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男の子と女の子

「隠居爺の世迷言」から記事を全文転載。まあ、部分転載でもいいが、どこもカットしにくい。新コロ関連の部分をカットしてもいいかな、とは思う。それこそ耳タコの話題だからだ。しかし、恋愛や男女関係に関する男の子と女の子の違いはかなり重要だと思う。
昔、郷ひろみが「男の子女の子」という歌を歌ったが、そこでの男の子は女の子との違いが無かった気がする。要するに、男と女の区別なく仲良く遊ぼう、という幼稚園みたいな世界だったというかすかな記憶があるが、真面目に聞いたことがないので、怪しい記憶である。
問題は、セックスである。セックスは女性には妊娠につながる重要問題なので、早い年齢から真剣に恋愛とセックスについて考えるのではないか。そこが女性の早熟性の土台だと思う。ところが、男の子の場合、セックスとは早い話が「穴があったら入りたい」、いや、「穴があったら入れたい」だけで、射精したら性欲は一時に冷める。つまり、生殖や妊娠への責任感というのはほぼゼロなのである。頭で知っていても現実感は無い。そこが恋愛やセックスにおける男の子の幼稚さになるのだろう。
下の記事で隠居爺氏が最初に「シェーン」を見た時、まったく理解できなかったというのはよく分かる。「男の子」でそれが理解できるほうが異常だろう。私なども、シェーンが居候先の奥さんに恋愛感情を持ち、奥さんも同様であるのを見て「汚らわしい」としか思わなかった。まあ、「汚らわしい」と思うだけ、(フィクションに接することで)恋愛について少しは知識らしきものがあったのだろう。「シェーン」が恋愛映画である、あるいは「精神的よろめきドラマ」である、というのはこの映画の本質を突いている。だが、たいていの「男の子」は酒場での乱闘や最後のジャック・パランスとアラン・ラッドの決闘シーンにしか面白さは感じないのである。(たいていの「男の子」にとって娯楽作品での「女の子(ヒロイン)」は、まったく邪魔な存在であり、むしろ映画をつまらなくする存在だったのだ。「エバンゲリオン」など恋愛や男女関係が重要な要素であるアニメは、作ったのももてはやしたのも「大人」世代だったのである。)

(以下引用)

 人間は人それぞれで、見えているもの、見えていないものが違っている。ある人には見えているものが、別の人には見えていない。ある人には見えていないものが、別の人には見えている。厄介といえば大変に厄介だけれども、そのせいで面白いことも生じる。

 男女関係などというものは、私にはさっぱり見えない。多分、"男の子"には男女関係などという概念が存在していない。まあ、少なくとも私の場合はそうだった。

 例えば、高校1年生の時の英語の副読本が「シェーン」(
Shane:1953年のアメリカ合衆国の西部劇映画)だった。その時の英語の先生が津田塾を出てそれほどたっていない若い女の先生で、とても熱心に「シェーン」を解説してくれた。映画も見ていて、それをもとに情景描写をいろいろしてくれた。女の人だから、男女関係の機微などは若くても分かっている。

 しばらくたって私も「シェーン」を映画館で見たけれども、これがまあ、今思い出しても笑ってしまうくらい意味を理解できなかった。見てはいても、一つ一つのシーンに意味を見いだせないんだよねえ。「ずいぶんつまらない地味な西部劇」というのがその時の感想の全て。まあ、知的障害レベルだったと思う。

 そんな私も、結婚して、子供もできて、そんな経過の中で鍛えられるというか、指導されるというか、いじめられるというか。知的障害なりに男女関係が見えてくる。30歳も過ぎてからテレビで放映されたシェーンを見てぶったまげた。「え〜っ、これってよろめきドラマなの??」

 何年か前にチラ見したところ、その他にも、開拓、農民、男同士、権力、武力、戦い、そんなものもいろいろ描かれていることが見えたような気がする。

 私は夏目漱石が好きなのだけれど、夏目漱石に関しても同じだった。高校生の頃からずいぶん熱心に読んでいたのだけれど、全く意味が理解できていなかった。ここが夏目漱石の素晴らしいところで、全く意味の理解できない高校生が読んでも、何かしら引かれるところがあって読みふけったのだから。

 おそらく夏目漱石も元来は何も分かっていない男の子であって、その男の子が"男の子言葉"で男女関係を表現するとどうなるのか、そんなチャレンジをしていたのではないかと思う。未知のものを意識化できるように言葉に置き換えるというのは、題材が男女関係であっても純文学になる。

 まあ、そのようなことは、ごく平和な小市民的な生活を送っていた、ごく平凡な男である私に訪れて何の不思議もないことだけれども、3年半ほど前からの新型コロナ騒動では、ずいぶん物騒な形で「見える、見えない」が問題となっているように思う。

 どうも私は日本人の中で、新型コロナに関しては相当に見える方らしい。これは生まれ育って、仕事や子育てをする中で、偶然にそれが見えるような訓練をされる環境に置かれたためらしい。私にすれば、「そんなこと見れば分かるだろうに」ということが、ほとんどの日本人には見えないようだから。

 私は医学関係の専門家ではないので、その方面での訓練は受けていない。つまり、新型コロナやワクチンが見えるか見えないかは、医学とは直接関係がないことのようだ。実際問題として、政府やテレビなどで影響力を及ぼしているような専門家の中でも、見えているけれども嘘をついている人と、見えていない人の両方がいるように思う(その区別をつけるのは難しいけれど、おそらくその多くは尾身会長をはじめ見えていない)。

 見えているけれども嘘をついている人は放置しておけばいい。分かっているのだから、あとはその人の人間性の問題になる。問題は見えない人、見ていない人になる。そのような人をどうするかは大変に難しい。多分、教えてやったから理解できるようになるというものでもない。

 それはちょうど「シェーン」の映画で、アラン・ラッドにポーッとなっている奥さんについて、高校1年生の私にどうやって理解させるかと同じ問題になる。第1に関心がない、第2に理屈で分かったところで感情的に意味を持たない。

 分かるためには人間的な成長、人格的な成長が必用になるわけで、要するに分かるようになるまで分かるようにはならない。

 まあ、おそらく為す術のないことなのだろう。500年前のアメリカに行って、「白人は凶悪な人種だ。あなた方を騙して滅ぼそうとしている。」とアメリカインディアンに説得して回ったところで、歴史を変えることはできないだろう。

 30年後、50年後、100年後、日本人はアメリカインディアンと同様の末路をたどっている可能性がかなり高い。少なくとも、現在の政府・自民党から見えてくる景色はそのようなものになる。あなたにはそれが見えるだろうか。


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「ライオンハート」と「そして二人だけになった」

恩田陸の「ライオンハート」と森博嗣の「そして二人だけになった」を続けて読んだが、どちらも筆力は凄いと思う。前者はタイムトラベルSFの一種だが、「ジェニーの肖像」や「たんぽぽ娘」のようなラブロマンスSFで、どのようにしてタイムトラベルするのかという理屈はない。(肉体ではなく)同じ魂が異なる時空を彷徨う話であり、歴史SFという面もある。幾つかの話が長編を作って、話によって出来不出来もある。初代エリザベス女王の話などは、「同じ魂の彷徨」という点では場違い感もある。最大の難点は、恩田陸の作品には多いが、作品タイトルが作品内容にまったく合わないことである。ラブロマンスに「ライオンハート」という題名ほど似合わないものもないだろう。ライオンハートとは「勇猛心」のことであり、「リチャード獅子心王」の「獅子心」をたいていの人は連想するはずである。まあ、ブリティッシュロックの曲名から取ったらしい。歌い手はケイト・ブッシュとか何とか言うらしいが、私はまったく知らない。そして、この小説を読む読者の多くも知らないだろう。しかし、繰り返すが、作品世界を徹底的に作り上げる恩田陸の才能は凄いし、作品自体は傑作だと言っていい。
森博嗣の「そして二人だけになった」は、推理小説としてはかなり問題作で、悪い意味での問題作だろう。「犯人は宇宙人でした」というアレよりもひどい、「推理小説の根本を否定する推理小説」である。そもそも、謎の解明がまったくされない。いや、それらしき事は書かれているが、作中のさまざまな謎のほとんどは放り出しの投げ捨てである。あれだけ長い話を読ませるだけの筆力は凄いと思うが、推理小説としては最高に最低だろう。まあ、推理小説を単なる時間つぶし程度に思っている人には最適な時間つぶしにはなるだろうが、読んだ後の徒労感(時間を無駄にした感)が凄いので、あまりお勧めはしない。一言言っておけば、「超人思想」の話、詳しく言えば「科学者は最高に偉い。だから、凡人を全員殺す権利がある」というような話で、そういう話が好きなら読むといい。話と無関係に出て来る作中の科学者の思想は、作者森博嗣の思想そのものだと思う。単純化すれば、偏差値70(IQ150)以下の人間(女には稀に「恩赦」があるがwww)には生きる価値が無い、みたいな思想である。人類の進歩のためには人類の9割は死んでもいい、みたいな思想とも言える。


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手紙配達者(文づかい) 3

こう二人が話をしている間に、道はデウベン城の前に出た。庭園を囲む低い鉄柵を右左に結うような砂利道が一筋に長く、その終わるところに古びた石門がある。入ってみると、白木槿(むくげ)の花が咲き乱れた奥に、白亜(白土)を塗った瓦葺きの高殿がある。その南の方に高い石の塔があって、エジプトのピラミッドに倣(なら)って造ったと思われる。今日の泊まりのことを知って出迎えた、制服を着た下僕に案内されて白い石の階段を上ってゆく時、庭園の木立を洩れる夕日が朱のように赤く、階段の両側に蹲(うずくま)る人頭獅子身の「スフィンクス」を照らした。私が初めて入るドイツ貴族の城の様子はどうであろうか。先ほど遠く眺めた馬上の美人はどのような人であろうか。これらも皆、解くこともできない謎かもしれない。

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ポジション防御(自己保身)のための「専門語」

岡氏の文章の中に「予後不良」という言葉が出てきて、そう言えば自分はこの「予後不良」という言葉の意味を正確に知らないし調べたこともないな、と思った時に、これはもしかしたら医療関係者の陰謀的な言葉ではないか、と思って調べてみた。
「予後」については
の解説

  1.  病気・手術などの経過または終末について、医学的に予測すること。→生命予後 →機能予後


  1.  病気の治癒後の経過。「―を大切にする」



とあって、やはり医学や医療に特化した言葉のようだ。実際、病気関係の話以外で「予後」も「予後不良」も聞いたことがない。
「予後不良」についての説明はこうだ。

  • よごふりょう【予後不良】


    病気の経過や結末の予測がよくないこと。回復する見通しの少ないこと。

つまり、「治療の失敗」の宣言、あるいは「治療(治癒)可能性が少ない」という医療や医者の敗北宣言である。これを「治療は失敗でした」「この病気は快復の見込みがありません」と「正直に」言う医者はたぶんいない。それを「予後不良」と言うことによって自分の保身ができるわけである。
まあ、その種の言葉は他の業種にもあるだろう。高級官僚が意味不明のカタカナ英語を使いたがるのもそのひとつだと思われる。
ちなみに、この記事を書く元になった岡氏の一文はこういうものである。



この 2年くらいは免役のことについて書くことが比較的多かったですが、昨日今日あたりは、昼からベランダでお酒を飲みながら(あーあ昼から)、自分自身の幼少期のことなどを思い出していました。


ちっちゃな頃から悪ガキで、三つで予後不良と呼ばれたよ♪ というような体調不良のまま生まれ、ぜんそくなどを含めたその治療薬が関係していたのかどうかは不明ですけれど、その後、典型的な「免役弱体小児」であった自分を思いますと、


「結局、今、社会で起きていることはあの頃の自分の状態と同じなんだろうなあ」


と思います。





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「愛」と「恋」の違い

別ブログに書いた小論だが、案外悪くないと思うので、ここにも載せる。
最後の段落の「恋のために身を滅ぼす女」というのは実は案外多い。ホストに貢いで犯罪に手を染めたり売春婦になったりする女性の話はよく聞く。だが、ホステスに貢いで破滅した男の話はあまり聞かない。そこが男と女の違いだ。べつにどちらが上という話ではなく、「そういう風にできている」だけだ。
もっと破滅的な恋愛だと「八百屋お七」がいる。自分の恋のために江戸を大火災にして死罪になった娘である。恋とは狂気だというのが良く分かる。だが、当人には至福の狂気なのだろう。

ちなみに、恋の対象の像(姿、イメージ)は恋する側が勝手に妄想で作り上げるというのがスタンダールの「結晶作用」論である。

(以下自己引用)


恋は愛ではない




文庫本で、キューブリックの映画「アイズ・ワイド・シャット」の脚本と、その元になったシュニッツラーの短編小説「夢小説(夢の話)」を合本にしたものがあって、それを連続で読むと非常に面白い。まず、映画が小説の真髄を見事に映画化していること、それにも関わらず、小説が表現したことを映画では省略した部分(妻の第二の夢告白内容の詳細)があることだ。
シュニッツラーの小説を読んだのは初めてだが、これほど人間心理の深みに入ることができた作家だとは知らなかった。むしろ、「輪舞」のような、軽妙なエロ的状況を描くのが得意な単なる才人だと思っていたのである。「夢小説」における心理解剖は、ドストエフスキーを凌いでいるかもしれない。少なくとも、恋愛という現象については、彼と並ぶのは、「クロイツェルソナタ」におけるトルストイくらいだろう。
つまり、恋愛というのは「愛する価値があるから愛する」のではまったくないということだ。そういう「取り引き」ではなく、合理性も理性もそこにはない。嵐のような感情に襲われるのである。愛よりも、むしろ性欲のほうが恋愛には近いとすら言える。相手がどのような下種でも、その相手に性欲を感じるのと同様に、どんな相手でも、交通事故のように恋愛は生じるのである。恋愛は祝福ではなく、むしろ呪いに近い。安全さの中にとどまるかぎり、それは恋ではなく、「損得計算」である。
ちなみに、「夢小説」の妻は、この上なく誠実で優秀な医者である夫を愛していながら、旅先で一目見ただけの男に恋をし、その男に誘われたら夫も幼い娘も捨ててついて行っただろうと夫に告白する。夫はその告白に自分の人生が破壊されたような衝撃を受けるのだが、当然だろう。つまり、この「現実化しなかった不貞の告白」は、現実の不貞とまったく変わらないのである。そこにあるのは、男として、妻の目からは自分は旅先で妻が一目見ただけの男にまったく及ばないという屈辱なのである。長い間の夫婦生活も献身も妻の「恋」の前では無価値だったわけだ。
「愛の嵐」という題名の映画があったが、嵐のたとえがふさわしいのは、愛ではなく恋だろう。そして、そういう嵐のような恋の前には、自分の人生のすべてを投げ出してもいいという女性もかなりいるのではないだろうか。(文学の上では、恋に身を滅ぼす男もしばしば描かれるが、現実には男は「社会生活」との損得勘定が先立つから、そういう「恋愛向きの男」にはなれないのが普通だと思う。せいぜいが、セックスの相手になるだけだ。つまり、女性が「恋」をする相手の男の中身は、まったく愛するに値しない下種であることが多いようだ。当然、その男から見れば相手の女性は「やり捨て」の対象である。もちろん、それでも、女性から見ればそれは「恋の成就」なのである。)

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手紙配達者(文づかい)2

「特別な人に目を留めたものだな」と言って軽く私の肩を打った、長い八の字髭の金髪の少年士官は、同じ大隊の本部に付けられた中尉で、男爵フォン・メエルハイムという人である。「あそこにいるのは私が知っているデウベンの城の持ち主で、ビュロウ伯爵の一族である。本部の今晩の宿はその城と決まっているので、君もあの人々に交際する手がかりもあるだろう」と言い終わる時、猟兵(注:軽装備兵。機動力に富む。)が次第に我らの左翼に迫るのを見て、メエルハイムは駆け去った。この人と私が交際し始めてまだ久しくはないが、良い性格だと思われた。
 寄せ手が丘の下まで進んで、今日の演習は終わり、いつもの審判も終わったので、私はメエルハイムと共に大隊長の後ろに付いて、今晩の宿に急いで行くと、中高に作った舗装道路が美しく、 切り株の残った麦畑の間をうねって、折々水音が耳に入るのは、木立の向こうを流れるムルデ河に近づいているのだろう。大隊長は四十を三つ四つ超えているだろうと思われる人で、髪はまだ深い褐色を失わないが、その赤い顔を見ると、早くも額の皺が目立つ。質朴な性質で言葉は少ないが、二言三言めには「私一個人にとっては」と断る癖がある。にわかにメエルハイムの方を向いて「君のいいなづけの妻が待っているだろう」と言った。「失礼ながら、少佐殿、私にはまだいいなづけの妻というものはありません」「そうなのか。私の言葉を悪く取らないでくれ。イイダ姫を、私一個人としては、そう思ったのだ」

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ドミノ倒しと「ドミノピザ倒し」

維新政治の失敗の話かと思って興味半分でいい加減に読んでいったら、最後でずっこけた。
「ドミノピザ倒し」www
ドミノピザをどう立てるのだ。
まあ、原文は「ドミノピザ的に連鎖倒産」だから、実際にドミノピザが連鎖倒産したのかもしれないが、連鎖倒産というのは、商売上の関係企業が連鎖して倒産するのであって、ドミノピザの本店が倒産して支店も潰れるのは、それは連鎖倒産ではない。単なる「ドミノピザの倒産」だ。

(以下引用)

給食センター破産申請した件でさ

大阪府知事が「けしからん!次の業者探してる!」って言ってて、


まぁそう言うしかないやろなとは思うんだが


結局、なんで潰れたのかそっちをしっかり検討する必要があるんちゃうの?って思うんだよね。


もろちん、今回潰れた給食センター固有の問題だったら別の給食センターにすればいいだけだと思うけど


もし給食センター運営っていう構造上の問題だったら、


次に行ったって次のところもいつ潰れるかわからんわけじゃん。


今回潰れるところは全国1500施設に配給してたわけじゃん。


もろちんそのほぼすべてが次のセンターを探してるわけじゃん。


現存する給食センターがどの程度、余裕を持って運営してるかはわからんけどさ、


このあぶれてる分を吸収するの大変だと思うの。


うちは一応菓子メーカーやってて東日本の時に東北の有名菓子メーカー工場がオシャカになって


その分の棚埋めの機会をもらったんだけど、結局4分の1くらいの棚にしか入れられなかったんだよな。


工場キャパが足らんかったから。


どこもまじめにやってる工場ってそんな感じだと思うんだよね。


クソ閑散期ならまだしも、平常時はそんなすげー余裕ある状態じゃないと思うの。


から次のセンター探しも相当苦労すると思うし、今と同じコストでは入れられんと思うのね。


そら府知事も不機嫌になるわなって感じではあるけど


焦ってねじ込んでそれが原因で経営を圧迫してドミノピザ的に連鎖倒産していったら


それこそ給食センターって制度自体破綻するんじゃねーのって気がしないでもない。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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