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金融崩壊は近いか

私はふぐり玉蔵氏の名前(ペンネーム、ネットネーム)も、その文章の文体も下品で大嫌いなのだが、視点の鋭さや情報入手が巧みらしいことは認めている。まあ、その記事を読むのは5回に1回くらいだが、この記事は「金融システムの(全世界的)崩壊の予兆」として重要性が高いと思うので転載する。記事中の「ばあちゃんの予言」も、かなり的を射ていると思う。まあ、この類の「世界的な金融経済(金融資本主義)の崩壊」は、前世紀末から一部の人が予測していたことで、それを「予言」とするのは「売らんかな」主義といいうか、「バズりたい」ゆえの下種行為とも見えるが、そこは置いておく。

(以下「大摩邇」から引用)

三菱UFJ貸金庫の件とばあちゃん予言

玉蔵さんのサイトより
https://golden-tamatama.com/blog-entry-mitsubishi-ufj-kashikinko.html
<転載開始>

ヒャッハー!


さて、最近は金融業でバカな事件が相次いでますね。


・野村證券社員、1800万強盗&放火殺人未遂


・群馬銀行20代男性行員、新紙幣と交換と偽り5500万円詐取


・野村証券に課徴金2176万円、国債先物取引で相場操縦


・三井住友信託銀管理職がインサイダー取引


・三菱東京UFJ銀行管理職員、貸金庫から10数億円盗む


まぁ、こういうのはそろそろ金融終わりますよ〜


という天からの親切なサインと思った方が良い。


水瓶座の時代では権威と思われていたものが消えてなくなる。
そのため金融業も消えてなくなる。


そろそろ貯金がある人は、銀行からお金を引き出して現物に交換しておく時期なのです。


そもそもが、金融など、狸の葉っぱ詐欺。


いつかドロンと消えてなくなる日が来ますよ。
ワタスはずーっと昔から言い続けて来ますた。



証券とか銀行などというものはそれに付随する詐欺商売。
来年はついに業界ごとぶっ飛ぶことでしょう。



ヒャッハー!


で、以下は最近の野村證券の事件ですね。


高齢者のお宅に、株を購入するのでうん千万用意しといてね。


で、おばあちゃん宅にのり込んで、睡眠薬飲ませてから、お金を奪って放火。
証拠隠滅を図ったんだと。


外人みたいな手口ですね。


以下も酷い。


つい最近の三菱UFJ銀行の貸金庫の事件。


被害額は十数億円だそうですた。


 


犯人はショートカットの女性行員。


こんだけのことをやってるのに名前も出てないのはおかしい。

ショートでかわいらしい雰囲気の女性」“被害総額10数億”三菱UFJ貸金庫から客の資産を盗んだ元行員の“正体”「女優でいえば…」

本来セキュリティ管理が厳格なはずの貸金庫で起こった前代未聞の事件。


三菱UFJは当該行員について詳細を明らかにしていないが、同行関係者は以下のように語る。


「当該行員は、女性です。既婚者ですが、子供はいない。ショートカットで目が大きくて可愛らしい雰囲気。


事案発覚時には玉川支店に勤務しており、窓口業務や貸金庫管理の責任者を務めていました。女優でいえば……」


彼女の「正体」や大胆な犯行手口について、明らかにしたのだった――。


2020年4月から2024年10月までの約4年半、東京都の練馬、玉川の2支店で、貸金庫に保管していた顧客資産を窃取していたことが明らかになりました。


10月31日、利用客から『貸金庫に入れていたものが減っている』といった趣旨の相談を受け、本人に確認したところ、盗んだことを認めた。


資産を窃取していた当該行員は11月14日に懲戒解雇された。


現在も外部の弁護士による調査が進められており、被害者は約60名、被害総額は十数億円。


同行による被害補償がどうなるかにも注目が集まっている」


銀行の貸金庫って、年間2万円ぐらいで借りられるやつですよね。


これは、みずほ銀行の例。


深さ奥行重量制限年間使用料(消費税込)
5.7cm26.2cm40.0cm30kg16,170円
6.2cm27.7cm49.3cm30kg22,440円
8.7cm27.7cm49.3cm30kg29,700円

 


で、重要なのは現金は預けられないってことです。
どこの銀行の貸金庫もそうです。


そのため、盗まれたのは金塊とか宝石だったものと思われます。


預けられるものはこんな感じです。


契約証書、権利書、遺言状その他の重要書類
貴金属、宝石などの貴重品
手形、小切手、公社債券その他の有価証券
預金通帳・証書、印鑑類
上記に準ずると認められるもの
*危険物や変質のおそれがあるものなど、上記以外のものについてはご利用をお断りすることがあります。


被害額十数億円ってことは、犯人さんは、
全部、そこから換金したってことですよね。


どんだけ〜


まぁ、とにかく今後、信用失墜。


貨幣経済は消えてなくなる。
なーんだ、やっぱり銀行や証券会社って業種自体が詐欺なんだ。


その予兆として次々に同じような事件が起きていくことでしょう。


これは何度も載せてるばあちゃんの予言。


ばあちゃんの予言がヤバすぎてワロエナイ
http://blog.livedoor.jp/worldfusigi/archives/3640403.htmlから抜粋


・・・


来年以降はその結果を反映して多くのものが逆転し始める。
少数だったものは少数であればあるほど前に出て
多数だったものは多数であればあるほど後ろに下がる。


そうした中で、社会や時代から抜ける「新たな人々」が増え始める。
それは、お金であるとか、娯楽であるとか、情報などといったもの。
そして彼らは真に必要なものを既に学んでいるか、気付いている。
また、長い間味方も存在しないまま虐げられ続けてきたので
本当の強さを持っている。
彼らがお互いに存在を確認し始めた再来年頃に、
現代が終わって未来が始まる。


・・・
来年、貨幣経済の代わりになるものが生まれ始める。
徐々にそれの有効性が広まっていくが、それは5年後より先の話。


・・・
流行が完全に終わる。無くなる。
日本で今まで安定していて永遠だと思っていた何かが突然終わり、パニックになる。
娯楽産業の大企業のひとつが潰れて、大きな流れ(たぶん連鎖倒産)ができる。


野菜の流通か小麦関連か、日本で食糧問題が起こる。社会問題になる。
経済か治安か、ともかく大都市神話が崩れて、都市脱出が真剣に検討され始める。


この予言は311当時に流行ったものですが、今のタイムラインに完全に合ってる。


今、仮想通貨が爆上がりしてますが、
既存の法定通貨の信頼がなくなり、仮想通貨と現物を取引する経済圏も生まれてくることでしょう。


そして、その後、食糧危機が来る。


いくらお金を持ってても、お米一粒も買えない時代。


まぁ、今のうち現物に変えとけってことです。


こういうサインを注意深く見てれば自衛できる。


本当にありがとうございますた。

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「阿修羅のごとく」リメイクに期待

是枝裕和は、ユーモアセンスがゼロで、私の好みではまったく無いが、逆に「誰も知らない」のような真面目なテーマなら、その「大袈裟な演技」を排除した作風はぴったりだと思う。
下の記事による4姉妹の配役も良さそうだ。
できれば、旧作で使われたトルコ軍楽隊の軍楽を主題曲にした、あの抜群のセンスはそのまま踏襲してほしい。私は旧作を見ていないが、あの曲を聴いただけで、このドラマは傑作だと確信したのである。
まさに、突然、自分の心の中の阿修羅が見えるような曲である。

「阿修羅のごとく」とは、人間関係(愛憎関係)は、女性の平凡な日常生活を戦いにし、当人を阿修羅にもする、ということだろうか。

「コパンのうら」というブログから一部転載。

イメージ 1
先日、ネット上でこんな内容の記事を読みました。
「むかし、ヨーロッパには打楽器がなかった。
だから、太鼓の音を初めて聴いたヨーロッパ人は、
その音をすごくこわがった。
オスマントルコ軍が、
ドラムを叩きながら攻めてくると、
こわくてこわくて震え上がった」

思い出しました。
わたしがこどものころにやってた連続テレビドラマ、
向田邦子原作の『阿修羅のごとく』。
そのオープニングが、ものすごーーくこわかったのを。
興福寺の阿修羅像(写真)がアップで映しだされ、
BGMには、オスマントルコ軍楽隊「メフテル」の名作、
『ジェッディン・デデンCeddin Deden』。

ちょうどわたしが寝る時間帯だったので、
居間のテレビからこのメロディが聞こえてくると、
慌ててふとんにもぐりこみ、がたがた震えてたものです。
この曲、ヨーロッパ人を威嚇するために作られたって
いうんですから、こどもがこわがるのも無理はありません。


(以下引用)
Netflix「阿修羅のごとく」場面写真公開!宮沢りえ、尾野真千子、蒼井優、広瀬すずが四姉妹© 広瀬すず演じる四女の咲子

 脚本家・向田邦子の名作ホームドラマを是枝裕和監督、宮沢りえ、尾野真千子、蒼井優、広瀬すずの共演でリメイクするNetflixシリーズ「阿修羅のごとく」(2025年1月9日世界独占配信・全7話)から場面写真8点が公開された。


 本作は、年老いた父に愛人と子どもがいたことが発覚したのをきっかけに、四姉妹の日常が揺らいでいくさまを追うストーリー。かつて新人時代に向田邦子とともに仕事をしたプロデューサーの八木康夫が企画し、向田を最も尊敬し一番影響を受けたと繰り返し語ってきた是枝裕和が監督・脚色を務めた。長女・三田村綱子を宮沢りえ、次女・里見巻子を尾野真千子、三女・竹沢滝子を蒼井優、四女・竹沢咲子を広瀬すずが演じる。

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 長女・綱子は、活け花の師匠をして生計を立て、夫の死後息子をひとりで育て上げてきた。しかし、活け花の仕事先である料亭「桝川」の主人・貞治とのうしろめたい関係を切るに切れず、密会を重ねる間柄を続けている。次女・巻子は、次女・巻子は、会社員の夫・鷹男と、長男・宏男、長女・洋子の4人で暮らす専業主婦。一見幸せそうに見えるが、鷹男の浮気を疑いながらも何事もないように日々振舞っている。三女・滝子は、都立図書館に勤める司書。四女の咲子とは顔を合わせれば口喧嘩ばかりで犬猿の仲。父の不倫調査のため依頼した興信所の勝又に惚れられるも、恋愛経験に乏しく、素直に気持ちを受け入れられないでいる。四女・咲子は、喫茶店でウエイトレスとして働きながらチャンピオンを目指すボクサー・陣内を献身的に支えている。幼い頃から味噌っかす扱いされてきた、自身の“周囲の人間を見返したい”という望みを彼に託している節も。


 「あーあ、女のきょうだいも、四人いると、デコボコがあってむつかしいわ」(綱子)、「どこで誰といるか、うすうす知ってるのよ。でもね、あたし、黙ってるの」(巻子)、「キレイじゃないわ、あたし」(滝子)、「そりゃ、あたしは子供ン時から、ずっとミソッカスだったわよ」(咲子)……。公開された場面写真では、恋愛観も生き方も違う四姉妹の秘密や葛藤が映し出されている。(編集部・石井百合子)

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幼女殺傷事件に見る現代の無道徳性の問題

両親が警察関係者であることに過剰な意味をつけるべきではないかもしれないが、警察が初動段階で彼の逮捕や身辺操作を怠った、あるいは手心を加えた可能性も無いではない気がする。

子供、特に女の子を育てることは、親にとって非常に大変な時代であるようだ。かと言って、現実的には対処のしようも無いだろう。対処策のほとんどは気休めでしかないのではないか。子供ひとりひとりにボディガードをつけても、それが下の事件の犯人のような人間である可能性もあるわけだ。
つまり、現代が、カネと権力がすべての「無道徳時代」であるのが一番の問題ではないか。
いや、だからといって「教育勅語」を復活させよというわけではないが、それに近い「道徳的指針」を幼時から小学校にかけて子供に教えることは案外大きな意味があるかと思う。
ちなみに、私が子供のころ、我が家には居間の上部に「教育勅語」が掛けられていた。私が(行動はともかく理念として)頑固なモラリストであるのは、その影響が大きいと思う。その意味不明な謎の文面を読める範囲で読んで、その意味を解読しようとしばしばしたものである。

つまり、子どもにとって「好奇心の対象」となるものは、精神的に大きな影響をその人に及ぼすということだ。それが幼女を犯したり弱者を凌辱し殺すことか、あるいは「教育勅語」的なものかは、大きな違いになるのではないか。で、ネット(あるいはテレビの一部)や若者の仲間内の猥談などは前者の巣窟なのである。


(以下引用)

〈加古川小2殺害事件〉「少女が血を流す姿に興奮した」ついに逮捕された男の父は警察官。小柄な好みの女児を物色、尾行、犯行に及んだ鬼畜の極み


配信

集英社オンライン

極めて残忍な犯行だった



風穴をこじ開けたのは岡山県警の執念か


「犯人はあいつしかいないだろ」と言われていた


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秋の日のヴィオロンの

雨続きで、しかも気温が高く湿度も高くて不快だった「我らが不満の夏」が過ぎ、昨日あたりから一気に冷涼な気候となり、実に爽やかである。私の書斎兼寝室の三方の窓から見える風景も、秋の青空と、それを飾る木々の浅緑だ。
ということで、秋の詩をうろ覚えの記憶で書いてみる。中学生のころに読んで覚えた詩で、それ以来あまり記憶に上らなかったので、間違いがあるかもしれない。ヴェルレーヌの詩で、詩の題名は忘れた。「落葉」だったか。上田敏の名訳で知られる詩だ。


秋の日の
ヴィオロンの
溜息の
身に沁みて
ひたぶるに
うら悲し

鐘の音に
胸ふたぎ
色変へて
涙ぐむ
過ぎし日の
思ひ出や

げに我も
うらぶれて
ここかしこ
定めなく
飛び散らふ
落ち葉かな








明治文語文だが、特に古語辞書を引くまでもなく、詩の内容は中学生でも理解できたものだ。古文は日本語なのだから当たり前である。そして60年ほども後まで記憶できたのは、言うまでもなく音韻のリズムによる。
さて、私は認知症だろうか、それとも健忘症だろうか。この両者は画然と違う、というのが私の説である。



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無法の現実界、無道徳のエスの世界

先に、「愛と正義における男女差」の末尾に追記した「蚊居肢」記事一節を再度載せておく。その考察のためである。

(以下引用)




フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03  Février  1960)






つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、



私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)






現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

(以上引用)

現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

という蚊居肢氏の言葉が正確なフロイトやラカン理解によるものかどうかは私は分からないが、とりあえず、「モノ」と「エス」について、あるいは「自我」と訳されている「Ich」について確認しておく。
「モノ」と訳されている「la Chose」は、「モノ」という訳語では大多数の人には意味不明だろうから、「実在物」と訳しておく。つまり、人間の精神が立脚する「現実世界」である。それをラカンは「エス(それ:後で説明する。下線をつける)の確かな参照領域」という、正確(精確)な定義をしているわけだ。精確なために、かえって分かりづらいわけである。「参照領域」という言葉がなぜ精確で、かつ分かりづらいかというと、人間の精神が現実世界に立脚するのは自明であるとほとんどの人は思っているからで、実は人間の精神は「精神内部で独自の運動をしている」のであり、現実世界は実はその「参照領域」でしかないという指摘がピンと来ないわけだ。
「自我」と訳されている「Ich」は、ドイツ語の一人称で「私」の意味であるが、フロイトはこれを「私の中の『真の私』」という意味で「自我」としている。この「自我」という訳語は日本のフロイト紹介者の苦心の産物だろう。しかも、人間の精神の中ではこの「自我」と「精神の他の領域、特にエス(英語の「it」に相当するドイツ語で、これをそのまま「エス」としたのは、「それ」と訳するとかえって意味不明になるからで、これも「精確さのためにかえって分かりにくくなっている」とも言える。)は、いわば「現実原則」とでも言うべき「野生の精神」で、これを「女性性」と見ているのが、蚊居肢氏の末尾の言葉

現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。

だろう。ただ、「モノ」=「母」という等式は、「母」という言葉で「現実界の存在」すべてを包含させるという、非常に誤解を招く言い方だと思う。誰でも「母=女」で、男とは無関係と思うが、男の精神の中にもエスがあり、大きな働きをしているからだ。
私としては、フロイトの

エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する

という言葉がまさに私が主張する「男性と女性における『愛と正義』の比重の差」を実に明確に示していると思う。しかし、それは女性が「現実的」であり、男が抽象的思考にとらわれがちだという話でもある。

ちなみに、蚊居肢氏は、女性原理(現実主義、享楽主義)が世界に蔓延し、男性原理(理想主義、規範主義)が衰退したことで世界は混乱し、悪化したという思想のようだが、まあ、それにも「一理はある」としても、問題はこれまで「悪しき規範」の下で苦しんでいた人たちがかなり存在することではないか。つまり、世界を精神分析すること自体が、単なる知的オナニーではないか、という気がするwww まあ、私の毎度毎度の妄想垂れ流し文章も大きく見れば同じだがww


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大多数の医師たちは不勉強なのか良心が無いのか

政府官僚でマイナンバーカードを持っている割合が10%もいないというのと似た話である。まさに無責任時代。マイナカードの実害より新コロワクチンは明白な実害が膨大にあることを考えると、医療界の無責任さは、ある意味殺人集団である。確実に(自分以外の)国民に死人が出るルーレットを回すことで大金がもらえるルーレットを回す仕事をするなら、それは殺人者ではないか。しかも、その死傷者数は膨大な数になる可能性が高いのである。
新ワクチンに抗議の声を揚げた少数の医師たちの勇気(医療界から爪弾きにされ、政府から弾圧される可能性が極度に高い)には尊敬の念しかない。しかし、大多数の医者たちの金儲け優先主義と良心の欠如は驚くほどである。あるいは、新コロと新ワクチンへの不勉強の結果にしても、生命を預かる仕事をしていることへの責任感があまりに欠如している。

(以下「大摩邇」から引用)

「これまで数十人の医療者に質問しましたが、接種を受けたという人はゼロです」

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=24053
<転載開始>

毎日新聞の記事で、谷口恭さんという医師が語っているものです。

新型コロナワクチン、医療者はどれだけ接種しているのか

毎日新聞 2024/11/25



新型コロナウイルス(以下、単にコロナ)のレプリコンワクチンが物議を醸す中、最近とみに増えてきているのが「医療者はどのワクチンを打っているのですか」あるいは「医療者は本当にコロナワクチンを打っているのですか」という質問です。


レプリコンワクチンだけでなく、すべてのタイプのコロナワクチンに反対する市民活動家や政治家、あるいは医師もいますが、政府や感染症専門医は依然「高齢者や重症化リスクのある人はコロナワクチンを打ちましょう」という方針です。


では、日ごろからそういったリスクのある人たちに接している医療者は、どれくらい接種を受けているのでしょうか。


これを示すデータは見つけられませんでしたが、私が見聞きする範囲では「接種者は驚くほど少ない」のが現状です。果たして、それでいいのでしょうか。今回はこの問題を、私見を交えて取り上げます。


 


驚くほど少ない接種者


私は総合診療の開業医であると同時に医学部の非常勤講師でもあります。先日、医学部1回生の講義でワクチンをテーマにしました。その際、「コロナワクチン接種を受けたか」と質問してみたところ、「接種を受けた」と答えた学生はゼロでした


医学部の学生にとってコロナワクチンはもはや不要なものと認識されているようです。もっとも、医学部1年生は臨床の現場に出ませんから、自宅に高齢者がいるような場合を除いてハイリスク者と接するわけではありません。


では、臨床実習に出る医学部の5回生と6回生はどうでしょうか。こちらは授業で聞く機会がないためにきちんと把握できていないのですが、医学部の学生数人に尋ねたところ、全員が「自分は打っていないし、身の回りで打ったという学生も知らない」とのことでした


では医療機関で働く医師や看護師、その他の医療従事者はどうでしょうか。


私自身興味があるので、10月以降患者として谷口医院を受診する医療従事者に「今秋コロナワクチンを打ったか、または打つ予定があるか」と尋ねています。


これまで数十人の医療者に質問しましたが、接種を受けたという人はゼロです。ある大病院の感染症を担う医師に尋ねたところ、「高額なので一部病院負担としているが、希望者はほとんどいない」とのことでした。私の肌感覚ではありますが、医療者の今秋のコロナワクチン接種率はかなり低そうです。


しかし、それでいいのでしょうか。たしかにワクチンを接種していても感染することがあり、また他人に感染させる可能性もあるでしょう。ですが、「自身がワクチンを打つことで他人に感染させるリスクが低下する」というのは、これまでさんざん言われてきたことではないでしょうか。


有料記事で、読めるのはここまででした。




<転載終了>

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「認知症論」と「退屈論」

トイレに、作者名は忘れたが「退屈論」という文庫本が他の本と並んで、あるいは重なって置いてあるが、それとは別に先ほどネットで「認知症」の記事を読んだので、それと関連させて考察してみる。
言うまでもないが、「退屈論」の作者の名前を忘れた(今思い出したが、小谷野敦である。)ことから明白なように、私も「認知症」であり、昔風に言えば「健忘症」である。私はこちらの言い方のほうが好きだ。何しろ「健康に(あるいは健全に)忘れる」のだから、いい事のように思えるではないか。ついでに言えば、物忘れは「認知能力」の欠陥ではなく、「記銘能力」と「想起能力」の欠陥だと私は思っているが、それなら「認知症」という言い方自体が不適当だろう。ボケ老人でも、トイレを見て、それを食堂だと認知することはないだろう。まあ、ボケが極限状態になったら、それはまた別の話である。

要するに、「健忘症」とは、「覚える必要のないこと」や「思い出す必要のないこと」は覚えないし思い出さないという「健全な思考(脳活動)状態」なのだ、というのが私がここで主張する暴論である。まあ、暴論どころか健全な主張だと思うが、「暴論」は謙遜表現である。(追記:今思い出したが、シャーロック・ホームズは最初にワトソンと会った時、社会的常識のある部分がまったく無いことでワトソンを驚かすが、彼は笑って、今覚えた「自分にとって不要な」知識はすぐに忘れるつもりだ、と言うのである。記憶容量には限界がある、というのがホームズの説である。それが実は真理なら、あなたの知識は本当にすべて「自分にとって重要な知識」か?)

若いころは脳細胞が未使用の状態だから何でも覚えるが、その覚えたものが「脳細胞(神経)の連結」となって、いわば「書き込みされたフラッシュメモリー」状態になり、その書き込みが増えると、それ以上の書き込みは不可能になるわけだ。それが老人の脳の状態で、それ自体は「素晴らしい有益な記憶の宝庫」なのである。しかも、「自分にとって重要な情報が精選されている」から、判断や意志決定が速い。私の場合、文章を書く速度は若いころの数倍速いと思う。
さて、これは「認知症」だろうか。もちろん、「新しい情報」を覚えるのが苦手になるのは欠陥かもしれないが、実のところ、「日の下に新しきものなし」であり、古典的な知識があれば、それと照合して新しい知識の重要性や非重要性は判断できるのであり、単に「次々と新しい情報を覚える必要がある」仕事ができなくなるだけの話だ。つまり、「判断する仕事」なら、老人は死ぬまで現役であり、それが昔の社会の「古老」という存在だったわけだ。

さて、「退屈」について論じよう。
老人の時間は退屈だろうか。1日24時間が自由に使えるが、贅沢はできないという、たとえば年金老人の生活は退屈だろうか。もしそうだとしたら、それはその当人が退屈な人間だからだろう。1日24時間が自由に使えるなど、それこそどこの王侯貴族の生活にも匹敵する贅沢な生活ではないか。
まあ、まず「退屈」とは何かを考察しよう。
「暇な時間」は退屈だろうか。あなたは、小学校や中学校の夏休みの最初の日、これから40日間、自由な時間がある、と考えて、いきなり退屈しただろうか。言うまでもなく暇な時間と自由な時間は同義である。
そして、定年退職した老人は、昔の小説の題名ではないが、「毎日が夏休み」なのである。それは不幸なのか、そして退屈な時間なのか。
もちろん、仕事は無くても、たとえば病気の夫や妻の介護の作業があるなら、退屈どころではないだろう。それは気の毒ではあるが、退屈論とは無関係なので、置いておく。
何もする必要がない時間が膨大に目の前にあるというのが、私の考える最大の幸福であるが、それは私という変人限定の話だとしてもいい。
要するに、世間の人々が想定する「退屈」とは、「有意義な生き方ができていない」という、自分で勝手に想定した「あらまほしき生き方」が前提なのではないか。
で、私に言わせれば、それは自分で勝手に作った手かせ足かせである。皮肉な言い方をすれば、その「有意義な生き方」は、誰かの金儲けの役に立つか、誰かの利益となるために自分を奴隷化することではないか。その「誰か」がどんな存在かは問わない。そして、その生き方は多くの人に賞賛されるだろう。私から見れば、実に気の毒な生き方である。他人のために自分の人生の時間の大半を犠牲にしたのだから、他人から感謝されるのは当然だが、自分自身はそれで満足して死んでいっただろうか。逆に言えば、そういう「立派な人」の人生を犠牲にすることで利益を得た人たちは、自分が恥ずかしくないのだろうか。また、そういう立派な自己犠牲的生き方を子供や周囲に教え、勧めてきた人たちは罪の意識はないのだろうか。
まあ、そういう自己犠牲の生き方にも「精神的満足」があるからいいのだ、という考え方もあるだろうが、いずれにしても「他人の犠牲の上に立って利益を得る」生き方、あるいは行き方は、下劣で卑劣だと私は思っている。

話が「退屈」からだいぶ逸れたし、長くなったので、退屈論の続きはまた別の機会にする。





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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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