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気の赴くままにつれづれと。
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クルディスタンと呼ばれる地域はトルコ、イラク、イラン、シリアの国境を越えて存在する[18]。トルコでは共和国の建国時からトルコ・クルド紛争が続いている[11]。トルコのクルド人は、トルコ政府によってクルド語の出版・放送の禁止、法廷や役所など公的な場所でのクルド語の使用禁止、クルド語の地名のトルコ語への変更、「山岳トルコ人」という名称などの抑圧を受けてきた歴史がある[注釈 10][12]。
1990年代以降、トルコ系クルド人がJR蕨駅を中心とした地域に定住し始め、その多くが、在留許可を持たない非正規滞在の状態で、地方自治体により実態の把握がなされないまま暮らしていた[33]。ある支援者[注釈 11]によれば、1980年代から日本に暮らしていたイラン国籍のクルド人を頼って90年代に渡日したトルコ系クルド人が[35]、東京に近く生活費が比較的安価な埼玉県川口市や蕨市に住むようになったとされる[注釈 12]。また90年代のトルコ南東部ではクルド人への弾圧が強まっており[注釈 13]、また日本がトルコともビザ免除協定を結んだため、この制度を利用して来日する例が多かった。[37][注釈 14]。
心配事があったり、将来に向けて不安があったり、といった話は頻繁に耳にするけれど、これは不確定な未来を悲観的に観測しているものだ。悲観的観測は人間の本能的なものであり、動物よりも優れている能力といえる。その不安が現実となる確率がどれほどかで、人それぞれ具体的には大きく異なるが、しかし、今日を生きることができないほどには困っていない。自殺を具体的に考えるほどでもない。とりあえず、現代社会には、困窮している個人を助けるための制度が数々設けられている。たとえば、良くないことだが「借金」というシステムがあって、これで一時的に救われることが多い。もちろん、金では解決できない問題も多々あって、多くは愛情や憎悪のような感情的な対人関係に起因しているだろう。
たしかに、自殺をしたり、犯罪に手を染めたりといった人が、ある程度の割合存在する。ただ、ほとんどの人たちは、毎日を生きて、明日のための準備をする。まだ死にたくないと考えていて、危険を避ける行動を選択する。つまり、心配し不安を抱えていても、そんな毎日を続けたいと思っている。未来にはなにか良いことがあるのではないか、という希望的な観測もするだろう。そんな淡い期待のために身銭を切る(たとえば、宝くじを買う)。今は良くないけれど、良いことがいずれやってくるだろう、と妄想する。今は良くないけれど、最悪ではない。自分よりも困っている人たちがいるはずだ、とも考える。
長寿を願うのは、最悪ではない日々を長く続ければ、なにか今より良い状況が訪れるかもしれない、長いほどその確率は高くなるはずだ、といった観測による。ぼんやりと、そんなイメージというか、言葉にならない感覚を持っているはず。言葉にならないのは、言葉にしたことがないからで、そんな将来のことを他者に話すなんて恥ずかしい、といった気持ちが言語化を抑制している。
僕は、そういう日常というのが、ある種、幸せの一例なのではないか、と考えている。否、考えているというよりは、評価している、といった方が近い。もっといえば、心配や不安というのは、幸せを基準とした観測なのだ。現在が明らかな不幸ならば、さきの心配をする余裕さえなくなる。将来に対する不安は、むしろ小さく感じられるだろう。
人間の感性というのは、現在の絶対値ではなく、現在の変化率に支配されている。これは、たとえるなら、速度は体感できないが、加速度は感じることができるのと似ている。
逆にいえば、現在の状況がプラスかマイナスか、といった尺度は存在しない。幸福か不幸かは測れないのだ。ただ、どちらへ近づいているか、その変化だけが感知される。
12. 赤かぶ[241097] kNSCqYLU 2025年4月18日 01:19:15 : vg6V5K7TqU : UHl0T1pZQkd5dnc=[2376] 報告 |
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訳者の村上春樹がいうように、カポーティの小説「ティファニーで朝食を」は映画でのオードリー・ヘップバーンの印象があまりに強烈だったので、小説本来の雰囲気が誤解されて伝わっている感がある。映画の中では成熟した女性のオードリーが、これもまたタフガイ然としたジョージ・ペパードと大人の演技を交し合っていた。だがこの物語は本来、女性を主人公にした青春小説というべきものなのだ。 なにしろ女性主人公のホリー・ゴライトリーはあと2か月でやっと19歳になるという設定だし、小説の語り手でホリーの男友達たる青年も、やっと少年期を脱したばかりという雰囲気をたたえている。ホリーはこの青年をいつでも、自分の兄の名で呼んでいるし、青年が自分にむかって恋愛感情を抱いていると感じても、それに対してまともに応えようとはしない。二人は恋人同士になるにはまだ幼すぎる。二人は大人になりつつある、中途半端な時期を生きている者として、描かれているのだ。 だがホリーは普通の少女とはあまりにも違った少女時代を生きてきた。彼女はたった14歳で、自分の庇護者となったテキサスの獣医と結婚関係を結んだのを手始めに、数多くの男と性的関係を持ってきた。それは、兄のフレッドとともに、親の保護から見放されて孤児となり、他人の世話にならねば生きていけなかったという境遇を彼女なりに受け入れた結果だった。 だから小説の中でのホリーは、時には娼婦を思わせるようなきわどい生き方をする人間として描かれることもある。だが彼女の18歳という若さが、その生き方に複雑な陰影を与える。それが語り手である青年と聞き手である我々に、ある危うさのようなものと、その背後に見え隠れする若い女性の未熟ながら輝いているような生き方を感じさせるのだ。 その危うさと未熟な輝きとの感覚が、この小説に独自の色彩感をもたらしている。 小説にはこれといって複雑な筋はない。ホリーを巡って色々な人物が登場し、その多くは最後にはホリーを見捨てて消え去ってしまう。ホリーを妊娠させた男も、ホリーが今までに愛したただ一人の男であったにかかわらず、ホリーが問題を起こして、自分の身に不都合になりそうだと感じると、さっさとホリーを捨てて妻子とともにブラジルに去ってしまう。 だがホリーはそんな自分の運命を嘆いて見せたりはしない。過去は過去として受け入れ、新しい未来を自分の手で生きなおすべく選択するのだ。 |
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