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努力と才能

これは、米山隆一が正しいだろう。世のブラック企業経営者や教育ママは武井派がほとんどだと思う。そして多くの人、多くの子供を不幸にする。
米山の言うことは非常に大切で、努力するにしても才能のある方向に努力することが大事で、才能の無い方向に努力すると一生をフイにする。だから、多くの事に触れて、自分は何が好きか、何に向いているかを知ることが一番大切なので、私のように怠ける(ボケッとしている)ことが好きという人間でも何かを考察したり文章を書いたりすることはまったく苦にならない。もちろん、それが娯楽だから苦にならないのである。
もっとも、たとえばパチンコが好きだから、それを一生やろうというのは間違いで、娯楽でも、あるいは純粋な娯楽だからこそ仕事にはならないことがある。女が好きだから、ホストを一生の仕事にしようというのも大間違いで、60歳70歳のホストにあまり需要は無いだろう。女を食い物にする覚悟と冷酷さ、下劣さがあってこそ成り立つ商売でもある。
ただ、武井の言うのは、スポーツだけに関して言えば、「正しい努力をせずに我武者羅にやってもダメだ」というのが彼の主張の本質で、多くの人は単に走るだけでも「正しい走り方をしていないから成績が伸びない」のだ、ということだ。これは正しいと思う。世の9割の子供は正しい走り方を知らない。教えられもしていない。もっとも、それで記録を数秒伸ばしても、才能のある人間には太刀打ちできない、というのが米山の言い分で、それも正しい。

(以下引用)

米山隆一さん、武井壮にレスバトルを申し込む。「才能によって努力に要するエネルギーは段違いです」

 

引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/

1: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:46:09.53 ID:qwT/S/sbM
うおおお
no title

no title
2: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:47:24.81 ID:PkICYVFQM
たまにまともになるよなこいつ

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ミラ・ジョコビッチ・サイクル(訂正:ミランコビッチサイクル)

地球の大きなサイクルでの気象変化(短期的にはこれが異常気象扱いされる)は地球の地軸の傾きの変化のためだ、と私は何の説も参照せずに直感で言い続けていたが、これに関する学説もあったようだ。牛のゲップや人類の屁のせいで二酸化炭素が増加し、そのせいで地球が温暖化し異常気象が起こるという馬鹿学説(動物は普通に呼吸していても二酸化炭素を出すのである。しかもそれは植物にとって有益、いやそれどころか不可欠なのだ。つまり動物と植物の互恵関係があって地球上の生命は維持されるのである。仮に地球が少し温暖化したとして、それがどうだというのか。)よりはるかにまともである。しかも、二酸化炭素悪玉説などのような「経済(あるいは文明)への悪影響」も無い。ミランコビッチサイクルによれば、確かに地球は現在温暖化、あるいは全地球的平準化(南極と北極の気温は上がり、赤道地帯との差が小さくなる。)に向かっているのであるが、4万年周期の話であり、人類の短期的歴史に関係する問題ではない。人類があと1万年後に生存しているかどうか分かったものではない。現在の人類は滅び、新人類が生まれているのではないか。

(以下引用)


地球の軌道の変化については「ミランコビッチ・サイクル」と呼ばれる周期的な変化があります。


 


■ミランコビッチ・サイクル


地球の公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因により、日射量が変動する周期。


 


1920 - 1930年代に、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ(Milutin Milanković)は、


地球の離心率の周期的変化、


現在の氷期サイクルの周期は約10万年であり、離心率の変動周期と一致している。しかし、それらを関係づけるメカニズムについては完全に理解されていない(10万年問題)。


 


地軸の傾きの周期的変化、


地球の地軸の傾きは約21.5度から24.5度の間の間を定期的に変化しており、その周期は4.1万年である。現在は極大となった約8,700年前から小さくなっている時期にあたる。現在は23.4度であり、約11,800年後に極小となる。地球の地軸の傾きは季節差に影響を与え(地軸の傾きが大きいほど季節差が大きい)、結果として地球の気候にも影響を与える。


 


自転軸の歳差運動


地球の自転軸の向きは、公転しながら周期的に変化しており、これを歳差と呼ぶが、この周期は1.8万から2.3万年である。


 


の三つの要素が地球の気候に影響を与えると仮説をたて、実際に地球に入射する日射量の緯度分布と季節変化について当時得られる最高精度の公転軌道変化の理論を用いて非常に正確な日射量長周期変化を計算し、間もなくして放射性同位体を用いた海水温の調査で、その仮説を裏付けた。


ミランコビッチ・サイクル - Wikipedia

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自然発生する「子供の芸術」

別ブログに書いたものだが、くだらなくて案外面白いのでこちらにも載せる。

(以下自己引用)

わらべ歌のレトリック



実にくだらない話なので、他人が読む価値は無いが、私にとってはひとつの「エウレーカ!」なので、書いておく。

私が子供のころは、軍歌が歌詞だけ変えて学校の運動会の応援歌の曲によく使われたが、子供の遊びの中の「はやし歌」「遊び歌」としても軍歌の替え歌が使われたものである。
そのひとつに、「軍艦マーチ」の替え歌があったのだが、途中までしか覚えていない。それを書いておく。

シゲルとパゲルが喧嘩して
シゲルはしくしく泣き出した
(以下不明)

で、今朝突然気がついたのは、これは「シゲル」という人物をからかうために作られた歌ではないか、ということだ。つまり「パゲル」という人物は本来は不要なのである。当たり前の話で、「パゲル」という名前を持つ人物など存在するはずがない。では、なぜ「パゲル」なのかと言えば、(ここからがエウレカ!なのだが)「シゲル」とは「茂る、繁る」であり、髪がふさふさしているからである。その対義語だから「禿げる」であり、それが「パゲル」と変化したわけだ。
いや、「パゲル」から「禿げる」を連想したのは昔からそうだったのだが、それが「シゲル」と対応関係にあると気付いたのは、半世紀以上も後の今になってからだ、というのが面白い。
ある意味、プルースト的な話ではないか。思い出が突然新たな姿で甦る。
ついでだが、「シゲル」と「しくしく」も押韻している。子供でも自然にレトリックを使うのだ。

(夢人追記)「シゲル」に対して「はげる」ではなく「パゲル」としたのも素晴らしい音感だと思う。「はげる」より「パゲル」のほうが力強いし、「はげる」ではどうしても動詞であって名前には聞こえないが「パゲル」なら、名詞に聞こえる。「シゲル」と「パゲル」の下2字が同音であるのも、押韻になって実に素晴らしい。
なお、「パ」の音が力強いのは、モーツァルトの「魔笛」の「パパゲーノとパパゲーナの二重唱」を聞けば納得するだろう。これが「ハハゲーノ」だと禿げで歯抜けの老人だ。



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生活の技術(7)



3 心術の1「主体性」


 


 我々の人生が不幸であるのは、その人生が不如意であるからである。つまり、意志や意欲が存在しながら、その意志や意欲が満たされない場合に、我々は自分を不幸に感じるわけだ。つまり、不幸とは不満足な状態のことであり、幸福とは、欲求や意志が満たされた状態のことである。したがって、幸福を得る手段は二つ。一つは意志や欲求の求めるものを得ることである。もう一つは、欲求や意志そのものを捨てることである。後者が仏教的な行き方だ。いつでもどこでも欲求の対象を獲得するということは不可能だから、後者の生き方が確実な幸福への道に見えるが、欲求が無く、何も得ないならば、それは幸福とも言えない。もちろん、金銭や地位や女色などを捨てて、知識欲だけを残すという生き方もある。これがエピクロス一派の「快楽主義」だ。エピキュリアンの快楽主義は、世間で誤解されているような世俗的欲望の肯定ではない。


 仏教でも禅宗などは、特に欲望を否定する思想ではない。禅宗においては、要するに、自分を迷わすものを捨てて、心が自由であればいいのである。そして、心が自由だという実感、心が解放されているという実感は生の喜びの土台である。


「随所に主となる」


 これが、心術の目標である。つまり、どこにいても周囲に惑わされず、心が自由で何の恐怖も不安も無い状態、日常を平安な落ち着いた心で生きていくことが最高の心境だ。


 我々は自分の仕事、家族、友人関係、将来の不安など、様々な問題を抱えて生きている。だが、それらはすべて「外物」である。つまり、外物によって心が囚われた状態が悩みの状態だ。悩んでいるとき、我々は自分の人生の主ではない。外物に支配された奴隷だ。


 屁理屈を好む文化人なら、喜びの状態でも、外物に支配されているではないか、と言うだろう。むしろ逆である。奴隷であっても、現在の状態から喜びを得ているならば、彼はその場の主なのである。この説明は難しいが、喜びとは最善の幸福の状態であると仮定するなら、喜びの状態においては、主も客も無意味になるとでも言っておこう。


 では、いかにして外物の支配から心を解放するか。それは


「汝の手に堪ゆることは力を尽くして是を為せ」


という聖書の中の言葉が教えてくれる。


つまり、我々が不幸、不自由であるのは、だいたいの場合、自分の手に及ばないことを制御しようとしているからである。たとえば、愛する人に愛されないという悩みなどがその代表だ。他人に愛されることは、自分の力でどうにかなることではない。相手に好かれるために、一般的には大抵の人に愛されるキャラクターを作ったところで、相手がそのキャラクターを愛するかどうかは分からない。


昔、コン・タロウという人の漫画で読んだ、私の好きなジョークがある。高嶺の花にあこがれて悩んでいる男に向かって、その友人が慰めて、「君はあきらめる必要はないよ。だって、その人は趣味が悪いかもしれないじゃないか!」と言うのだが、実際、世の中には、何でこんな素晴らしい女性(男性)が、こんな最低の男(女)とくっつくんだ、という例は多いのである。


だが、そもそも、人を愛することはこちら側の問題だが、相手が自分を愛するかどうかは、相手任せにしかならない。こちらの努力ではどうにもならないものがある。


ならば、できる努力はするが、努力してもどうにもならないことはあきらめる、というのが賢い生き方なのである。そして、実は人生の悩みの多くは、自分の努力ではどうにもならないことを悩んでいるのである。たとえば、仕事でベストを尽くすことは努力の範囲だ。だが、その仕事がどう評価されるかは、自分の努力でどうなるものでもない。


勝海舟がうまいことを言っている。江戸幕府と明治政府の二君に仕える生き方を福沢諭吉に批判され、彼からその批判の文章を世間に公表していいかと言われた時に、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと。」と言って、どうぞ勝手に批判しなさい、と答えたのである。つまり、ある行為を「やるかやらないか」は私のすることであり、それについて他人がほめようがけなそうが、俺には関係ないよ、ということだ。彼のこの言葉こそ、人生の達人の言葉だろう。


基本的に、不自由とは、自分の手ではどうにもならないことを言うのだから、それはあきらめるしかない。実に当然の話なのだが、これが分からない(分かっていても納得できない)から、たいていの人は不自由がそのまま不幸につながるのである。つまり、不自由とは運命的に我々の生の半分であり、完全な自由などどこにも存在はしないのだが、その事実が受け入れきれずに自分で自分を苦しめているのが世の大半の人間なのである。


我々が問題とするべきことは、その自由と不自由の範囲が納得できる範囲かどうかだけである。


そもそも、我々が求める自由とは、まるで夢想的なもので、子供などは物理法則に反する自由をすら欲しがるものだ。漫画やアニメの超人は、我々が持ちたいという自由の実現者であり、我々の代わりにその自由を行使してくれる存在なのである。


それほど、我々は自分を取り巻く不自由に、息がつまるような束縛感を感じているということである。


そのような自由へのあこがれが、芸術創作の原動力でもあるが、しかし、我々の日常生活は、この不自由とのつきあいでもある。


我々はまず物理法則に縛られ、社会の倫理道徳に縛られ、法律で行動を制限され、仕事で求められる規範に縛られる。家庭においては、家庭秩序を維持するための決まり事に縛られ、友人との交際では、「真の自分」を知られずに、そう思われたい自分として見てもらうための努力に苦労する。他人と交わす言葉の一言一言に、自分がこういう発言をしたらどう思われるか、と悩み、そう悩む自分に苛立つ。


つまり、我々の生活とは、雁字搦めの不自由なのである。普段はそれを意識しないから、平気でいられるが、それが気になりだすと、精神がおかしくなりかねない。


つまりこれが「随所に主となる」の正反対の状態なのである。ここまで言えば、なぜ「随所に主となる」ことが心術の目的地であるかも理解されるだろう。


では、いかにすれば「随所に主となる」ことができるか。修行によって、である。私はもちろん、そうなれてなどいない。しかし、その目標を持つことで、自分を苦しめる物事はすべて自分にとっては本質的ではないという「見切り」をつけることが早くなった。そして、悩むことも少なくなった。


ここで、最初のあたりで述べたことに戻る。


すべては意識することから始まるのである。問題を見つけだせば、その問題は半分解決したも同然なのだ。一番の問題は、問題の所在に気が付かないことなのである。精神医療でも、患者自身が問題の所在に気が付けば、その病気はほとんど解決するのである。

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寒冷の国でなぜ幸福でいられるのか

「大摩邇」所載の「地球の記録」記事の一部だが、私が面白く感じたのは記事の主内容ではなく、「世界で最も幸福な国」のランキングであるので、そこだけ先に載せる。

1位フィンランド
2位デンマーク
3位アイスランド

この3つの国に共通するのは何か。三つとも北欧の国であるのは誰でも分かる。だが、北欧の国であることが幸福につながるだろうか。特にアイスランドなど、名前からしても「氷の国」である。網走番外地か。いや、それより緯度が高いからもっと寒いだろう。
まあ、北欧の国であることは別として、私が思ったのは、この三つとも

特に著名な産業がなく(アイスランドは金融で有名らしいが、金融は「何も生産しない」。つまり、本来の意味での「産業」ではない。)
特に著名な企業がなく
特に著名な文化がなく
特に著名な偉人が(フィンランドのシベリウスを除いて)なく
特に世界の話題になる出来事や歴史がない

ということだ。映画や演劇では有名人も過去に数人出ているが、数は非常に少ない。で、「人生との戦い」を描いた哲学的で深刻な、あまり幸福とは思えない作風のようだ。
いや、無名こそ幸福の源という考えも可能だろうが、しかし、この三つの国は「どのようにして(食物や生活用品を手に入れて)生きているのだ?」という疑問を私は持つのである。デンマークは畜産業では少しは有名だった気がするが、畜産をしているから幸福、とはならないだろう。国民全員が畜産業者であるわけもない。
とすると、この三つの国は「なぜ幸福なのか?」
まあ、考えられるのは「寒いので基本的に何もやらない」だから無事平穏であり、何もない現状に満足する哲学がある、くらいか。時々キチガイが銃の乱射で大量殺害をしたりするが、それも「何もない」ことへの突発的な反動だろう。


(以下引用)

世界で最も幸せな国のひとつであるデンマークの生涯での精神科受診率が「82%」であり、精神薬の処方経験が「70%の人たちにある」ことを知る

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/rate-of-mental-health-disorders-in-denmark/
<転載開始>


ベンゾジアゼピン等によりもたらされている幸福…

最近、米エポックタイムズ経由で、デンマークの「国民のメンタルヘルス」に関する研究の存在を知りました。それは、以下のような調査で、150万人を対象にした大調査でした。


「一生涯で、デンマーク人のどの程度が、精神科医からの治療を受けたことがあるか、あるいは精神薬を処方されたことがあるか」


 


デンマークで初めてとなるこの調査の結果、


「デンマーク人の 82.6%が、生涯で、精神科医からの治療を受けたことがある」


ということがわかったのでした。


驚異的な数値だと思います。



コペンハーゲン感情障害研究センターやコペンハーゲン大学の研究者たちによる調査の結果は、こちらにあり、その冒頭は、以下のように書かれていました。


デンマークの研究より


調査結果 このコホート研究では、精神的健康障害および/または向精神薬の処方の生涯累積発生率は以前の報告よりも高く、人口の約 80%が病院内または一般開業医または民間の精神科医から精神的健康障害の治療を受けていた。


精神的健康障害と向精神薬の処方は、収入の低下、失業、一人暮らしや未婚の可能性の増加など、その後の社会経済的困難の増大と関連していた。


JAMA


これを伝えていた米エポックタイムズの記事をご紹介させていただきます。なお、 2023年度版 世界幸福度ランキングの上位3カ国は以下です。


世界幸福度ランキング 2020-2022


1位 フィンランド
2位 デンマーク
3位 アイスランド


yamatogokoro.jp

世界で2番目に幸福な国デンマークは、精神的健康障害の罹患率が驚くほど高いことが研究で判明した

The World’s 2nd Happiest Country Has a Surprisingly High Rate of Mental Health Disorders: Study
Epoch Times 2023/07/17


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生活の技術(6)



第四章 メンタル・ヘルスまたは「心術」


 


 「メンタル・ヘルス」というと、精神科医の分野になりそうだが、ここで私が述べるのは、より良い人生を生きるための「心の自己コントロール」の話である。そして、それには前の章で書いた人格形成なども含まれる。


 


1 生き方の基本


 


 メンタル・ヘルスは、その人の生き方と大きく関わってくる。昔なら人生論として扱ったことを、ここではメンタル・ヘルスとして扱おうと言うのである。


 まず、生き方の基本は、「問題解決の技術」と同じである。つまり、「現実認識―問題分析―計画―実行―反省―計画変更―実行」のサイクルである。(これはビジネスの世界ではP―D―C―Aサイクルと言うようだ。「プラン・ドゥ・チェック・アクション」である。なぜドゥとアクションの区別があるのかは知らないが。)そして、何よりも大事なのは、「継続」である。コリン・ウィルソンも言うように、我々が、決心したことを継続できれば、精神的な超人にもなれるのである。


 


2 精神の素材と精神コントロール


 


 良い人生を送るためには、精神の自己コントロールが必要だ。それができるかどうかで人生の質が変わってくる。


 まず、人間の精神は大きく分けて、「理性」と「感情」に分かれる。ここに、「意志」という柱を立てて三つに分けてもいいが、人間に自由意志があるかどうかは判断不可能な問題だから、意志については保留にしておこう。


 問題は、理性と感情はまったく別であり、感情を理性でコントロールすることは非常に難しいことである。感情に限らず、自己コントロールを最大限に高められるかどうかが、幸福な人生の鍵だとも言える。たとえば、あなたが何かの義務的な仕事をやらねばならない場合、それを苦痛に思うあなたがいる。そして、その仕事をやらねばならないと思うあなたがいる。はたして、あなたはそのどちらのあなたの言うことを聞くべきなのか。怠け者のほうのあなたか。意志的で努力家のあなたか。当然、後者だと言う人が多いだろう。だが、そこで怠けて過ごした甘美な時間と、苦痛に耐えて努力した時間と、どちらが人生にとって有意義な時間だっただろうか。これは、明らかに前者なのである。ただし、これは短い時間のスパンで考えた場合のことで、長期的にはもちろん、前者のような生き方はその人の人生レベルを低下させ、後者のような生き方は人生レベルを向上させる。


 これはつまり、美味い物を先に食うか、後で食うかという選択と同じことであり、もしも怠け放しでもそのダメージを受けることが無いのなら、一生怠け続けてもいいのである。つまり、大金持ちの家に生まれた人間なら、そういう生き方もできるわけだ。


 だが、ほとんどの人間は「生きるための労働」と不可分の生涯を送るはずだ。したがって、ここではそういう前提で論じる。


 さて、人間の精神は理性と感情に分かれる。感情は、目の前の義務的労働を苦痛に思い、理性は、長期的判断に基づいて、あなたに労働を強制する。


 もちろん、誰でも考えるように、感情が、労働を苦痛ではなく快楽だと考えればすべての問題は解決である。だが、果たしてそううまくいくかどうか。我々は労働を本心から快楽だと考えることができるだろうか。ここで、価値観というものが問題になる。つまり、快楽は価値があり、苦痛はマイナスの価値だという判断がここにはある。逆に、我々にとってのマイナス価値の強制が我々に苦痛を与えているとも言える。


 


 価値観の問題も、古くて新しい問題だ。納豆やオカラで満足できる人間なら、トゥール・ダルジャンの鴨料理などこの世に存在しなくても何も問題は無い。酒の飲めない人間にはロマネ・コンティも無価値である。草の葉の上の水玉の美しさに感動できる人間には、100カラットのダイヤも不要だろう。自分の女房を愛している人間には世界一の美女が言い寄っても迷惑なだけだ。


 人生の最大の秘密をここで書こう。



 それは、この世で生きる最大の鍵は、「価値観」にあるということだ。しかも、価値観とは、実はその人の主観なのである。このことを意識していないことに、人生の大半の苦しみの原因があるのだ。


 たとえば、あるタレントや俳優を好きか嫌いか、ということは、若い人にとっては「絶対的なもの」である。いや、年を取った人間でも、好悪については絶対に譲らないものだ。だが、その好悪にどんな根拠があるかというと、それはほとんど無いのである。Aという歌手とBという歌手の間に、それほどの違いがあるとは思えないのだが、ABのファンにとっては、天地の開きがあるのである。それは、つまり《主観の絶対視》なのである。


 さて、我々は、実は自分の主観に過ぎないものを絶対視しているということを知れば、人生を生きることが非常に容易になる。


 我々が自分の感情をコントロールできないのも、「主観の絶対視」のためであり、本当は簡単に譲れるものを譲れないと「思い込んでいる」だけなのだ。


 これは、しかし、感情を軽視しろということではない。藤原正彦が面白いことを言っている。「論理」というものは、実は出発点の妥当性は証明できない。つまり、すべての論理の出発点そのものは仮定にしか過ぎないということだ。これは私もかつて考えたことで、論理とは、「説明手段」でしかない、と私は思っている。他人を説得する手段ではあっても、必ずしも真理に至る道だとは限らない。一方、感情の方は、少なくとも、その感情がその人の心を支配していることは明らかであり、それだけでも感情の偉大さは分かる。つまり、我々の生涯の大半は感情とともにあるのだ。だが、感情が自己破壊的に働く場合がある。ここで私がコントロールを考えているのは、そういう類の感情なのである。


 ここでまた誤解する人がいるかもしれない。私は、一般的にマイナスとされている感情を自分の中から消し去れと言っているのではない。怒るべきときには怒り、悲しむべきときには悲しむことこそが、真に人間らしい生である。だが、問題は、我々はそうしたマイナスの感情に心を支配されるあまりに、自分の人生までも悪い方向に引きずっていく場合が多いということだ。そこで精神の制御が求められる。


 精神の制御において必要なのは、意識化である。自分がどのような状態か意識できれば、制御まではもう一歩だ。自分の状態が意識されていないから、制御できないのである。


 そこで、まず感情を分類する。これは昔から「喜怒哀楽愛悪懼」という七情として分類されている。つまり、「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」「愛」「憎しみ」「恐怖」である。


 この中で、無条件でプラスと言える感情は「喜び」と「楽しさ」だ。(この二つの違いは微妙だが、たとえば、遊びをしている状態などは「楽しさ」であり、思わぬ利益を得た感情などは「喜び」だろう。)


 ところが、「愛」は、無条件にプラスとは言えないのである。というのは、愛とは一種の欠乏状態における感情なので、愛が喜びになることもあれば、悲しみになることもあるからだ。もちろん、単純に、好きなものの傍にいて、それを眺めている時の感情も愛だし、好きな人のために奉仕する気持ちも愛だ。そして、何かが「好き」という感情は、それだけでも一種の満足感を与えることもある。とりあえず、「愛」はある対象に対して抱く肯定的感情ではあるから、プラスとしておこう。


 さて、その他の「怒り」「哀しみ」「憎しみ」「恐怖」などの感情がマイナス感情であり、我々の心を苦しめるものであることは言うまでもない。(この「苦しみ」も七情に追加してもいいが、苦しみはむしろ総合的なマイナス感情だろう。)こうしたマイナス感情を心から完全追放してもいい、と思う人もいるだろう。実際、それができている人間もいる。それは「多幸症」という精神病患者である。また、麻薬などを用いることで、多幸症に近い状態を作ることもできるようだ。


 だが、精神病患者になるのも、麻薬を使うのもいやだというのなら、我々は「哲学的」に精神の自己制御を試みる必要がある。それが、これから本格的に論じる「心術」である。


 昔の用語では、心術とは、「心の状態」のような意味で使っていたようだが、私はそれをまさしく、「術」として論じるつもりである。

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寛容の世界

非寛容というのは狭量とほぼ同義語で、俗な言い方をすれば「尻(ケツ)の穴が小さい奴」となる。
だが、よく考えてみると、非寛容を攻撃する立場は誰の立場かと言えば、「罪を犯した人間」である。そういう人間に、被害者を含む「罪を裁く立場の人間」が「非寛容だ」と非難されるわけだ。
もちろん、罪を犯した人間その人ではなく、罪人を弁護する立場の者、罪人を許せ、とする立場の者が非寛容を攻撃することも多い。だが、それは、「罪人を弁護することで利益を得る者」である。たとえば、罪人の家族や友人、弁護士などだ。
では、世の中が寛容な世になって誰が利益を得るか。当然、罪人、あるいは犯罪を犯す高い可能性を潜在的に持つ人間である。
とすると、非寛容への攻撃というのは、「正義は何の根拠や権利があって不正義(罪)を罰するのか」という奇妙な論理だとなる。つまり、不正義が横行する世の中を望むのか、ということだ。

聖書は法ではなく倫理を説いた書だが、その中に「私は罪を犯した者を何回許せばいいのですか」という質問にキリストか誰かが「7の70倍許せ」と答える場面がある。
さて、現代で法律が寛容の精神で「あらゆる罪を490回まで許せ」としたらどうなるか。当然、あらゆる人が悪の限りを尽くし、489回で打ち止めにするだろう。それまでに何人が殺され、何人が暴行され、何人が財産を奪われ、何人が強姦されるだろうか。
これが論理的に見た「寛容の世界」である。もちろん、ここでは冤罪問題などは考慮していない。

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酔生夢人
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男性
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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