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日本精神が世界を救う、か

マッドサイエンティスト井口博士の「大摩邇」所載記事だが、アマルティア・センの思想が私の「大和(大いなる和)の精神」が世界を救うという思想と酷似しているので転載する。
一応、ユーチューブ動画も載せておくが、私は動画嫌いなので自分では見ていない。(文章は一瞬で読めるが、動画は視聴に時間がかかりすぎて時間がもったいない。)(日本語の文章は不要箇所は飛ばして読めばいい。漢字やカタカナ部分を見れば、その判別は容易である。機能性では世界最高の言語だろう。誤字があっても推理・判読は容易だ。)

(以下引用)
これはインド人のノーベル経済学賞受賞者アルマティア・セン博士の意見ということである。
彼の結論は単純。
日本がなければ地球は崩壊した
ということだ。
なぜ日本がなければ地球は崩壊したのだろうか?
これを我々日本人は肝に銘じてよく理解する必要がある。
アルマティア・センの結論は以下のものである。
日本は世界にとって非常に重要な国だ。
日本は世界の希望である。
日本の調和を重んじ、利他的な精神を基盤とした社会は、人類が未来を築くための手本になる。
「和を以て尊しとなす」の聖徳太子の十七条の憲法の精神が社会の至る所に根付く国である。
日本は性善説の国である。
センさんの結論は非常にシンプルである。
要するに、もし日本がなかったら、ヨーロッパの大航海時代に全世界は白人国家の植民地になり、白人とその奴隷の社会という地球になっていただろうというわけである。
日本人はそれをどうやって阻止してきたのか?
これを我々日本人は今以上に研究しなければいけないわけだ。
要するに、我々日本人がこれまでずっと持ち続けてきた「日本らしさ」、それをこれからもずっと維持していかなければいけない。
これが私の哲学である。
哲学というものが決まれば、それから先は自ずと決まるようになる。
当然そのためには英語や中国語より日本語である。日本語中心で考えること。これが必須条件になる。
日本の作法や日本の様式が重要になる。
しかしながら、戦後一貫してGHQ以降は日本人的なるものはNHKに代表されるメディアから「時代遅れ」「差別的」「権威主義」「談合」というように蔑まれないがしろにされてきた。
だから昔に比べてほとんどアメリカ人と区別できないほどになったわけだ。
1960年代には数学者の岡潔博士がそのことの危険性をずっと警鐘を鳴らし続けたが、いまや岡の危惧は実現してしまった。
それでもまだほんの僅かだが日本らしさは残る。
ここを取り戻すような教育体制・社会体制に戻すのが今の日本にとっていちばん大事なことだと思うのだ。
要するに、前回のメモで見るような白人社会とは全く違う哲学の世界を作り上げることに日本は挑戦すべきだということである。
はたして日本は俺が思う方向に動くだろうか?
これまでの経験ではいつも俺が思う方向へは一度も動いたことはなかった。
だから、この問題も俺の信じる方向とは正反対の方向に動くのではないかと予想する。
いやはや、世も末ですナ!

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消えた文章の復元

パソコンで書いた文章をうっかり消した場合、その復元をするには

ctrl+z

という操作をすればいいらしい。まあ、どういう状況で消えた場合でも復元できるかどうかは知らない。
私の場合は、Tab かCapsLockに触れた場合、書きかけの文章が全部消えることが多いようだ。

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「朱子学」は存在しない(朱子批判と「格物致知」批判)

まず、なぜ「朱子学は存在しない」と言うかというと、朱子は自分自身のオリジナルな思想があるのではなく、それまでの儒学を体系化し、「四書五経」を選定し、「四書」を「五経」の上に位置づけ、さらに、「論語」を四書のひとつと位置づけることで孔子や「論語」を格下げし、「四書」の順序を「大学」「中庸」「論語」「孟子」とすることで、「大学」や「中庸」は「論語」以上の価値があるという「無意識を操作した」のである。
そういう意味では朱子は孔子の「敵」とも言えるだろう。
ただし、「大学」や「中庸」の持つ、一種の見かけの「論理性」は、こけ脅かしには最適のもので、それだけに「政治教科書」や「公務員教科書」としては使用しやすかったわけだ。

その「論理性」が見せかけのものだ、ということを「格物致知」を例にして説明する。

最初に、その「格物致知」がどういうように登場するかを引用する。

「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修(おさ)む」
「その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るにあり」(大学・経一章)

まあ、セールスマンの早口トークを聞いているように催眠術にかけられそうなセリフだが、このどこにも論理性は無い。
念のために、どこでもいいから「なぜ?」という言葉をはさんでみるがいい。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む」「なぜ?」

国を治めるという「君主にしか通用しない話」を、なぜ「公務員」が学ぶのだ?

つまり、ここですでに「朱子学」の欺瞞性が見えるのだが、末尾の「格物致知」が気になる人のために説明をする。

「格物致知」を「物に格(いた)り、知を致す」と読ませる漢学者が多いと思うが、それは習った通りに言っているだけだろう。この「格」は「いたる」ではなく「きわめる」と読むべきである。ちゃんと漢和辞書に「格:きわめる」の意味が載っている。そもそも、「物に至る」では意味不明だろう。「物」とは何か。
この「物」とは「あらゆる物」である。あらゆる物の性質や特質を「極める」のが「格物」なのである。だから、その作業によって「知を致す(知に至る)」わけだ。
だが、その結果が、国を治め、明徳を明らかにすることとどう結びつくのか。物理学者や科学者でないと君主になるべきではないのか。それとも公務員すら学者でなければならないのか。
ここに「公務員教科書」としての朱子学のインチキさがあるわけだ。この公務員を「士大夫」としても「武士」としても同じことだ。要は、「小人閑居して不善を為す」から、「道徳的で難解な教科書でも勉強させておけ」と言う話である。

私なら「その国を治めんと欲する者は、先ずその知を致す」でこの長々しい文章を一文にするところである。そうすれば「君主用教科書」にはなる。だが、あまりにも当たり前の言葉なので、誰も感心しないだろう。それを長々と尻取り文を続けることで、聞いている方は意味が分からなくなり、深遠な思想だ、と思い込むわけである。






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下種と馬鹿の騙しと殺し

聖も論じれば俗も論じる当ブログでは、真偽不明の話でも論じる。特に最新の事件だと事件の真相は分からないのが当然だが、今の時代相や人間性を映す事件なので、報道を転載する。まあ、論じるまでもなく、事件そのものが語るわけだ。
詐欺は下種のすることだが、少しは頭も必要で、殺人は「それで自分の人生も終わる」という計算すらできない馬鹿のすることだ。どちらかと言えば、私は馬鹿のほうに同情的だ。「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ」何とやらということもある。


(以下引用)

高田馬場 女性ライバー刺殺事件で「自業自得」の声「続出」のナゼ

東京・高田馬場の路上で11日、ライブ配信サービス「ふわっち」で生配信を行っていた20代女性が、リスナーの40代男に刺殺された事件。事件発生直後は2人の関係性が不明なこともあり、「若くて可愛らしい女性配信者が、冴えない中年の“弱者男性”に殺された」という構図の理不尽な事件とみられていた。


ところが、時間が経つにつれて世間の受け止めは、「女性側の自業自得」「復讐されるのも無理はない」といった白けムードに変化してきたという。どういうことなのか?


ネットメディア編集デスクが説明する。

「凶行に巻き込まれた東京・多摩市の佐藤愛里さん(22)は、“最上あい”名義でライバー活動をしており、当日は“JR山手線一周企画”の“外配信”中でした。殺人容疑で逮捕された高野健一容疑者(42)は、彼女の配信にあわせて栃木県から“上京”し、現在位置を特定のうえ、サバイバルナイフで数十箇所を複数回メッタ刺しにして殺害したとされます。


路上に倒れた“最上あい”さんの体を蹴る、彼女のスマホで“外配信”を続けるなど容疑者の異常な行動が注目され、極めて猟奇的な犯行というのが第一印象でした。SNSでも、女性配信者に対する男性リスナーの“勘違い”や、プラットフォーム上での投げ銭をめぐる“逆恨み”が噂され、当初は女性側に同情的な反応がほとんどだったのです。


ところがその後、警察の取り調べに対し高野容疑者が、『“最上あい”さんに約250万円を貸したが、返ってこなかったため殺害した』という趣旨の供述をしていることが伝わり風向きが一変します。本来、容疑者の言い分など鵜呑みにすべきではないのですが、容疑者の知人がSNSにリークした“証拠”によって、多くの人々が見方を変えたようです。昨晩から今朝にかけては、≪これって女性の典型的な自業自得だよな≫≪なんだ、女が返り討ちに遭っただけやん≫≪人を騙して金を騙し取る奴の末路よなぁ≫≪一瞬でも同情して損したわ…≫といった意見が急増する状況になっています」(ネットメディア編集デスク)


SNSにリークされた“証拠”は、仮に事実だとすれば、被害者と加害者が入れ替わってしまいかねない衝撃的な内容だという。高野容疑者は具体的に、いったい何に激怒したのか?(次ページに続く)

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「古典」と「アルカイック」

小林秀雄の対談集を読んでいると、啓発的な言葉にしばしば出会う。言った当人自身がその言葉の重要性を知らないで言いっ放しで終わり、その思想を発展させたり体系化することは無いだろうが、いわば「詩人的直観」で社会や人生の貴重な宝石の輝きを目に留めている、という感じか。そういう意味で彼の本は読む価値がある。有象無象の「論理的で体系的な思想や著作」があっと言うまに無価値化するのとは違うようだ。

というのは前置きで、先ほどトイレで読んでいた彼の本(対談集)の中で私の興味を惹いたのが「古典的とアルカイックの違い」と、「ギリシャは海賊文化だ」という指摘である。

前者の事例が、「ギリシャは古典的だがエジプトはアルカイックだ」と「唐は古典的だが六朝はアルカイックだ」というふたつだが、つまり、私の理解で言えば、「古典的とはその後の文明や文化に継続されるもの」で、「アルカイックとは継続されず、ただ屹立するもの」となる。
さらに、「ギリシャは海賊文化だ」とは、ギリシャの海賊行為によって地中海文明のあらゆる文明的産物がギリシャに流れ込み、その後のヨーロッパ文明の源流となったという意味で、「ギリシャ文明が古典的であること」とつながるわけである。
これは、イギリスが海賊行為によって世界のあらゆる文化を略奪し、その繁栄でイギリス文明(文化)が形成されたのと同じである。日本は長い間の鎖国でアルカイック文明だったのが、イギリスその他に侵略され強姦される形で「世界文明」の一要素となったわけである。
強姦されようが、子供は生んだから結構だ、という思想もあるだろう。多くの男たちと遊ぶようになって人生が豊かになって結構だ、という思想もある。まあ、今の日本はヒモ(アメリカ)のための売春が仕事になったとも言えるか。

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機知既知バンバン

トイレというのは大でも小でも滞在時間は基本的に短いので、身を入れた読書はできない。そこで、私は「論語」や「史記」などの中国古典を細切れで読んだりしていたが、「論語」は最近少し真面目に読んでいるので、ラインアップから外れ、そこに「新古今和歌集」が入った。それこそ一首なら数秒で読めるし、「どういう意味か」と考える娯楽性がある。つまり、推理小説と同じ類の読書だ。これを「読者参加型読書」と私は名付けている。

以上は前置きで、先ほど読んだ数首の中に、藤原清輔のこういう歌があった。

おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに

問題は「ひもゆふぐれの」である。ここが仮名書きになっているところが怪しい、というのが探偵の直観だ。で、すぐに気づくのが、その前の「夏衣」との関係で、「ひも」は「夏衣」の縁語ではないか、と分かる。つまり「紐」である。現代人は着物と無縁だから、衣服に紐が付き物だという知識がない。しかし、帯も、長く広い紐だとも言えるのである。したがって、ここは「紐を結う」の「結う」と「夕暮れ」の「夕」が掛け言葉である。
次に、そうすると、「ひも」とその次の「ゆふぐれ(夕暮れ)」とは「ゆう」以外は無関係か、というと、ここでさらに「ひも」は「日も」ではないか、と推理できる。「日も夕暮れの」で、「一日も夕暮れ時になり」の意味になる。

まあ、こういう技巧だけが見どころという印象の歌は、芸術的価値は低いと言う詩人もいそうな気がするが、面白ければいい、というのも和歌作者連の一派だったのではないか。だからこそ掛詞や縁語が和歌の基本技巧になったのである。
ちなみに、藤原清輔は清少納言の父か祖父だったと記憶しているが、機知に富んでいるところが血筋だな、と思える。まあ、機知好みの私は機知ガイかもしれないが。

ちなみに「チキチキバンバン」はOO7の作者イアン・フレミングが書いた童話だったと記憶している。

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論語考察2「我未だ剛なる者を見ず」

孔子が「我未だ剛なる者を見ず」と言うと、或る人が「シントウという者がいるではありませんか」と言う。すると、孔子は「シントウは欲がある。どうして剛なる者と言えようか」と答えた。
(公冶長 第5)

この話から見ると、孔子の考える強さとは精神的な強さであり、そしてそれは「自分の欲に対する強さ」だと分かる。ちなみに、「剛」という漢字は「強さ」よりは「硬さ」が主意かと思われる。つまり、「剛」の音符は「ゴウ」で、「硬玉」の「コウ」に通じるのである。欲に対する強さは、欲に対する防御の硬さ、とも言える。
外部の敵には強い人間も内部の敵である「欲」には弱いのが通例で、そこが多くの英雄偉人の失敗や滅亡の原因になる。
この話の直前に、サイヨ(宰与)という男が昼寝をして孔子がその行動をひどく怒る話があるのだが、たいていの人は「昼寝したくらいで何を怒るのだろう」と不思議に思うだろう。だが、それは孔子にはサイヨの学問に対する不熱心さであり、孔子の怒りは、昼寝をしたいという欲望に簡単に従う弱さへの激怒だったかと思われる。
さらに、その前のあたりに「仁者はほぼ存在しない」という言葉もあり、孔子の考える「仁」のレベルの高さも分かる。
「強さ」も「仁(博愛)」も言葉にするのは簡単だが、問題はその強さや博愛の質やレベルである。だから「巧言令色鮮(すくな)し仁」なのであり、口達者なサイヨの昼寝はその一例だ、と見るべきだろう。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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