験(Erfahrung)からは独立して意志(Wollen)を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。


2:思弁的理性は、実践理性の理念が感情に与える影響に対しては理由を示しえない。
3:同情から善(Gute)をなすことは好ましいが、義務(Pflicht)と責任(Verantwortlichkeit)とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない。
4:また快楽義務とは峻別される。
5:偉大にして崇高な名である義務は、威嚇によって意志を動かすのではない。かえって法則を定めるのみである。しかしわれわれはこれを尊敬せざるをえない。
6:その根源は、機械的自然から独立した自由な人格性(Persoenlichkeit)にほかならない。
7:純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。
8:将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由(frei, Freiheit)である。
9:また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。


10:の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。
11:道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。
12:したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。
13:自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。


14:原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。
15:しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。
16:動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。

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「意志と表象としての世界」の考察(8)

·        71節 いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考えられる欠如的無であり、記号の交換が可能である。 意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが 存在すると考えているものがじつは無であり、かの無こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。


 


·        生きようとする意志は、おのれを自由に肯定したり、あるいは自由に否定すると言われる。第三部までに考察されてきたような、意志が肯定された場合においては、この世界で「ある」ものが生ずる。これに対し、意志が否定された場合における、この世界で「ない」ものについては、最終的には哲学者は沈黙する他ないものといわれている。


·        抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。


·        最終第71節では意志の無への転換が説かれている。意志の完全な消失は、意志に満たされている者にとっては無であるも、すでにこれを否定し、意志を転換し終えている者にとっては、これほどに現実的なわれわれの世界が、そのあらゆる太陽、銀河をふくめて無であるとし、これらのことが仏教徒における般若波羅蜜多、「一切の認識を超えた世界」であると結んである。




(考察)これで最後だが、補説が長い。その補説を(1)(2)(3)として考察する。あるいは補説ではなく、この章の要約の一部かもしれない。

第71節 「記号の交換が可能である」というのが分かりにくいが、後で書かれたことから推測すると、これは般若心経の「色即是空 空即是色」を意味しているのだろう。つまり、この世界のあらゆる物事は実在するとも考えられるし実在しないとも考えられる。簡単な話で言えば、この世界は、あなたという存在が消えても存在するわけだ。しかし、あなたが消えれば、「あなたにとってのこの世界」は存在しない。あなたが消えた後で、この世界が存在するかどうかはあなたには確かめようが無いのである。つまり、この世界を色(実在する現象)と見るか空と見るかはあなた次第なのだ。これが「記号の交換」だろう。あなたはこれまで世界を「+」と見ていたが、それを「-」と見てもいいのである。その反対も同じだ。

補説(1) 世界の実在性と「意志」が関係するかどうかは私には判断不能。まあ私からすればこの部分は「思弁的詭弁」に思える。詭弁というより言葉遊びか。

補説(2)「格律」は、私が前に読んだカントの本では「格率」と書かれていたと記憶するが、「格律」のほうがいい。つまり、道徳律である。ドイツ語の「ゾルレン」であり、英語の「shall」だろう。つまり「~べき」という命題だ。ザインが「~である」という命題。存在論はザインを論じ、倫理哲学は「ゾルレン」を論じる。
「自由なもの(物自体)」という言葉が理解困難。「物自体」という言葉に「自由なもの」という意味があるだろうか。おそらく、「表象」ではなく、本当に「それ自体」であるのが「物自体」だと思うが、それがなぜ「自由なもの」とされるのか。まあ、「他者の表象(他者の主観に縛られた存在)であることから自由である」ということなら理解は可能だろう。
「自他の区別」を捨てた存在は、それが「個体」である必要性は無いわけだから、「同情」や「同苦」が最高度のレベルになった人間(聖者)は自己を保存する理由も無くなる。だが、そこで「自発的に再生を絶つ」必要があるのか、と疑問に思うが、まあ、「再生の必要性」は無いという心境に至るとは言えるだろう。仏教でもキリスト教でも純潔は尊重されたが、それがなぜか、ということを論理的に考察した哲学者はほとんどいないと思う。その中ではショーペンハウエルの哲学はそこに踏み込んではいるとは思う。

補説(3)この節の考察の最初に書いた「色即是空 空即是色」で、東洋人には非常に親和的な思想だろう。ただし、西洋人にはこの思想は一般的に「虚無主義」とか「厭世主義」と見られるようだ。




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酔生夢人
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職業:
仙人
趣味:
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自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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