ちな姫路
それこそAKBのせいやろ
日本のアイドルがレベル低すぎるからそうなるんやで?
その前はハロプロ地獄だしな
ダサいだろあれ
あれ全然美人すぎてないちょっと微妙や奴ばっかやった思い出
急速に沈静化したし
今でも嫌いやないが
歌謡曲ならまだしも
歓声の無いスポーツ、ライブとか黒歴史すぎるだろ
なんであれ世間でもネットでも大絶賛されまくってたんやろ
気の赴くままにつれづれと。
7 心術の5「記憶力」
記憶力の強い弱いは、学生などにとっては大きな問題である。我々の思考は自分の記憶に基づいて行われるのだから、記憶力の弱い人間は思考の内容も貧弱にならざるをえない。ところが、記憶には幾つかの傾向があって、覚えようとしなくても覚えることもあれば、覚えようとしても覚えきれないこともある。
まず、自分が深い興味を持っている事柄は、強いて覚えようとしなくても覚えるものである。よく子供で、駅名やら自動車の種類やら怪獣の名前やらを無数に覚えている子供がいるが、これは子供というものが記憶能力がすぐれているからだけではなく、自分が興味があるから覚えているのである。
また、具体的イメージのあるものは覚えやすく、抽象的なものは覚えにくい。鎌倉幕府成立を「いい国作ろう鎌倉幕府」とか、ルート2を「一夜一夜に人見頃」とか覚える類だ。
短い言葉は覚えやすく、長い言葉は覚えにくい。元素記号の「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム」などをを「水兵リーベ」と覚える類だ。あるいは古文助動詞「べし」の文法的意味「推量・意志・可能・当然・命令・適当」を、その頭文字をつなげて「スイカトメテ」とする類だ。これらは短くすると同時に、「イメージ化」も含まれている。
人の名前と顔を一致させて覚える能力は、教育者や政治家には必須の能力だが、これが苦手な人間もいて、私はその一人である。そもそも、人の名前と顔は恣意的な結びつきでしかないのだから、その相手が絶世の美男美女でもない限り、覚えきれるはずがない、と私などは思うのだが、これを楽々とやっている人もいるようだ。楽々とではなく、努力してやっているのかもしれないが、努力してもそれができない私のような人間は、脳の欠陥があるのかもしれない。しかし、若い頃から本ばかり読んできて、現実よりも虚構世界の住人の方が好きな人間が、現実の人間の名前が覚えきれないのは当然だろう。要するに記憶力のいい人間というのは、これまでに頭をあまり使わなかったために脳の皺が少なく、新しい事を刻みやすいのではないだろうか。年を取ると物覚えが悪くなるというのは、これまでの記憶のために新しい記憶がインプットできなくなることだろう。といって、これまで覚えたことを消すのも不可能なのだから、物覚えが悪い人間は、繰り返し口に出したり、紙に書いたりして覚えるという作業をするしかないだろう。
学習に際して、前に書いたような工夫がなされてきたのは、逆に言えば、大多数の人間にとってそれらがいかに覚えにくいかを表している。にもかかわらず、学校の先生などは、こともなげにそれらを暗記しろ、などと生徒に命令したりする。私など、大学の生物の授業の最初に「クレブス回路」を覚えろ、と言われて、それをどう覚えればいいのか見当もつかず、絶望した記憶がある。まあ、今にして思えば、そこで工夫をして、何としてでも覚えるのが大学生としての義務だったのだろう。ある程度の暗記は専門家になるための関門であることは、「外部記憶装置」であるコンピューターが普及した現在でも変わらない。むしろ、パソコンに記憶させる習慣によって、本来の記憶力が低下して、専門家としては重大な欠陥が出てくる可能性もある。いくらコンピューターが有能でも、データ入力が適切かどうかの判断は人間がするしかないのだから、覚える事柄の内容が変わるだけで、覚えることがなくなったわけではない。あまり機械に頼りすぎて人間自体の能力が低下しないようにする必要があるだろう。
まあ、教育勅語の暗唱や、歴代天皇の名前を全部暗唱できることなどが、何のメリットがあるかなどはわからないが、歴史学者などにでもなれば、それも無意味ではないだろう。世の中には、円周率を何百桁も覚えるという「記憶のための記憶」でさえも趣味にする人間もいるくらいだから、一番大事なのは、「覚えることを過度に苦痛に思わない」ことかと思われる。
ステージで披露する「記憶術」というのがあるが、これは短時間に大量に覚えるだけで、長く続く記憶ではないから、一般人には無益である。そのコツだけ言えば、「イメージ化」である。たとえば、「帽子、ロケット、トランプ、試験、兎」と出てきたら、「帽子をかぶったロケットがトランプを使って兎に試験をしている」イメージを描くわけだ。ここで大事なのは、「帽子をかぶったロケット」のような意味不明のシュールなイメージこそが、むしろ強い印象になるということである。また、自分の体に記憶の順序を割り振って、頭から足先まで、記憶するものをイメージでくっつけていくという方法もあるようだ。
見て覚える、書いて覚える、口で言って覚える、歌にして覚える。さまざまな覚え方があるが、一番効果的なのは、「理解して覚える」ことだろう。特に、理系科目では、理解できていないことは覚えにくいものだし、仮に覚えていても使えないものだ。
歌にして覚えるのと似ているが、「語調」は記憶にとっては大事な要素だ。有名な俳句や和歌などは自然に覚えていることが多いのは、五七調や七五調は、日本人の魂にしみこんだリズムだからだろう。だから、「この土手に登るべからず 警視庁」のような標語でさえも、実に覚えやすいのである。
意志力も記憶力も、私の苦手な分野だから、この話題はこれくらいにしておこう。
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6 心術の4「意志力」
この「心術」は、コリン・ウィルソンの言う「健常人のための心理学」であり、普通人がよりよい人生を送るために、自分の精神をコントロールする技術を考えてみようという意図で書いている。
さて、精神の能力という点で、あって欲しい能力は何か。それは、若い人なら誰でも、意志力と記憶力だと言うだろう。意志力は、あらゆる目的を達成するのに不可欠の能力(ただの幸運による、偶然の成功という、私好みの『三年寝太郎』『物臭太郎』的な成功は、ここでは度外視する。)であり、成功の大きな要素である資格試験などを突破するには記憶力が必要だ。
意志の弱さと記憶力の弱さでは自信のある私が、こういうテーマで何かを言うこと自体、ちゃんちゃらおかしいと思われそうだが、とにかく、必要なテーマについては考えてみるというのが、この文章の基本方針なので、それを考えてみよう。
私自身は意志力も記憶力も弱いのだから、ここで書くことは、あるいは、人によっては有効かもしれない方法という程度の話である。というのは、私自身は、これから成功しようという気もないし、自らを鍛えようという気もないので、これは、若い頃の自分にアドバイスするなら、こんなところかなあ、という程度のものなのである。
グルジェフという神秘思想家がいる。詳しくは、コリン・ウィルソンの著作などを読んでもらえばいいが、彼の思想の一つに「オクターブの理論」というのがある。理論などと言うと大袈裟だが、要するに「人間とは三日坊主な存在だ」というだけの話である。つまり、我々の意志には、必ず弱まる時期がある、ということである。それを音階のミとファ、シとドの間の欠如した半音部分にたとえたのである。これはなかなか上手い比喩だが、問題は、現実には我々の意志は、断絶した部分でそのまま途絶えてしまうことだ。もう一度意志するときには、前に実行した部分はほとんど使用不可能な無価値なものになっていて、新たな事業をするのと変わらない。つまり、「オクターブ」よりは、「三日坊主」のほうが、はるかに現実に合っている。とりあえず、その意志の弱まる時期の存在を最初から計画に組み込むというのが、「意志薄弱な自分」への対処法だ。
具体的には、「監視装置」を作るのが一番だ。たとえば、個室で勉強するよりは、居間で家族のいるところで勉強するほうが、勉強できるものである。それは、監視する目があるかないかの違いである。
もう一つは、意志を当てにせず、意志力などどうせ15分くらいしか続かないという前提で学習計画を立てることである。つまり、連続する長時間の勉強ではなく、5分から15分程度の短い学習を組み合わせて計画を作るのである。これは「細切れ学習法」というタイトルで別の文章に書いてあるので、別記する。
後一つの方法は、「苦しい仕事(勉強)」を、楽しいゲームに変えることである。計画を達成するごとに、自分に褒美を与えるといったようなこともその一つだ。計画の達成の度合いをグラフにして壁に貼っておくのも、一種のゲーム化である。ゲームとは「成功と失敗」を意識することなのである。
意志力については、とりあえず、このくらいにしておこう。
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