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女性にとっての恋愛・結婚という「ギャンブル」の悲劇

私の別ブログに載せた記事だが、こちらのブログの方が向いているだろうから、転載する。

(以下自己引用)

「The Great Gattby」は、男の初恋幻想(妄想)とその破滅を描いた、男には突き刺さる話だが、実は、その初恋の対象であるデイジーは非常に頭のいい女性で、夫のトムも、ギャッツビーも、実は彼女の真価を知らないという、「愛される側の不幸」を描いた、女性にも訴えるはずの話である。
たとえば、デイジー、トム、ギャッツビーその他が車で分乗して都会に遊びに行く話の中で、ギャッツビーと同乗しているデイジーが、夫のトムに向かって、こんな冗談を言う。(自己戯画化という、かなり高度な冗談だ。)

We'll meet you on some corner. I'll be the man smoking two cigarettes.

私の持っている翻訳では、このジョークは、こう訳されている。

「じゃあ、街角でお会いしましょう。シガレットを二本くわえて待ってます」

もちろん、シガレットを二本くわえて、というのは「目印に」の意味で、いかにも喜劇的である。だが、夫のトムは、その冗談にいらだつだけである。この、ユーモア感覚の無さは、実はギャッツビーも同じで、おそらく下層階級出身の彼と上流階級出身のデイジーは、まともな会話が成り立たないと思う。トムも上流階級だが、趣味低劣の筋肉脳男である。つまり、デイジーは、夫とも、彼女を愛する男とも、知的に釣り合わないのである。この物語で一番不幸なのは、彼女だろう。
話の最初のあたりで、子供(娘)を産んだ時の話をデイジーがニック(話の語り手)に、こう言う。明らかに、彼女は不幸なのである。

「あのね、ニック、あの子が生まれて、私が何を言ったかというとーーーそんな話、聞きたい?」
「そりゃあ、もう」
「もし言ったら、私がどんなにひねくれたか、わかると思う。ーーー産後、一時間もたっていなかった。トムはどこかに行ったきり。私は麻酔から醒めて、投げやりな気分で、そばにいた看護婦に男の子か女の子か聞いたの。そしたら女の子ですって言われたから、横を向いて泣いたわ。それから、まあいいわ、と言った。女の子でいいわ。せいぜいバカな子になってほしい。女の子はバカがいいのよ。きれいなおバカさんが最高だわーーー」(小川高義訳)

ここで、デイジーが泣いたのは、「男の子がほしかった」からだと錯覚する読者がいると思うが、本当は、生まれた女の子の不幸な人生を予測したからなのである。だから、「女の子はバカがいいのよ」と言っているのである。それは、頭のいい女の子である自分の不幸を暗黙に語っている。

言うまでもないが、先の英文は「シガレットを二本口にくわえている『男』が私よ」と訳するのがより正確だろう。二重の自己戯画化だ。先の翻訳の「待ってます」は意訳(補足的訳)だが、それ自体は悪くない。

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ネットフリックスは新作より古典を放映すべし

ネットに多い、「記事タイトル詐欺」である。タイトルにつられて記事を読んだが、「大幅値上げ」どころか、たった100円の値上げだ。月間100円の出費増って痛いか?
しかし、ネットフリックスのために言うなら、自分の会社で新作映画やテレビドラマを作るのはいいにしても、粗製乱造すぎるだろう。いったい、その制作にどれだけ巨額のカネを使っているのか。それより、過去の名作映画や名作アニメを放映してくれたほうがどんなにいいか。

世界の中には宮崎駿や高畑勲の初期作品を見たことがない層が膨大にいるのである。映画なら、黒澤明の中期までの作品は、何度でも見たい映画である。あるいは、ソ連のレフ・クリジャーノフ監督の「罪と罰」など、ほとんど誰も見たことがないだろう。そういう、隠れた名品を発掘して、世に知らしめることこそ大きな功績になるのではないか。ヨーロッパのクラシック映画にも、名作は多いはずだ。おそらく、映像芸術制作希望者すら、芸術映画の歴史的記念碑である「アンダルシアの犬」や「去年マリエンバードで」さえも見ていないと思う。

(以下引用)

【悲報】Netflix、料金を大幅値上げへ・・・

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Netflix 値上げ 月額 VOD 広告 スタンダード プレミアム 890円 1590円 2290円に関連した画像-01
Netflixが日本で値上げ、最低890円に--広告なしは1590円、最上位4Kプランは2290円

Netflix 値上げ 月額 VOD 広告 スタンダード プレミアム 890円 1590円 2290円に関連した画像-02

 Netflixは10月10日、日本における動画配信サービスの値上げを明らかにした。

 「広告付きスタンダード」が月額790円から890円に、「スタンダード」が月額1490円から1590円に、「プレミアム」が月額1980円から2290円にそれぞれ値上げとなった。


以下、全文を読む

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宿便と芸術創造

朝の散歩に適当な時間(夜明け前後)に少し間があったので、図書館から借りた本のひとつ、石川啄木の「悲しき玩具・他」の中の短編で、随筆とも小説ともつかない作品(遺稿のひとつ)を読んで、しばらくして散歩に出たが、先ほど読んだものの影響か、変な短歌を作ったので、それを先に紹介する。まあ、一見下品だが、これには深い意味があるのであるwww

宿便の糞の長きをひり出して 朝の散歩のこころよきかな

その「深い意味」は何かというと、我々の生活の中の鬱屈は、宿便と同じだ、ということだ。
啄木の歌や散文は鬱屈が特徴だが、その鬱屈は、彼が自ら溜めこんだ宿便だ、というのが私の考えである。彼と同じ境遇や、彼以上に悲惨な境遇の人は無数にいただろうが、彼の歌はその鬱屈をエネルギーとして生まれたものだろう。それを歌として排出することで、彼は生きることができたのではないか。そして、歌である以上、そこには誇張や修飾がある。その加工の段階で、彼は創造を娯楽としていたはずだ。さらに、歌が完成すると、それは宿便をひり出したのと同じ爽快感を与えるわけである。

たとえば、啄木の有名な歌で、こういうのがある。正確に覚えていない可能性もあるが、私の記憶ではこうだ。

東海の小島の磯の白砂に 我泣き濡れて蟹とたわむる

で、この歌について先ほどの散歩の中で考えたのだが、この歌は完全にフィクションだろう、というのが私の推理である。
第一に、この出来事の舞台である「東海の小島」とはどこか。
そして、舞台のさらに小舞台である場所は「磯」なのか「砂浜」なのか。磯浜と砂浜は別の種類だと私は認識している。
第三に、「我」は、なぜ「泣き濡れて」いるのか。
第四に、なぜ「泣き濡れて」いるにもかかわらず、彼は「蟹と戯れて」いるのか。
すべてが曖昧なのである。だから、私はこれをフィクションだ、と推定したわけだ。
もちろん、見事なフィクションであり、その価値は高い。これを「ひり出した」快感も高かっただろう。

まあ、文芸作品というのは基本的にすべてフィクションなのだが、短歌や俳句だと、それを現実に立脚したものだ、と判断する読者が多いだろうから、私は意図的に意地悪なことを言っているわけで、要するに、芸術活動は「宿便をひり出す」のと本質は変わらない、ということだ。で、見事な宿便が出れば、それを世界は素晴らしい文化的財産とするわけである。いや、私は芸術を見下しているのではない。ただ、宿便をひり出すのも素晴らしいと言っているのである。ちなみに、私は若いころは毎朝ほぼ確実に排便があったが、年を取って、食事量が減ったため2日に一度となり、それに伴って「糞の長きを」ひり出す快感が強くなっているようだwww


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野菜食は不健康

日本人の過去と現在の食生活と死因、病因、体位の推移を少し考えれば、ベジタリアンの食生活は健康にとって危険であることは誰でも分かるはずだが、ベジタリアン信仰の人間は意外と多い。少なくとも、ヴィーガンが健康にいいという誤った信念を持っている人は多いようだ。


カネが無いから肉が買えない、という生活の人が多くなると、一番の問題は認知症と脳溢血だろう。それは下の記述から分かる。


菜食生活と脳卒中の関係でいえば、「コリン」という栄養素も見逃せない。コリンは脳の発達や記憶力、機能そのものを活性化させる成分。野菜ばかりを食べていると、このコリンがまったく摂取されず、脳の血管機能も衰える。その結果、脳出血が起きてしまう。


ついでに言えば、現代において店で売られている野菜のほとんどは見かけだけきれいで栄養に欠けているはずだ。そもそも、放射能を使った遺伝子改変作物がほとんどであり、しかも防虫成分が野菜自身に含まれているという。それが体に悪影響を及ぼさないはずがない。まあ、肉にしてもホルモン漬け、薬品漬けだが、まあ、認知症が一番厄介(家族にとって厄介)だから、私は肉食を推奨する。


(以下引用)

オックスフォード大の衝撃研究「ベジタリアンは不健康になる」可能性

血管がボロボロになっていく
週刊現代 プロフィール

実際、厚生労働省が発表している「人口動態統計」を紐解くと、脳卒中は'51年から'80年まで日本人の死因1位になっている(それ以降はがんが首位)。その原因は、まさに日本人が野菜中心の生活を送っていたから。動物性タンパク質と脂肪分が決定的に不足していたのだ。

イライラや疲労感も増す

予防医学に詳しい薬剤師・加藤雅俊氏もこう断言する。


「長生きのために野菜中心生活を送るなんて、論外です。戦前や戦後すぐの日本人の食生活を考えてみてください。


当時は玄米と菜食が中心で、日本人の多くがいまで言うヴィーガン(乳製品や卵も摂らない菜食者)に近い暮らしを送っていました。そのせいで平均身長は成人男性でも150cm台半ばで、寿命も50代止まり。戦後、肉食が広まって栄養状態が良くなり、寿命も体格も劇的に向上したんです。


いまの時代に無理やり菜食生活を送るのは、体を強制的に戦前に戻すようなもの。そんな食生活は、体にとって良いことなどありません」


菜食生活と脳卒中の関係でいえば、「コリン」という栄養素も見逃せない。コリンは脳の発達や記憶力、機能そのものを活性化させる成分。野菜ばかりを食べていると、このコリンがまったく摂取されず、脳の血管機能も衰える。その結果、脳出血が起きてしまう。


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素人政治評論の危うさ(自戒も含む)

「隠居爺の世迷言」記事の一部だが、隠居爺氏の最近の記事には私の目からはまさに「世迷言」と思えるような言葉が多い。氏は日本が属国であることを何度も言及しながら、その属国の総理であることがいかに危険なことなのかの想像力が無く、無責任な放言を繰り返している。安部元総理のようにいくらでも暗殺されろ、と言っているようなものだ。「総理ってのはそういう仕事なんだからいいじゃーん」と、まるで中学生のような発言である。
政治家にも官僚にも、高度な知識と知性を持った人間はたくさんいるに決まっている。そうでなければ国家は成り立たないだろう。隠居爺氏は、「(責任を要求される)毎日の仕事をするだけで偉い」という観点は無さそうである。日本が属国であることは、今の政治家や官僚の責任ではない。仕事の一部は、無理やりに米国に強制され、脅迫されたことを彼らは仕方なくやっているのである。で、隠居爺氏の記事は、脅迫された人間が悪い、と言わんばかりである。その無責任さに、私はむしろ義憤を感じる。
確か孔子も、「その立場でないなら、他人の仕事を批評するべきではない」という意味のことを言っていたはずだが、これはまあ、いつも無責任な記事を書いている私自身に跳ね返ってくる言葉のようだwww しかし、まあ、一応は公正であろうと自戒してはいるのである。
ついでに言えば、石破の総裁選勝利が選挙前から決まっていた、という隠居爺氏の推理は、石破総裁決定の時の麻生の呆然自失の表情を無視した推理だろう。あの顔は演技でできる顔ではない。

石破政権は、日米同盟を(中略)安全保障に貢献することを目指している。」という文章が含まれています。これがいささか腑に落ちません。

 なぜなら、この石破論文の日付けが総裁選前の9月25日になっているからです。つまり9月25日に石破総理は自分が総裁になることが分かっていたような書きぶりです。

というのは、引用文の赤字部分が「私、石破が総理になり政権を取ったなら」の意味として、普通に読めるだろう。



(以下引用)


 石破論文に関してはこの辺で終わりにしようと思いますが、最後に一つ。今回ご紹介した「米英同盟なみに日米同盟を強化する」の中に、「石破政権は、日米同盟を(中略)安全保障に貢献することを目指している。」という文章が含まれています。これがいささか腑に落ちません。

 なぜなら、この石破論文の日付けが総裁選前の9月25日になっているからです。つまり9月25日に石破総理は自分が総裁になることが分かっていたような書きぶりです。そうですよね、分かっていたんでしょう。そもそも総理にもならない政治家が、こんな大上段に振りかぶった外交政策、安全保障政策を打ち出すはずがありませんし・・。

 以前からの私の推理になりますが、今年の4月に麻生太郎がトランプに会いに行っており、石破総理が誕生するのはその時に決まったのだと思います。ですから、総裁選は完全な茶番になります。

 総裁選の目的は顔見世興行というか、揃い踏みをすることで、自民党を国民に注目させ、売り出すことでしょう。総選挙を有利に戦うためです。自民党総裁戦というのは部内の選挙です。仲間内の選挙です。そんなものは最初から根回しされているに決まっています。総裁選が終わるまで誰が総裁になるか分からないなどあり得ません。会社の次期社長が、取締役会が終わらなければ誰か分からないなどということは、余程の事情がない限り起きないのと同じことです。

 では、総理就任前になぜこのような石破論文を公表したかといえば、総裁になった後でこのような夢物語を公表しては責任を問われる、あるいは問題視されてしまうからでしょう。ただし、それと同時に石破政権の狙いはここにあるということをあらかじめ、国会議員を含めて知らせておく必要があるとの判断もあったのだと思います。それゆえ、煮え切らない形の寄稿になったのでしょう。

 それにしても、日本という大国(超大国ではない)の総理大臣が、この程度の軽薄な思考内容しか持っていないことを晒すのは、日本がさらに馬鹿にされることにつながります。日本の国際的地位の低下に拍車をかけることになります。

 石破総理の周りには、官僚を含めてもう少しものの分かった、質の高い人はいないのでしょうか。いないのでしょうねえ。それが日本の自民党政治の限界なのでしょう。

 

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「闇の奥」のこと

「闇の奥」は、白人世界で高く評価されている作品(作者コンラッドはイギリスに帰化した外国人だったと思う。イギリスは、他国人のイギリス・欧米への批評に寛容であるというポーズを取るのが好きである。)で、私は青年の頃、興味を持って読んだが、「何が言いたいのかさっぱり分からない」退屈な小説で、翻訳者の中野好夫(名翻訳者である)も、この作品は理解できない、と言っていた記憶がある。
表面的には白人によるアフリカ植民地支配の「奇妙なエピソード」であり、主人公のクルツに関しては、何のために原住民を手下にして「闇の王」としてふるまっていたのか、その動機すら分からない。そして彼の臨終の言葉「恐怖、恐怖だ」という言葉も何を意味しているのか分からない。そこがかえって多くの人を「これは深遠な作品だ」と思わせる効果があったのではないか。つまり、「理解できない=深遠」という短絡的反応のような気がする。
要するに、一人称独白形式(私の記憶は不確かだが)でありながら、独白者の心理が描かれない、一種の「独白体のルポルタージュ」のような感じで、筆者が何を言いたいかは「読む人の想像に任せる」印象なのである。だから、たとえばアニメ「エバンゲリオン」が作品中に「謎」を(というか、マニアックな単語を説明抜きで)振り撒いて、オタク視聴者の好奇心や探求心を惹き、大ヒットしたのと同じ構造であると私は思う。
なお、ベルギー国王によるコンゴ統治の残虐さについては藤永茂博士のブログに詳しい。


(以下引用)



闇の奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




"Heart of Darkness" in Youth:A Narrative, 1902

闇の奥』(やみのおく、Heart of Darkness1902年出版)は、イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの代表作。西洋植民地主義の暗い側面を描写したこの小説は、英国船員時代にコンゴ川で得た経験を元に書かれ、1899年に発表された。ランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に選出されている。闇の奥というタイトルはアフリカ奥地の闇でもあるが、人間の心の闇、西洋文明の闇をも含意していると考えられる。


この作品の舞台であるコンゴ川一帯にはベルギー国王レオポルド2世[1]の「私有地」であったコンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)が存在し、同地住民に対する苛烈な搾取政策をとったことで欧州各国から非難されていた。

あらすじ

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ある日の夕暮、船乗りのチャールズ・マーロウ英語版が、船上で仲間たちに若い頃の体験を語り始める。なお、マーロウは本作以外にも複数のコンラッド作品に狂言回しとして登場する。


マーロウは、各国を回った後、ロンドンに戻ってぶらぶらしていたが、いまだ訪れたことのないアフリカに行くことを思い立ち、親戚の伝手でベルギーの貿易会社に入社した。ちょうど船長の1人が現地人に殺され、欠員ができたためだった。マーロウは、船で出発し、30日以上かかってアフリカの出張所に着いた。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。またマーロウは、鎖につながれた奴隷を見た。ここで10日ほど待つ間に、奥地にいるクルツ(Kurtz)[2]という代理人の噂を聞く。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物で、将来は会社の幹部になるだろうということだった。マーロウは、到着した隊商とともに、200マイル先の中央出張所を目指して出発し、ジャングルや草原、岩山などを通って、15日目に目的地に着いた。


中央出張所の支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞いた。蒸気船が故障しており、修理まで空しく日を送る間に、再びクルツの噂を聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かってきたが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。


ようやく蒸気船が直り、マーロウは支配人、使用人4人(「巡礼」)、現地の船員とともに川(コンゴ川)を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手のもとへ長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手はやがて死んだ。


奥地の出張所に着いてみると、25歳のロシア人青年がいた。青年は、クルツの崇拝者だった。青年から、クルツが現地人から神のように思われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、"The horror! The horror!"[3]という言葉を残して息絶えた。

影響

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T.S.エリオットは詩『荒地』の初稿で、エピグラフに『闇の奥』の一節 "The horror! The horror!" を引用していたが、エズラ・パウンドの助言により、別の文に差し替えた。詩『虚ろな人々』では "Mistah Kurtz--he dead." の一節を引用している。


村上春樹の『羊をめぐる冒険』『1Q84』などに『闇の奥』の影響が指摘されている[4]

映像化

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オーソン・ウェルズはラジオ・ドラマとして放送。また、映画初監督作として準備していたが、資金調達できなかった(ウェルズは『市民ケーン』を作ってハリウッドでは異端とみなされることになる)。


1979年に映画監督フランシス・フォード・コッポラによって「翻案」され、『地獄の黙示録』として映画化された。ただし、舞台背景はベトナム戦争に変更されている。この中にエリオットの『虚ろな人々』の引用がある。


1994年のテレビドラマ『真・地獄の黙示録』は原作に沿った映像化である。監督はニコラス・ローグで、マーロウをティム・ロス、クルツをジョン・マルコヴィッチが演じ、原住民女性役でイマンが出演した。


キングコング』の原案にも大きく影響を与えたと言われており、2005年リメイク版では登場人物の一人が本作を愛読している。また、2017年の『キングコング:髑髏島の巨神』にはコンラッドとマーロウに由来した登場人物が出てくる他、前述した『地獄の黙示録』の影響を大きく受けている。

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初恋幻想という「巨大な廃墟」

老年の良い点は、若いころに読んでほれ込んだ小説を、「ゆっくりと深く味わって」読める時間があることだ。気になる箇所があればいくつかの翻訳を比較して考えることもできるし、原書の原文(英文)を辞書を引いて確認することもできる。若いころの知的探索が「世界を広げる」ことだったとしたら、老年のそれは「世界を深く」することだと言えるだろうか。
もちろん、知的巨人たちは若いころから「広く深い」知的探求をしてきたのである。だが、「生きるための仕事」に一日の8時間以上を犠牲にしている人間の読書は、限定された時間でのせっかちな食事になるしかない。
ということで、他の欲求がほとんど消えた老齢者には読書は「現実とは別の様相を見せる巨大な世界」の旅で、大きな娯楽になるものだが、私の場合は老齢で遠視がひどくなったため、ベッド(寝床)での読書が不可能に近い状態で、困ったものである。仕方なく、昼間にソファなどでやる読書が中心になり、そうなると、「単なる使い捨て娯楽」のような内容の小説ではなく、自分自身が思考する楽しみを与える作品が好ましい。
最近断続的に読んでいる「偉大なるギャッツビー」などがそれだ。若いころは、「気になる作品」だったが、映画を見た限りでは「面白さ」はあまり無い作品に思えた。しかし、それは「映画(映像芸術)では登場人物の心情を描くのはほとんど不可能である」という、単純な事実のためであった。「ギャッツビー」は、話の筋ではなく、描写の細部にこそ味(というより触発性)がある作品なのである。

で、昨日読んでいる時、気になった箇所を自分で調べた内容をここに少し書いておく。
(先に、その箇所を引用する。赤字はもちろん、夢人による強調。ギャッツビーが憧れのデイジーに再会した時の話だ。彼はその再会を期待してデイジーがその夫と住む家の対岸に豪邸を建て、週末ごとに無数の客を迎えてパーティを開いていたが、5年目に、やっとデイジーをその家に迎えることができたのである。)



この午後の時間にも、現実のデイジーが夢に追いつかない瞬間はあっただろう。もちろんデイジーが不足なのではない。ギャッツビーの幻想があまりに大きく息づいたということだ。デイジーをもーーーあらゆるものをもーーー越えてしまった。



赤字にした部分が何となく「気持ち悪い」印象だったので、英語原文を確認すると、次の文章だった。赤字部分の少し前を含めて転載する。

not through her own fault but because of the colossal vitality of his illusion

翻訳者は、vitalityという言葉の翻訳に迷って「息づく」という、おかしな訳をしたのだろう。しかし、これはその中心的意義どおり「活力、エネルギー」の主旨だろう。で、実は問題は、翻訳者が「colossalという言葉を作者が選んだ意味」に気づいていないことだ。英文に慣れない私が直観で言うのだが、この言葉は英語圏の人間もあまり頻繁には使わない単語だと思う。意味は「巨大な」であり、それに該当する平易な単語はほかにもあるだろう。なぜ作者はここでcolossalという言葉を選んだのか。
それは、この言葉が「コロッセウム(colosseum)」(古代ローマの円形大競技場)を想起させる効果を持っているからだ、というのが私の推理である。言うまでもないが、コロッセウムは「巨大な廃墟」である。まさに、ギャッツビーが構築した幻想が、現実には巨大な廃墟に等しい、「偉大」だが、無益な、儚いものであることを意味するわけである。
そういう意味では、このひとつの言葉は、作品全体を象徴する、重大な単語ではないだろうか。





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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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