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「近代の超克」の考察

先に、今日最初に書いた記事の前書き部分を自己引用して、考察課題を明確にしておく。

(以下自己引用)

「近代の超克」は超克された(思想的ゴミ箱行きになった)か

「知の快楽」という哲学ブログ(多分そうだろう)から転載。筆者は「近代の超克」座談会に批判的に見えるが、廣松渉による、この座談会の要約(と言うより「京都学派」の反近代主義)

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。

が正確なものならば、今こそ「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」の欺瞞性が水面上に浮上しているわけで、「近代の超克」は決して超克されていない、いや、今こそ先鋭的な問題として議論されるべきだろう。念のために言えば「近代の超克」とは「西洋近代の超克」である。
(以下考察)

最初に、「「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」の欺瞞性が水面上に浮上している」ことの説明をしておく。
近代デモクラシーは「間接民主制(代議制)」であり、それは正しい選挙によってしか担保されないのは明白だが、近年の米国大統領選挙で不正選挙が横行していることは、ネットを見ている人ならたいていは知っている。そして選挙で選ばれた代議士のほとんどは自分の利益にしか関心がないのも明白である。それは小泉以降の日本の政治を見るだけでも十分だろう。ルソーは最初からそれを見通していた。「イギリス人は選挙の間だけ主権者で、それが終わると奴隷に戻る」と。これは、イギリス以外のすべての国でもそうである。そして、直接民主制をするには国民のすべての知的レベルが賢者レベルでないと無理であるだろうし、つまり、不可能である。要するに、「民主主義自体が虚妄の政治システムである」。
「資本主義の欺瞞性」とは、資本主義とは、資本を持たない者はゲームへの参加資格が無いゲームである、と言えば明白だろう。後の人間は奴隷である。そして、資本は親から子へと遺贈されるから奴隷階級は永久に奴隷である。つまり、資本主義とは「見えない階級社会」なのである。
「自由主義」の欺瞞性とは、モデル的に考えればすぐ分かる。二人の人間のうちひとりが自由を主張したら、もうひとりの自由は当然束縛される。それが社会化すると、自由を得る人間と自由を失う人間の種類が見えなくなるだけだ。つまり、「資本家」があらゆる自由を得て、奴隷階級は「お情け程度の自由」を与えられて誤魔化されるのである。資本主義と自由主義はこれまで「良い意味で」同一視されていたが、実は悪い意味でも同一なのである。問題は「自由主義とは誰の自由なのか」「誰にどの程度の自由が許容されるのか」だ。あらゆる人の自由など、ありえない話だ。私に無制限の自由を与えたら、私は地上の人間の半数か、少なくとも一割を殺すだろう。
もういちど確認しておく。「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」は虚妄であり、詐欺である。
それらをちゃんと認識して発展したふたつの国が、ロシアと中国だ、と私は思っている。つまり、このふたつの国は見事に「近代を超克した」のである。それは「西洋の桎梏を超克した」ということだ。いや、まだその戦いの途上であるが、私はこの両国に期待している。

(7月8日追記)某ブログより転載。


 アリストテレスは要点を次のように簡潔にまとめた:
    「民主政下では、債権者が貸し付けを開始し、債務者が返済できず、債権者はますますお金を手に入れ、結果として民主政を寡頭(オリガルヒ)政治に変え、そして寡頭政治は世襲制を確立し、貴族政治が成立する」。



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学習院卒業生のノブレス・オブリージュ? www

記事に書かれた「批判」の内容が、まさに「重箱の隅をつつく(楊枝でほじくる)」ようなもので、呆れてしまったが、何が「ノブレス・オブリージュ」だよ。学習院出身者がそんな義務を果たしているなど聞いたこともない。つまり、「学習院が軽視されている」ことへの学習院出身者の不満、愚痴を、恰好だけつけて「秋篠宮家批判」につなげているだけの馬鹿記事である。

私の考えでは、天皇家以外の皇室関係者は、その日常の行動における義務は「庶民」に等しいと見做していいと思っている。秋篠宮家に不都合があれば、一家の人間を「次期天皇候補」から除外すればいいだけのことだ。秋篠宮家が「庶民としての自由」を欲するなら、そうすればいい。眞子さんがあのインチキ男と結婚した段階で秋篠宮家は次期天皇家系候補からかなりランクを下げたと思っている。
適切な天皇候補がいないなら、古代の「継体天皇」の例に倣って、「離れた天皇血筋」の人格者を次期天皇にしてもいいと私は思っている。
血筋だけでなく、人格を重視することで、天皇家はまさに「日本の象徴」になるのである。


(以下引用)

「特別な立場にありながら義務を果たされてない」秋篠宮家に学習院卒業生からも批判噴出…眞子さんについては「紀子さまの責任も大きい」


配信女性自身


(C)JMPA


義務を果たされない秋篠宮家への失望感


紀子さまのご挨拶に広がった“違和感”



「女性自身」2023年7月18日号


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夏風邪と冬風邪の同時流行

「大摩邇」所載の「in deep」記事の一部である。「免疫力の低下」云々は岡氏の持論なので、それが正しいかどうかは読者が判断すればよい。とにかく、「夏風邪と冬風邪の同時流行」という異常事態が生じているらしい。(私は風邪とインフルエンザを区別する必要があるとは考えていないので、雑な書き方をしている。岡氏もその点では似たようなものだ。厳密には風邪がウィルス性のものかどうかも疑問だが。どこからもウィルスが入りこまない独居生活でも、気温変化で簡単に風邪はひく。)
ただ、風邪など、寝ていれば自然に治るものであり、それが流行したからといって大騒ぎするほうがよほど問題だと私は思っている。学級閉鎖にでもなれば子供は喜ぶだろうがwww



(以下引用)


そして、本当に異様だなと思えるのは、現在は夏である日本で、「冬の感染症も夏の感染症も共に流行している」ということかもしれません。


日本では、沖縄が子どもの感染症の流行で最も大変な状況となっていますが、同じような地域が次第に拡大しているようです。


以下は、愛媛県の感染状況のグラフで、「冬風邪の RSウイルスと、夏風邪のヘルパンギーナが、ほぼ同じ曲線を描いて増加している」ことが示されています。


過去10年の平均との比較です。


今年のRSウイルス()とヘルパンギーナ()感染報告数の推移

愛媛新聞


愛媛県のRSウイルス感染が過去10年比で14倍 (2023/07/02)


 


南米では、かなりの地域で、今後「各地で非常に寒い冬が見込まれている」と報じられていまして、その中で、現在のような子どもの感染症の危機が拡大するのではないかという懸念が当局から発せられています。


では、秋以降の日本はどうなると予測するのが妥当でしょうか


今現在すでに通常の流行を超えるような子どもの感染症が爆発している日本で、「冬になったら、それが治まる」というように考えられるかどうかということです。


私はどうしてもそうは考えられないのですが、それには、壊れた免疫が回復するしかないとは思いますが、原因が原因だけに、秋からの季節はさらに厳しい結果を伴うのではないでしょうか(免役が壊れた原因の推定はここでは書きません)。


秋には以下のような事態が迫っています。


[記事]実験場と化した日本 : 世界で唯一、生後6ヵ月からの赤ちゃんに「本物のBNT162b2」を接種する方針が決定した日本…
 In Deep 2023年6月21日


 

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「近代の超克」は超克された(思想的ゴミ箱行きになった)か

「知の快楽」という哲学ブログ(多分そうだろう)から転載。筆者は「近代の超克」座談会に批判的に見えるが、廣松渉による、この座談会の要約(と言うより「京都学派」の反近代主義)

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。

が正確なものならば、今こそ「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」の欺瞞性が水面上に浮上しているわけで、「近代の超克」は決して超克されていない、いや、今こそ先鋭的な問題として議論されるべきだろう。念のために言えば「近代の超克」とは「西洋近代の超克」である。

(以下引用)


廣松渉「<近代の超克>論」




廣松渉がこの本で取り上げた<近代の超克>というのは、雑誌「文学界」の昭和17年10月号に掲載された伝説的に有名な座談会のテーマとなったものだが、その座談会というのが、日本思想史の上で重要な意義をもったというのが大方の評価になっている。評価といっても積極的なつまりプラス方向の評価と、消極的なマイナス方向の評価があるわけだが、この座談会はどちらかと言えば、マイナスの評価の方が強い。というのも、時節柄やむを得ない面があったにしても、日本の対外侵略や国内の全体主義を合理化しているという点で、上からのファシズムに下から呼応した民間のファシズムのひとつの現れだという評価が強いのである。

この座談会は「文学界」の同人が呼びかけたもので、出席者は、司会役の河上徹太郎が「これだけの人数の一流の人たち」と呼んだ次の13人である。西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊地正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎。今の日本人にはなじみの薄い名前が多いと思うが、おおまかに区分けすると、文学界を拠点とする保守的な文人たち、亀井勝一郎が代表する日本浪漫派、それに京都学派と呼ばれる学者たちからなる。これを廣松は「反近代統一戦線」と呼んで、彼らが日本のファシズム運動に果たした歴史的な意義について言及しているわけである。

だが、この座談会についての廣松の取り上げ方は、戦後の大方の批判の取り上げ方とはちょっと異なっている。戦後主流となった批判的見方を手短に言えば、次のようになろう。昭和16年の対米戦勝利によって、国中が上から下まですっかりのぼせ上ってしまい、日本が西洋列強を打ち破って世界の盟主になる可能性が非常に強まったという風に勘違いした。そうした勘違いが、いまや西洋何するものぞという意識を強化し、そこからして西洋を超克して、東洋いや日本の論理で以て世界を導いていくことが必要だというような妄想が強まってきた。この座談会はそうした妄想が誇張された形であらわれたのだ、とする見方だ。<西洋の超克>といわずに<近代の超克>といったのは、明治維新以降の日本人にとって、西洋即近代という枠組が当然の前提としてあったからだ。

こうした見方は、この座談会を時流に乗った悪ふざけと受け取るものだ。筆者は直接この座談会の記録を読んだわけではないが、廣松が引用する主席者の発言に接する限り、やはり相当いかれているなという感じは伝わってくる。本来論理的で冷静であるはずの(西田派の)哲学者までが、相当のぼせ上って、いかれた発言をしている。例えば第二章で引用されている高坂正顕の発言。これなどは、今の時点で囚われなく読むと、狂者のたわごとぐらいにしか聞こえない。時代の空気が冷静であった人々まで「たわけ」にしてしまったという感じである。

こうしたタワケぶりを、加藤周一などは次のように表現している。「日本浪漫派が言葉の綾で魅惑したとすれば、京都の哲学者の一派は論理の綾で魅惑した。日本浪漫派が戦争を感情的に肯定する方法を編み出したとすれば、京都学派は同じ戦争を論理的に肯定する方法を提供した。日本浪漫派が身につかぬ外来思想の身につかぬところを逆手にとって、国粋主義に熱中したとすれば、京都学派は生活と体験と伝統を離れた外来の論理の何にでも適用できる便利さを利用してたちまち『世界史の哲学』をでっちあげた。およそ京都学派の『世界史の哲学』ほど、日本の知識人に多かれ少なかれ伴わざるをえなかった思想の外来性を、極端に戯画化してみせているものはない」

これは、この座談会を戦争肯定のためのプロパガンダと見るものだが、それがプロパガンダであるかぎり、外在的な意図に基づいたものだという理解の仕方だ。要は戦争と日本の軍事独裁的な体制を擁護できればいいのであって、理屈などはどうでもよかったのだ、ということになる。

これに対して廣松渉は、特に京都学派に留目しながら、京都学派の果たした役割が、時代の世相に促された一時的なものではなく、彼らなりの歴史的な必然性というようなものに基づいた行為だったのだという風に捉えなおす。つまり京都学派の反西洋・反近代の姿勢は、一時的な熱狂の結果などではなく、御大たる西田幾多郎自身に内在していたものであったし、その後継者たちの中にも脈々と流れていた。それが、対米開戦での勝利と言う思いがけない展開を前にして一気に表面化したのが、この座談会での彼らの発言なのだと広松は解釈し直すわけなのだ。

そこで廣松は、視点をこの座談会を超えて、もっと広いところに向ける。この座談会とほぼ並行する形で、京都学派のメンバーによる座談会が中央公論誌上で展開されたが、それに目を向ける一方、京都学派の個々の論客の思想の変移をたどり直しながら、京都学派に共通する反近代・反西洋の要素を剔抉しようとするのである。

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

このように、この本の中で廣松が主に行っているのは、京都学派の思想の特異性である。しかし何故廣松は、彼らの思想を改めて問題にしたのだろうか。廣松がこの論文を雑誌に連載したのは1974~75年のことである。その時点で京都学派とそれが代表する反近代の思想を改めて問題化する必要があったほど、世相に逼迫する理由があったのだろうか。

柄谷行人は、60年代に「近代批判」運動が盛り上がったことを引き合いに出しながら、そこでの論脈が戦前の「近代の超克」のなかで論じられていたことをすこしも超えていないと感じた廣松が、戦前に溯って近代批判を検証しなければならないと感じたのではないかと推測しているが(講談社学術文庫版解説)、あるいはそうかもしれない。

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「可愛い」とは

老婆などだと可愛い老婆はわりといるが、年を取った男は見た目が不快な人物が多いように感じる。私も含め、「愛想を良くする習慣」の無い男がほとんどだからだろう。器量が悪くても、笑顔でいるとほとんどの人は愛嬌が出る。それが「可愛さ」だろう。

(以下引用)
36:ななし: 2023/07/02(日) 18:29:43.83ID:J8pUdljT0.net
>>21
女が「あの女芸人かわいいよね!」って言ったとき
「だよな、お前似てるし」って返したらキレられるからなw

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プリゴジンがベラルーシに行った理由?

6分4分、いや、7分3分で増田俊男の妄想だと思うが、正解である可能性が無いとも限らないので、参考資料として載せておく。プリゴジンをなぜベラルーシが引き受けたかの説明には一応なっているからだ。核兵器のボタンを傭兵隊の社長ごときに任せるというのは、妄想的すぎる。しかし、繰り返すが、どんな可能性でもゼロではない。実際には任せなくても、核兵器発射時にそう弁明する手段にはなる。

(以下「時事直言」から引用)




<時事直言>気違い(プリゴジン)に刃物(核兵器)


プリゴジンのワグネル部隊がモスクワ200キロの地点まで侵攻した時点で、プーチンは(プリゴジンとグルでないことを証明する為)モスクワへの進軍は反逆罪として厳罰に処すと述べた。
その合図を受けたプリゴジンは即座にワグネル軍を撤退させ、祖国の為によく戦ったとワグネル兵士たち(牢獄から連れてきた犯罪人集団)を讃え、一方プーチンはプリゴジンとワグネルの(見せかけの)反逆行為を許し、一転ワグネル兵士たちを英雄扱いにした。
プリゴジンはプーチンと共に信頼しているベラルーシの同じくグルのルカシェンコ大統領に身を寄せ、次なる愛国的大芝居の準備をしている。
プリゴジンとワグネル部隊がベラルーシに移動する時は5月初旬からわかっていたので、それまでにロシアの核施設と核兵器をベラルーシに移転し終えている。
ウクライナの隣接地ベラルーシにロシアの核施設と核兵器が移転されただけでウクライナとNATOにとって脅威である。
表面上は隠しているが、事実上プリゴジンのワグネル部隊が核を手にすることが決まっていたのである。
正に「気違いに刃物」である。
これでウクライナにとってもNATOにとってもベラルーシの核の脅威は何十倍、いや何百倍になる。
プリゴジンは、「俺は、ショイグ国防相のような売国奴がロシア軍のトップで胡坐をかいているから、仕方がなく核弾頭付きミサイル発射のボタンに手を掛けざるを得なくなったのだ。何が起きてもショイグ、お前の責任だ」。(内外からショイグ国防相辞任圧力がかかる)
「ウクライナを支援するいかなる国も、俺は許さない。もうじき核弾頭付きミサイルの雨が降るだろう」とプリゴジンはうそぶく。
今までにプリゴジンの罵詈讒謗(ばりざんぼう)は、「ほんとうに何をするかわからない男」という印象を世界に植え付ける為の予備行為であった。
プリゴジンが核弾頭付きミサイル発射ボタンに手を置いた時、ウクライナ戦争の勝負が決まる。
これこそまさに「俺が世界を動かした」とプリゴジンの夢が叶う瞬間であり、プーチンとルカシェンコが「プリゴジンを上手く利用出来て良かったな」と胸をなでおろす時である。
そしてまた来年のロシア大統領選までに、またもや世界を震撼とさせる三人(プーチン、プリゴジン、ルカシェンコ)の次なる策略、いや謀略については、「時事直言」のような不特定多数の皆様にお話しすると私の身が危険になる可能性が高いので「インターネット目からウロコの増田塾」の皆様だけにお話しする。


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「後は沈黙」

「大摩邇」所載の「ナカムラクリニック」記事の後半である。
シラノ・ド・ベルジュラックの臨終の言葉ではないが、「後は沈黙」である。
もはや、何を言っても取返しはつかない。それとも、156万人(あるいはそのうちの12万、あるいは38万人)で済んで良かったと言うべきか。

(以下引用)




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過去最高の156万人が死亡した。

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「多死社会」などという言葉を作るが、その原因として「ワ」の字も出てこない。
ワクチンについては徹底した箝口令が敷かれている。その結果、


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この一年で、38万人という世界最大の人口減少が起きた。
認めるしかない。
言われるがままにマスクをするし、言われるがままにワクチンを打つ。疑問を持たない。疑問を持ったとしても、何の抗議の声もあげない。「死ね」と言われたら、言われるがままに死ぬだろう。世界最大の人口減少が起きてなお、まだワクチンを打ち続けている。この日本という国は、世界で最もバカな国だった



5類に格下げとなり、ひとまずコロナは終わった。しかし今なお6回目のコロナワクチンが実施中であり、これからも続いていく。
南相馬に引き続き、久留米にもワクチン工場ができることになった。


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あの悪名高いレプリコンワクチンが製造されることになる。


ある先生が言っておられた。
「諸外国ではコロナワクチンは完全に終わっている。話題にもならない。国民全員が危険に気付いているから、もはや「打て」と言っても誰も打たない。ビジネスとしてオワコンなんです。でも日本が、余ったワクチンの最終廃棄場になっている。それどころか、もっと危ないワクチンを作って、ろくに治験のないままに打たせるという、人体実験の場になっている。日本人は本当に絶滅するんじゃないかと、私は心配しています」

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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