プリゴジンのワグネル部隊がモスクワ200キロの地点まで侵攻した時点で、プーチンは(プリゴジンとグルでないことを証明する為)モスクワへの進軍は反逆罪として厳罰に処すと述べた。
その合図を受けたプリゴジンは即座にワグネル軍を撤退させ、祖国の為によく戦ったとワグネル兵士たち(牢獄から連れてきた犯罪人集団)を讃え、一方プーチンはプリゴジンとワグネルの(見せかけの)反逆行為を許し、一転ワグネル兵士たちを英雄扱いにした。
プリゴジンはプーチンと共に信頼しているベラルーシの同じくグルのルカシェンコ大統領に身を寄せ、次なる愛国的大芝居の準備をしている。
プリゴジンとワグネル部隊がベラルーシに移動する時は5月初旬からわかっていたので、それまでにロシアの核施設と核兵器をベラルーシに移転し終えている。
ウクライナの隣接地ベラルーシにロシアの核施設と核兵器が移転されただけでウクライナとNATOにとって脅威である。
表面上は隠しているが、事実上プリゴジンのワグネル部隊が核を手にすることが決まっていたのである。
正に「気違いに刃物」である。
これでウクライナにとってもNATOにとってもベラルーシの核の脅威は何十倍、いや何百倍になる。
プリゴジンは、「俺は、ショイグ国防相のような売国奴がロシア軍のトップで胡坐をかいているから、仕方がなく核弾頭付きミサイル発射のボタンに手を掛けざるを得なくなったのだ。何が起きてもショイグ、お前の責任だ」。(内外からショイグ国防相辞任圧力がかかる)
「ウクライナを支援するいかなる国も、俺は許さない。もうじき核弾頭付きミサイルの雨が降るだろう」とプリゴジンはうそぶく。
今までにプリゴジンの罵詈讒謗(ばりざんぼう)は、「ほんとうに何をするかわからない男」という印象を世界に植え付ける為の予備行為であった。
プリゴジンが核弾頭付きミサイル発射ボタンに手を置いた時、ウクライナ戦争の勝負が決まる。
これこそまさに「俺が世界を動かした」とプリゴジンの夢が叶う瞬間であり、プーチンとルカシェンコが「プリゴジンを上手く利用出来て良かったな」と胸をなでおろす時である。
そしてまた来年のロシア大統領選までに、またもや世界を震撼とさせる三人(プーチン、プリゴジン、ルカシェンコ)の次なる策略、いや謀略については、「時事直言」のような不特定多数の皆様にお話しすると私の身が危険になる可能性が高いので「インターネット目からウロコの増田塾」の皆様だけにお話しする。
(以下自己引用)
「近代の超克」は超克された(思想的ゴミ箱行きになった)か
それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。
が正確なものならば、今こそ「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」の欺瞞性が水面上に浮上しているわけで、「近代の超克」は決して超克されていない、いや、今こそ先鋭的な問題として議論されるべきだろう。念のために言えば「近代の超克」とは「西洋近代の超克」である。
最初に、「「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」の欺瞞性が水面上に浮上している」ことの説明をしておく。
近代デモクラシーは「間接民主制(代議制)」であり、それは正しい選挙によってしか担保されないのは明白だが、近年の米国大統領選挙で不正選挙が横行していることは、ネットを見ている人ならたいていは知っている。そして選挙で選ばれた代議士のほとんどは自分の利益にしか関心がないのも明白である。それは小泉以降の日本の政治を見るだけでも十分だろう。ルソーは最初からそれを見通していた。「イギリス人は選挙の間だけ主権者で、それが終わると奴隷に戻る」と。これは、イギリス以外のすべての国でもそうである。そして、直接民主制をするには国民のすべての知的レベルが賢者レベルでないと無理であるだろうし、つまり、不可能である。要するに、「民主主義自体が虚妄の政治システムである」。
「資本主義の欺瞞性」とは、資本主義とは、資本を持たない者はゲームへの参加資格が無いゲームである、と言えば明白だろう。後の人間は奴隷である。そして、資本は親から子へと遺贈されるから奴隷階級は永久に奴隷である。つまり、資本主義とは「見えない階級社会」なのである。
「自由主義」の欺瞞性とは、モデル的に考えればすぐ分かる。二人の人間のうちひとりが自由を主張したら、もうひとりの自由は当然束縛される。それが社会化すると、自由を得る人間と自由を失う人間の種類が見えなくなるだけだ。つまり、「資本家」があらゆる自由を得て、奴隷階級は「お情け程度の自由」を与えられて誤魔化されるのである。資本主義と自由主義はこれまで「良い意味で」同一視されていたが、実は悪い意味でも同一なのである。問題は「自由主義とは誰の自由なのか」「誰にどの程度の自由が許容されるのか」だ。あらゆる人の自由など、ありえない話だ。私に無制限の自由を与えたら、私は地上の人間の半数か、少なくとも一割を殺すだろう。
もういちど確認しておく。「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」は虚妄であり、詐欺である。
それらをちゃんと認識して発展したふたつの国が、ロシアと中国だ、と私は思っている。つまり、このふたつの国は見事に「近代を超克した」のである。それは「西洋の桎梏を超克した」ということだ。いや、まだその戦いの途上であるが、私はこの両国に期待している。
(7月8日追記)某ブログより転載。