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「近代の超克」と「西洋の超克」

「近代の超克」座談会で出席者たちがのぼせ上ってキチガイじみたたわごとを言っているという批評自体はおそらく事実を指摘したものだろう。(私自身はこの座談会の筆記録を読んでいないが、軍国主義時代の国威高揚気分の最中の座談会だから当然そうなると推定できる。)
しかし、では、彼らが論じた「近代の超克」あるいは「西洋の超克」の基本思想は間違いか、と言うとそうとも言えないのではないか。すべてを国粋主義や軍国主義に結び付けるほうが間違いなのではないか、というのが私の疑問である。
というのは、下の記事に書かれた「三つの要点」に私はすべて賛同するからである。
で、私は反軍国主義であり、絶対平和主義であり、そして国粋主義者でも何でもない。むしろコスモポリタン(世界市民)思想家だということは何度も書いている。
要は、はたして「西洋の超克」は悪なのか、間違いなのか、ということである。今の世界を見て、「西洋の超克」を否定するのは西洋人とその隷従者だけではないか?

(追記)おそらく、西洋人は自然を克服すべき敵と考え、日本人は人間は自然の一部であり、自然を母なる存在、あるいは畏怖し尊重し愛するべき存在だと考えているところに両者の文明の本質的な違いがあり、西洋近代は合理主義によって世界の自然や無数の「生命ある存在(異人種や異民族含む)」を軽視し、収奪し、蹂躙して、それを「合理主義」としてきたのではないか。再度言うが、理論(合理主義)とはデジタル的思考であり、そこから抜け落ちる無数の存在を無視して成立するのである。そこに近代が超克されるべき理由があり、このままでは人類は自然に復讐されるだろう。それは宮崎駿が「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」で舌足らずに描いたテーマだ。

(追記2)参考までに「西洋的合理主義思考」の陥穽を小林秀雄の「対話集」から引用する。これは、「最初から結論ありき」の思考であり、西洋人が議論(ディベート)に強い所以である。苫米地英人も、「先に結論を決め、その「論拠」を三つ考えてから議論しろ」という趣旨のことを書いている。そして、それは「考えること」とは別の「思考操作」でしかない。だから相手の話を上の空で聞きながらでも議論できるわけで、真摯に考えるなら、思考の結果として答えが出たり出なかったりするはずだ。つまり、議論に負けることがある。それが当然であり、それこそが「建設的な議論」なのである。むしろ誠実な方が議論に負けたりするから、判定者は見かけの勝敗に誤魔化されないようにするべきだろう。

田中(美智太郎)「数学的に考える場合は、シンボルで考える。しかし数学者なんかでも案外ものを考えてないのじゃないですか」
小林「数字にたよってね」
田中「ホワイトヘッド(注:数学者で哲学者)がそういうことを言っていました。数学は思考の練習になるというが、そんなことは嘘だ。ただシンボルを操作しているだけで実際は考えていないことが多い……。」
小林「そういうことはたしかにあるね。”数学者が実はものを考えていないのだ”というような言葉は、なかなかわかりにくいのじゃないかな。つまり合理的に考えようとすることは、極端にいえば数式に引っ張られている状態になるわけで、ほんとうの考えというものは、合理的にいくものではないんじゃないか、というようなことを私はよく考えますね。」

(以下再引用)赤字と太字は酔生夢人による強調。「デモクラシーの超克」は「デモクラシーの欺瞞性の超克」と言い換えるべきだろう。現在、デモクラシーが機能している国は無い。

そこで廣松は、視点をこの座談会を超えて、もっと広いところに向ける。この座談会とほぼ並行する形で、京都学派のメンバーによる座談会が中央公論誌上で展開されたが、それに目を向ける一方、京都学派の個々の論客の思想の変移をたどり直しながら、京都学派に共通する反近代・反西洋の要素を剔抉しようとするのである。

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

このように、この本の中で廣松が主に行っているのは、京都学派の思想の特異性である。しかし何故廣松は、彼らの思想を改めて問題にしたのだろうか。廣松がこの論文を雑誌に連載したのは1974~75年のことである。その時点で京都学派とそれが代表する反近代の思想を改めて問題化する必要があったほど、世相に逼迫する理由があったのだろうか。

柄谷行人は、60年代に「近代批判」運動が盛り上がったことを引き合いに出しながら、そこでの論脈が戦前の「近代の超克」のなかで論じられていたことをすこしも超えていないと感じた廣松が、戦前に溯って近代批判を検証しなければならないと感じたのではないかと推測しているが(講談社学術文庫版解説)、あるいはそうかもしれない。

ヨーロッパにおいては、近代批判という現象の波が歴史の節目節目で現れている。ロマン主義の運動や、ニーチェの近代批判などはその典型である。西洋人が近代を否定する場合には、自分自身が生み出した文化が否定の対象になるわけだから、それは内在的な否定の形をとる。ところが非ヨーロッパである日本において近代批判が問題となるときには、その近代とは西洋とほぼ同義であると考えられるケースが多い。そのように考える人々にとっては、近代の超克即西洋の超克とならざるを得ない側面がある。しかし、20世紀の時代にあって、その西洋文明を否定してどのような文明を立てようというのか。単に日本人としての先祖返りでは、我々は痴愚蒙昧の世界に逆戻りするということになりかねない。そんな風に廣松は思っていたに違いない。そこで世の中で近代批判の声が高くなってくるたびに、その批判の内実を批判的に検証する必要を感じる、というのが廣松の本音だったのではないか。そんなふうに受け取れる。

柄谷行人がいうとおり、この本は廣松が日本の哲学および批評について書いた唯一の本である。その唯一の本で廣松がとりあげたものが、日本の思想における近代批判の流れであったわけだ。そういう点でこの本は、80年代以降に更なるアクチュアリティを持つようになったとの柄谷の指摘は正しい。80年代以降になると、日本にもポスト・モダニズムの思想が輸入されて、日本の思想業界においても近代批判が声高く叫ばれるようになるが、そのような時代においてこそ、近代批判の視座を問題とするこの本は大きな意味を持つようになるのだと思うからである。

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収容所列島化した日本

「大摩邇」から転載。
学校が刑務所化しているということだろう。自殺のかなりな割合が、人間関係なのではないか。狭い空間に押し込められた動物の群れは殺し合いを始めるという。
そして自営業がほぼ不可能になり、組織内で生きられない人間には将来の展望も無いのが現代社会である。ならば、人生に絶望する時期が早くなるわけである。

「オーバードーズ」という言い方は、まるで薬物(麻薬)中毒みたいに聞こえるが、これは製薬会社への忖度のはずだ。つまり、医薬品の中には自殺に使える薬品が多々あるということだろう。

知識を得るだけなら、学校よりインターネットのほうがはるかに有益である。今や、学校の存在意義は高学歴という虚名(高位奴隷の称号)しかない。そういう時代に対応できない小学校・中学校・高校という収容所に子供たちは押し込められて勉強という苦役をさせられ、囚人同士でいじめあいいがみあい殺し合っているわけだ。

(追記)上記の補足にこの記事を追記する。

担任からも「メガネつぶしたろか」 中1自殺で両親が訴え、賠償命令

大滝哲彰

 大阪市で2018年に市立中学1年の男子生徒(当時12)が転落死したことを巡り、両親がいじめを防ぐ義務を怠ったとして市や担任らに計3800万円の賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁(土井文美裁判長)は27日、市に110万円の賠償を命じた。担任の対応を違法としつつ、公務員の個人責任を認めない判例をもとに、賠償責任は市が負うとした。


 判決によると、男子生徒は18年1月27日未明に自宅マンションから飛び降りた。複数の生徒が「チビ」「メガネ」と侮辱し、ラインで「死ね」というメッセージを送るなどしていた。担任は男子生徒を「いじられキャラ」とみて、「笑いをとるため」に複数回「メガネつぶしたろか」などと発言していた。


 判決は、いじめを強くうかがわせる事実があったのに担任は特段の対応をせず、むしろ助長したと指摘。「いじめを防ぎ、生徒の安全を確保する義務を怠った」と述べた。


 市教育委員会は取材に対し、「判決の中身を精査して、慎重に対応を考える」とした。



(以下引用)

2024年の日本の小中高生の自殺者数が529人で過去最多に。女子が男子を初めて上回る

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=27009
<転載開始>

2024年の小中高生の自殺者数、529人で過去最多…女子が初めて男子を上回る

読売新聞 2025/03/28


厚生労働省と警察庁は28日、2024年の自殺者数の確定値を発表した。


小中高生は前年より16人多い529人で、統計のある1980年以降、過去最多となった。男女別では、女子が初めて男子を上回り、女子中高生で計38人増えた。



小中高生の自殺者は、男子が239人(前年比20人減)で、女子が過去最多の290人(同36人増)。小中高生別では、高校生は男子が166人で女子が185人、中学生は男子が64人で女子が99人。小学生は男子が9人、女子が6人だった。


原因・動機(重複含む)は、学業不振や学友との不和などの「学校問題」が最も多く、「健康問題」や「家庭問題」が続いた。


子どもの自殺対策に取り組むNPO法人「 OVA」(東京)の伊藤次郎・代表理事は、女子の増加について、「10歳代女子の医薬品の過剰摂取(オーバードーズ)による自殺未遂が男子よりも増えている。悩みの深刻化だけでなく、SNS上で自傷・自殺に関する情報にアクセスしやすくなっていることも影響している可能性がある」と指摘している。


日本臨床救急医学会などの調査では、自殺未遂者で救急搬送された人は、オーバードーズによるケースが多く、女性では約7割を占めた。


OVAに寄せられている10歳代以下の悩みの相談内容は、「孤独感・孤立感」が約3割で最も多く、「周囲の大人が子どもの変化を敏感に感じ取り、声かけすることが重要だ」と話す。


全体の自殺者数は前年比1517人減の2万320人で、過去2番目に少なかった。男性は1万3801人、女性は6519人だった。


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恋愛と結婚とセックス

私が問題にしたいのは、引用した部分の末尾にある

そして、理由はよくわからないですが、「婚姻数」が、昨年同月比で 17%も減っています。

ということで、ワクチン関係の話はもううんざりなので、ワクチン信者(まあ、狂信者である。)はどんどん死んだほうが世のため人のためなのではないかと思っている。

で、「婚姻数の低下」、いや激減は、「理由はよくわからない」どころか、明白だろう、というのが私の考えだ。案外岡氏もとぼけているだけではないか。
それは、

1:結婚適齢期の男女の貧困化

2:結婚のメリットの低下(家事は電化製品がやり、食事はコンビニがある)

3:非婚者への社会の「風当り」の低下

が主な原因だろう。そのほかに「仲人という存在の消滅」も大きいかもしれない。

つまり、(個人的特性は無視して)総合的に言えば「結婚のメリットがなくなり、非婚のデメリットが低下した」という、実に当たり前の話なのである。さらに言えば、「セックスへの幻想の低下(愛とセックスの分離)」もあるかもしれない。性的面を露骨に言えば、セックスの前提としての「恋愛」が消滅し、さらに「愛と性欲の調整制度」としての結婚の意味が低下したということだ。「結婚は自由なセックスの障害になる」、という、昔なら「道徳的に不健全な思想」が、今の「自由性交賛美」時代ではほとんど当たり前になったわけである。

念のために言えば、私は頭が古く固いので、「自由性交賛美」思想が大嫌いである。自由性交は、私には「尿意を催したので小便する」ようなものに見える。できれば処女と童貞のまま結婚し、一生添い遂げる「偕老同穴」が恋愛と結婚の理想ではないか、と思っているが、まあ、これは封建時代の化石思想だろう。
他のどの男(女)ともセックスしまくりの相手に恋愛できるだろうか、というのが私の疑問だ。それなら、自分の目の前で、愛する女(男)が別の男(女)とセックスしているのを平気で見ていられるだろう。そうでないなら、それは自然な心情ではないのであり、自分で自分をだましているわけだ。まあ、そういうフリーセックスは原始時代の状態か、人間の動物化だろう。性病も全員で共有されるwww
もちろん、「過去は問わず」に、結婚後はお互いに貞操を守るというのも立派な姿勢だと思う。結婚してから(結果的に)その相手に恋する、というのも素晴らしい。実際、結婚しないと相手の本当の正体は分からないとも言える。そして、子供を持つ・育てるということも結婚しないとなかなか経験できないことだし、未婚で子供を持つことは(特に女性にとって)たいてい悲劇になる。

(以下引用)

厚生労働省の人口動態統計速報で今年1月の「死亡者数」が前年同月比で約14%の大幅な増加

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=26957
<転載開始>

2025年1月の人口動態統計速報より

厚生労働省



・出生数は 4.4%の低下


・死亡数は 13.9%の増加


・人口の自然増減は -24,451人


そして、理由はよくわからないですが、「婚姻数」が、昨年同月比で 17%も減っています。


ワクチン接種後のIGG4レベル増加は「コロナ感染リスクの上昇」と関係していることを示した論文

打てば打つほど感染しやすくなるということを証明した形ですかね。

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「伝統主義者」としてのヴァレリー

松岡正剛の「千夜千冊」の中から、ヴァレリーの言葉が気に入ったので抜き出しておく。
私の解釈では、1は、我々には未来は(幻想や空想としてしか)見えず、確かに見えるのは過去と伝統だけだということだろう。
2の「人間の最も古い要請」とは、いかにすれば我々は幸福な社会や幸福な人生を可能にできるか、ということだと解釈しておく。これが過去の哲学の根本問題ではないか。そして、その答えは「新しいもの」の中にあるというのが人類の希望であり続ける。


1:「我々は後ずさりしながら未来に入っていくのです」


2:新しいものの中で最もすばらしいことは、
人間の最も古い要請にこたえることだ。

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ラム酒が一本!

ラム酒というのは私の憧れの酒だが、まだ飲んだことが無いし、売っているのを見たこともない。
沖縄はサトウキビの名産地なのだから、ラム酒を作ったらどうか。
「海賊パーティ」などしたくなるのではないか。


エンヤラホイ、
それにラム酒が一本! (「足長おじさん」中の「宝島」の引用)

Avast!Belay! Yo ho ho,and a bottle of rum.

ちなみに、ヘミングウェイの好みのカクテルだったというダイキリの酒もラムである。
アグネス・ラムとも鬼娘のラムともたぶん関係はない。

(以下引用)

ラムの製法

ラムの原料はサトウキビである。まずは、その堅い茎を絞ってジュースを抽出するのだが、歴史の項でもふれている通り、サトウキビジュースはその全てが砂糖に変化する訳ではない。結晶化して砂糖になる部分と、結晶化しない=砂糖にならない部分が同時に出来る。この砂糖にならない部分のことを、日本語で「糖蜜」と言う。全世界のラムの8割は、この糖蜜から造られている。これを「トラディショナルラム」という。では、サトウキビの収穫から順に説明する。

1.サトウキビの収穫



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サトウキビは葉で光合成をし、茎の中に蔗糖を貯める。収穫は糖度がピークに達する乾期に行う。サトウキビは、ナタを使って手刈り、またはトラクターを使った機械刈りをする。サトウキビは刈り取った後、加水分解と酸化がはじまらないうちに圧搾し、次の工程に進めなければならない。




2. 洗浄〜圧搾



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大きな滑り台のような機械で洗浄されたサトウキビは、カッターで20cmほどに切断される。切断されたサトウキビは、シュレッダーで繊維を裂かれた後、ベルトコンベアーで運ばれて3〜5個の歯車に順に押しつぶされながらジュースを絞り出される。

3. バガス



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サトウキビを絞り尽くした後に残る繊維をバガスという。通常このバガスは蒸留所のボイラーにくべられて燃料となる。その他、紙や建築資材、飼料肥料に再利用されている。

4. 砂糖と糖蜜の分離



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サトウキビジュースを加熱・濃縮をすることにより、多くの糖分を含む糖液が出来る。これをバスケット型の遠心分離器にかけて、砂糖の結晶と糖蜜とに分ける。ここで分離された糖蜜がトラディショナルラムの原料となる。

5. 発酵



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酵母が糖分を分解し、エチルアルコールと炭酸ガスに変化させるプロセスを発酵という。この発酵の段階で、ラムの特徴となる芳香成分の大部分が形成される。カリブ海での一般的な発酵時間は24〜36時間で、発酵後のアルコール度数は平均4〜8%である。

6. 蒸留



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カリブにおいて、大多数はステンレス製の柱状型連続式蒸留機を用いる。他、一部では単式蒸留機も用いられている。発酵済の液体を熱することにより、気化したアルコールはコンデンサーを通り液化される。カリブでの一般的な蒸留後のアルコール度数は約70%である。

7. 熟成



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蒸留後のアルコールは、ステンレスタンクで3ヶ月〜12ヶ月休ませながら加水されボトリングされる。これをホワイトラムという。また更に2年前後の間、樽に寝かせてからボトリングされるものをゴールドラム、3年以上の長期熟成をするものをダークラムという。糖蜜を原料とするトラディショナルラムに対し、サトウキビジュース100%を発酵・蒸留する製法がある。19世紀にフランス植民地で始まったこの製法のことを「アグリコールラム」という。また、サトウキビジュースを一度加熱し、シロップ化させた「ハイテストモラセス」を発酵・蒸留する製法もある。ここでは、主な製法を紹介したが、「サトウキビを原料とした蒸留酒」という条件を満たせばラムとなるため、他にも様々な製法が存在する。


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中世キリスト教の「キリスト教徒の金貸し業禁止」とユダヤ人

「中世史の保管庫」というサイトからの転載だが、言うまでもなく、どこまで信頼できるかは保証できない。
私はカトリックの中枢自体がユダヤ人(偽ユダヤ人・偽クリスチャン)であり、金貸しをキリスト教で禁じることでユダヤ人による金融業の独占を図ったと見ている。本当の大資本家はユダヤ人であることを隠していたわけだ。キリスト教徒から迫害されるユダヤ人は本来のユダヤ教の馬鹿正直な信者で、その生活態度を隠さなかったから迫害を受けたわけである。
金融業はカネがカネを生み、時間が味方して資産を増やすのだから、時代が進めば金融業者が社会のカネの大半の所有者となるのは理の当然である。何の生産技術も要らない職業だ。借金を返せない者からは担保を押収すればいい。そこで資本家と暴力装置との癒着も生じる。


(以下引用)

○ユダヤ人と金貸し


(1)ユダヤ人を取り巻く経済環境の悪化

 A.ユダヤ人を所有している君主・領主は彼らから金銭を得ようとし、彼らがかなりの収入をもたらす限り、群集の暴力・教会の干渉から守るために出来る限りのことをした
 B.しかしユダヤ人をめぐる状況が悪化して「ユダヤ人はいかなる基本的権利も持たない」という観念が発達すると、西欧でのユダヤ人の経済生活も大きく変化する。「商業路をユダヤ人が旅するのは危険となる」「次第に強力となるギルドはキリスト教という宗教的枠組みを持つので、必然的にユダヤ人を排除した」「ユダヤ人が武器携帯を禁止されると間もなく、彼らの土地所有を禁止する法も現れた」(封建的な土地所有には名誉の観念が付随し、騎士の奉仕義務が伴っていたから)
 C.ユダヤ人としても、土地を持っていたら「重税を課され、民衆の略奪にあう」というデメリットがあるので、資産を有するユダヤ人はそれを貨幣・宝石に換えた(この方が容易に隠せる)


(2)高利貸し

 A.ユダヤ人に対する最もありふれた非難は昔から「彼らが高利貸しである」ということだった。既に6世紀にトゥールのグレゴリウスが「高額の金を2人の元高官に立て替えて、結局殺されてしまったユダヤ人」について記述している
 B.しかし、商人としての活動には場合によっては信用貸し・貸付を行うことがあったとはいえ、ユダヤ人と云えども旧約聖書(の何箇所かの記述)に基づいて高利貸しは禁止されていた。実は中世のキリスト教神学も、旧約聖書の同じ部分に基づいて信者の高利貸し禁止を説いている

【高利貸しの解禁】
 C.12世紀になって商業が発展して貨幣・債券が流通するようになると、高利貸し禁止問題はキリスト教・ユダヤ教双方の宗教上の権威者にとって大きな問題となる。中世初期には「資本家であった聖職者が、徴税人や商人とともに金貸しの役割を果たしていた」にもかかわらず、教会は常にその行為を認めなかったし、それどころか一層強く反対するようになった。第3回ラテラン公会議(1179年)では「利子を付けて金銭を貸すキリスト教徒はキリスト者としての埋葬に相応しくない」と宣言した
 D.しかし「王(軍隊の維持・拡充のため),商人(事業のため),高位聖職者(堕落した贅沢な生活を続けるため)」にとって、借金はますます必要となっていた
 E.こうした状況において、経済的環境の悪化していたユダヤ人にとっては「金貸しこそが自分たちに残された唯一の生計の道である」と、ユダヤ教のラビたちも認めざるを得なくなる。タルムードにある禁止条項の厳格な適用を止め「代わりの仕事がなければ不本意な悪は許される」として、金貸しを解禁した

【高利貸しへの反感】
 F.元々嫌われていたユダヤ人がヨーロッパで金貸しを始める(12世紀~13世紀初頭)と、ユダヤ人に対する敵意は更に強まった。借金を返せない・返したくないキリスト教徒の債務者は、ユダヤ人に対する反感を「自分たちの苦境を救うための手段」として利用した
 G.暴動・虐殺の中で「運良く借金証文が破棄され、ユダヤ人の所有者である王が返済を要求できなくなる」というのが、債務を帳消しにする上手い方法だった


(3)キリスト教徒の高利貸しの登場

 A.13世紀に現れた急速に広まった『教皇直属の両替商カオルシーニ』は、2・3世代の間にユダヤ人を高利貸しの職業から追い出していく
 B.教会はユダヤ人・キリスト教徒にかかわらず金貸しを禁じる立法を繰り返した。ヴィエンヌ公会議(1311年)では「利子付きで金を貸すことを異端と等しく扱う」とまで主張した。にもかかわらず、銀行業が特にイタリアで発達したため、必然的にこうした法の実際の適用は緩和された
 C.「『適当な利子』は、借金返済までにかかる時間に得られたであろう利益を貸し手が損失したのだから、教会法に反しない」(14世紀末の神学者の主張)。コンスタンツ公会議(1414~18年)でも金貸しを暗黙のうちに承認している。「『適当な利子』を11%に固定すべき」と宣言したが、これは以前から普通に行われていたことの乱用を規制したものだった(銀行から容易に融資を受けるようにして交易を盛んにする狙いがあった)
 D.キリスト教徒の金貸し(カオルシーニor「ロンバルディア人」とも呼ばれた)が次々と登場したので、ユダヤ人が対抗することはほとんど不可能だった
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宗教と信仰

ご自身も(たぶん「現世利益」的な)何かの宗教の信者であると過去記事から推定できる「神戸だいすき」女史の言であるだけに、他宗教批判は「片腹痛い」と感じないでもないが、書かれた内容自体はまともである。まあ、自分にとって何かの利益があるなら信じればいいだけだ。だが、統一教会の場合は「邪悪な組織による政治支配」という社会的害悪があまりにひどすぎた。そして、ここに書かれたように、それが今後衰退し消滅するなら日本にとって最高の幸運だろう。

わざわざ言うまでもないが、「かたはらいたい」は本来は「傍ら痛い」で、他人事でも自分のように苦痛に感じることだが、現在は「片腹痛い」が普通に通用しているので、そう書いておく。
子供のころマラソンなどさせられると本当に「片腹」が痛くなったものだ。
なぜあんな苦行を子供に強制したのだろうか。
艱難汝を玉にすとは言っても、その艱難が原石を叩き壊しはしないか。私なら、子供が苦痛を感じていると見たら即座に「はい、君はそこまででいい」とする。それで脆弱な人間に育っても、いいではないか。走り競争なども「得意な者」たちだけでやらせればいい。正しい走り方を教えもしないで、全員に競争させるほうがおかしいだろう。無責任な話だ。人間は競走馬ではない。(競走馬すら、「正しいトレーニング」をして育てるのである。)

(以下引用)


私は、「自分は統一教会です」と、名乗る人には出会ったことがありません。

本当に、いるの?と、思うんだけど、現実に施設があるんだよね?

私の認識は「朝鮮半島から出自して、日本を征服してやろうという、むしろ政治的な野心を持った団体」だと思う。

教義が脆弱なのは、朝鮮半島から出てくる宗教は、おおむねキリスト教を崩した、ちゃんぽんみたいなもので、幸福の科学みたいに、良さげなものは何でも取り入れてそう。

人目を引いたのは集団結婚式ね。

そうそう、因縁を消すためにといって数千万もするツボを売りつけたんだね。

悪いけど、こんなものに騙されるのは、だまされる本人の責任だと思うよ。

でも、不幸をかこつ人の弱みに付け込んで、大金を巻き上げ、

今度は、それを資本に、政治家を篭絡して。

政治を支配し始める。日本の政治が、日本人を投げ捨てて朝鮮に奉仕する、

これが、なんと、アメリカでもそうだったんだよね。


ところが、安倍晋三は統一教会に取り込まれていた。

確か、トランプも、祝福の電報を送ってたよね。


けれど、この団体の寿命も、もう尽きるところまで来てしまった。教祖が死んだあと、確かな後継者を据えられず、息子たちはいがみ合う。


創価学会と同じで、あとは時間の問題。


トラブルは「詐欺まがいの集金》「宗教2世が、親の犠牲になる」政治への強い干渉かな?

でも、日本の有力な政治家は、みんな頭からくわれていたから、誰にも対処できない。


日本国内にとどまっている間は、まだ、大丈夫だったけど、アメリカ民主党の重鎮まで言いなりだということになった時、

つぶそうということになったんだろうねえ。

それで、安倍暗殺物語のストーリーに一筆加えられたというわけね。

ということは、統一教会を処分するのはトランプということか!!

そして、創価学会の運命も、まるで双子みたいに似ているのよね。

なるほど、確かに戦後レジームは終わるわな。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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