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気の赴くままにつれづれと。
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米国の原発特許の所有者が東京にいる。
まずは特許が先願主義であることをご留意頂きたい。
1951年、原子力発電特許は、世界初の高速増殖炉の実験を成功させた米国が権利を有する。
ただし、その原子力発電の発明は、1945年の原爆実験の成果なくして導き出せるものではなかった。
そのため、1945年の核兵器特許所有者は、米国が核兵器特許を失効するまでの期間、原子力発電特許にまで権利が及ぶことになる。
さて、核兵器特許はどのようにして成立したのか――建物も無い、農地も無い、無人の砂漠で核爆発をさせただけでは、兵器としての破壊力や殺傷能力を実証することはできないわけだ。
そこで、原爆を、どのようにして兵器として科学的に実証することができたのか、振返ってみたいと思う。そこに関わった国や代表者が核兵器特許の所有者だからだ。
【1】建物や農地や人がいる生活圏への原爆投下に協力した者:日本軍の中枢
・動画 NHK放送『原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報』2011年8月6日
http://www.dailymotion.com/video/xkev97_%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B-%E6%B4%BB-%E3%81%84-%E3%81%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%A5%B5%E7%A7%98%E6%83%85%E5%A0%B1_shortfilms
文字起こし)ナレーター「原爆投下の5時間前に、原爆機接近の情報を軍の中枢がつかんでいたという新たな事実。」
・NHK>NHKスペシャル>放送内容>歴史・紀行>原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2011/0806/
コピペ)空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。
【2】原爆投下の直後(終戦前)から治療はせず殺傷記録をとった者:日本の科学者1300名
被曝者を使った人体実験をした者:東京大学
それらを原爆報告書として米国に提出した代表者:昭和天皇
・動画 NHK放送『封印された原爆報告書』2010年8月6日
http://www.dailymotion.com/video/xkca1f_%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_news
文字起こし)
米国公文書館スタッフ(字幕)「これが日本の科学者たちが作成した原爆報告書です」
ナレーター「17000人の〈中略〉子供たちが、原爆の殺傷能力を確かめるためのサンプルとされたのです。」
ナレーター「山村さんが命じられたのは、被爆者を使ったある実験でした。〈中略〉山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を、毎日行っていました。調べられることは全て行うのが、調査の方針だったと言います。」
・NHKエンタープライズ>ドキュメンタリー > 歴史・戦争 > NHKスペシャル 封印された原爆報告書
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h16026AA
コピペ)アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に、181冊、1万ページに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。200人を超す被爆者を解剖し、放射線による影響を分析したもの…。子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの…。いずれも原爆被害の実態を生々しく伝える内容だ。報告書をまとめたのは、総勢1300人に上る日本の調査団。調査は国を代表する医師や科学者らが参加し、終戦直後から2年にわたって行われた。
【3】原爆の殺傷記録の報告者となった昭和天皇は、実は敗戦国の君主ではなく、正規兵としての英国陸軍元帥(Field-Marshal)であった
・英国の官報 ロンドンガゼット1930年6月27日付け 英国陸軍省War Office 発表
https://www.thegazette.co.uk/London/issue/33619/page/4028 ⇦右下 (画像添付)
・London Gazette
Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/The_London_Gazette
・Field Marshal
http://ejje.weblio.jp/content/field+marshal
・War Office
http://ejje.weblio.jp/content/war+office
【4】太平洋戦争勃発の翌年1942年1月14日、英国の大手新聞タイムズが、昭和天皇は英国の陸軍元帥のリストから除名の必要無しという英国陸軍省事務官のコメントを掲載していた
・The Times (添付)
http://www.thetimes.co.uk/tto/archive/
◆以上により、第二次世界大戦中の日本軍の中枢が空襲警報発令を差し止めて生活圏への原爆投下を許し、戦時中から原爆の殺傷記録を日本の科学者に取らせ、それを戦後も引き継いで提出したことがわかる。
ただし、終戦直後から軍の中枢は極東軍事裁判にかけられ、裁判に掛けられなかったのは昭和天皇であった。
・国会図書館>大日本帝国憲法>第11条
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html
2018年1月16日 16:00 マネーポストWEB
「とても勉強ができたため、地元を離れて東京に行った兄」と「ロクに勉強しなかったため、地元に残った弟」は、どちらが親孝行なのか? 東北地方出身の男性・Aさん(40歳)は、このお正月、久々に実家に帰省して、突きつけられた現実に愕然としたという。
Aさんは弟との2人兄弟。Aさんは学業優秀で、県下トップの県立高校に進学し、そこでも抜群の成績を残して、都内の名門私立大学に推薦で入学した。Aさんは文武両道を貫き、高校時代には部活でインターハイにも出場。両親にとってまさに自慢の息子だった。
一方の弟は、小学生時代から勉強が大嫌いだった。中学までは兄と同じく地元の公立校に通ったが、弟が選んだ高校は、不良の巣窟となっていた工業高校。運動でも兄に敵わなかった弟は、勉強もせず、運動もせず、もっぱら釣りに没頭する日々を送った。
Aさんはその後も順調に“表通り”を歩き続けた。成人式では、新成人代表としてスピーチを行い、大学卒業後は不動産関係の会社に就職。その後、2度転職を重ね、現在は名前を知らない人はいない超一流企業でバリバリと働いている。一方の弟は高校卒業後、両親のコネをフルに活用して地元のメーカーに就職。工場勤務で日夜汗を流している。
20代後半までは、Aさんが帰省すると両親は大喜びし、周囲にもAさんのことを自慢していたようだった。しかし弟が結婚したことで、徐々にパワーバランスが変わり始める。Aさんが語る。
「弟の結婚式に出た時に、『弟が先に結婚するなんて…』と、人生で初めて父親に批判めいたことを言われたんです。ただ、弟は24歳で結婚して、当時自分は27歳。田舎ではともかく、東京の自分の周りで27歳で結婚するのはかなり早い方だったので、その時は『田舎と東京は違うから』と言い返したんです」
しかしその後、Aさんは仕事が充実し、転職をしたことなどもあって、40歳の今に至るまで結婚していない。弟には、すでに3人の子どもがいる。
そんなAさんが昨年末に帰省すると、Aさんは兄弟のポジションが完全に“逆転”していることに気付かされたという。
「実家に帰ると、両親は私が乗る列車を確認して、必ず最寄り駅まで迎えに来てくれたのですが、今回はそれがなく、こたつに入ったまま『あー、お帰り』というだけだったんです。その時は、『両親も年をとったから仕方ない』と思ったのですが、その後も全然私に話題がふられることはなく、話題はもっぱら孫のことでした。そこでふと気がついたんです。弟と自分と、結局どちらが親孝行なのか、そして“勝ち組”なのかと。
多分、私の収入は弟の倍以上あると思います。けれども、住まいは賃貸で車もなく、家族もいません。正直、貯金もあまりありません。弟は、10年ほど前に一軒家を買っていて、車も2台あります。
私は毎日、通勤ラッシュに揉まれて1時間近くかけて会社に通っていますが、弟の通勤時間は車で15分程度。私は毎日12時間近く会社にいて、平日に夕飯を自宅で食べることはありませんが、弟は毎晩自宅で家族と晩御飯を食べています。
私は週末は2週に1回は出勤、そうでない時は、土曜は昼過ぎまで寝ていて、その後もテレビやインターネットを見てゴロゴロ。日曜も映画に行くぐらいです。一方、弟は3人の子どもとキャッチボールをしたり、釣りをしたり、ショッピングセンターに行ったりしています。
弟は、私の『東京ドームのイエローモンキーのコンサートに行った』『渋谷で○○(有名アイドル)を見た』といった話に、『いいなぁ~、東京は』『やっぱり東京で働いてる兄貴はすげぇなー』と言ってくれるのですが、私から見れば、弟の生活が羨ましくて仕方ありません。
実は今回、実家に帰る前、『そろそろ結婚しないのか?』とか『良い子がいるんだが……』など、両親から結婚のことについて色々言われるのではないかと身構えていたんです。でもそれは取り越し苦労でした。両親はほとんど私に対する関心を失っており、帰る時も『頑張れ』『元気でね』と言うだけでした。両親が、地元に残り、孫を連れて頻繁に遊びに来てくれる弟を可愛がるのは当たり前なのですが、私は居場所を失ったようで、少し寂しかったです」
ただ皮肉なことに、弟はAさんのことを大変自慢に思っており、子どもたちに「兄貴みたいに勉強して、東京の大学に行け」と言っているそうだ。
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