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生活の技術(14)

6)創造のコツ(「能力開発」補遺)


 


 ここで言う創造は、芸術的創造のことであるが、美術や音楽についてはうといので、文芸の創造について、そのコツのようなものを書く。もちろん、プロの創作家にはそれぞれの創造の秘訣があり、それは秘密のコツだろうが、小説家の軽いエッセイの中にそういう事が書かれていることもあるので、その中から私の記憶に残っているものや、また私自身の体験などから芸術的(文芸的)創造のコツのようなものを書いてみる。


 


① 創造物のオリジナリティを生むのは、その作者の強迫観念である。つまり、「これはどうしても書きたい」というモチーフ、あるいは気にかかってたまらないことなどがあれば、それを書いた場合、オリジナリティのある作品になるだろう。ほとんどのドラマで男女の性的関係が水面上のあるいは水面下の主題になっているのは、それがほとんどの人間の強迫観念、つまり気になってたまらないことだからである。同様に、自分が死ぬことへの恐怖が、逆に、殺人をモチーフとした作品の力となる。世の中でミステリーの需要の高い所以だ。


② ある程度の長さの作品を書くなら、毎日の継続性が大事である。つまり、その作品世界に精神を没入させるには、時間と、精神の集中が必要なのであり、まとまった時間をそれに使わないと、作品の水準は維持できないということだ。ジェイン・オースティンは、自分が小説を書いていることを家族に隠していて、家事の合間のコマ切れな時間で長編小説を何本も書いたそうだが、これは特例と言うべきだろう。


③ これは私の考えだが、「まず問題を設定する」というのが案外といい創作のコツではないかと思う。昔、堀江卓という漫画家がいて、その人の創作法は、主人公を毎回、絶体絶命のピンチに陥れて、そこで「次回に続く」とし、ペンを放り出して酒を飲みに行ってしまうというやりかただったらしい。もちろん、その先など、まったく考えていないのである。そして、次回は、前回のピンチからいかに脱出するかに頭を絞るわけである。これは、賢い方法だと思う。というのは、創作とはある意味では問題を解くことであり、その問題がいかにして解かれるかに読者の興味はあるからだ。作者自身も答えを知らない問題なら、これほどスリリングな問題も無いだろう。人間の頭は、問題を解くという方面では案外と良く働くものである。むしろ、問題を発見したり、問題を設定したりするほうが苦手ではないだろうか。そして、無の状態から作品を作るのが難しいのは実は問題が設定されていないからなのである。その点、①に書いた強迫観念には、すでに問題が設定されているのである。


 


 プロの作家でもない人間が、偉そうに創作講義をするのも何なので、これくらいにしておくが、実は世の中というものは常に「間に合わせの答え」で動いているのである。だから、ミステリーなどの解決を不合理だとか、非現実的だとか言って文句を言う人間は間違っている。現実はフィクション以上に不合理なものである。だから、作品を書こうという人間は「ある程度の合理性」さえあれば、それで十分だと、気軽に考えるのがいいだろう。なにしろ、世の中には不可能犯罪の解決を「実は犯人が宇宙人だったから」ということで片付けた作品もあるくらいだから、ノックスの「犯人が中国人であってはいけない」というハードルも、楽にクリアできるというものだ。


 


7)女にもてるには


 


 これは簡単である。常に女の側にいて、何やかやと話しかけていればいい。ただし、「百人にアプローチして、数人をモノにする」というつもりでやることだ。蓼食う虫も好き好きだから、あなたがどんなに下劣で厭な人間でも、どんなに不細工な顔でも、それでもいいという女は必ずいるはずだ。もちろん、「そんなのはモテる範囲に入らない」という人もいるだろう。では、そういうあなたは、何を望んでいるのか、世界中のすべての女から好かれ、愛されることか。そういう人間は、そういう状態が地獄であることを知らないのである。吾妻ひでおのある作品の主人公はすべての女にモテるフェロモンのために悲惨な目にあった後、「もてないってのは、なんて心が休まるんだろう」とつくづく思うのである。


 ついでに言うと、顔の良さなどというものは、女にもてる条件としてはたいした問題ではない。これは、かつての美少年である私が断言する。私をひそかに慕う女性は絶対に、無数にいたはずなのだが、実際にもてたことはほとんどなかったのである。


 


8)金を得るには


 


 これも簡単だ。金に縁の深い仕事につくことである。つまり、銀行業や証券会社。あなたに才能があればその世界で出世するし、才能がなくても、そこにある金を盗む機会はある。普通のサラリーマンなどやっていては一生金に縁が無いことは、「金持ち父さん貧乏父さん」の著者が力説しているところだ。ただし、そういう職場が非人間的職場であっても、当方は関知しない。より安全なコースとしては、公務員になるという道がある。これは国民の払った税金を優先的に使える職場であり、公務員組織全体に守られて一生を過ごすことができる。ただし、ここでも、その仕事が楽しいかどうかは別問題だ。要するに、人生の優先順位が何かということである。「あれもこれも欲しい」と思って、そのすべてが手に入るほど、この世は甘くない。芸能界で成功した美男美女たちも、枕商売無しで成功した例はほとんど無いだろう。人間としての誇りを優先して清貧に甘んじるか、金と名声と地位を得るために他の何かを犠牲にするかである。もちろん、まともな努力で地位や栄誉を得るという場合もあるだろうが、それには運命にも恵まれる必要があるだろう。


 


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生活の技術(13)



第五章 日常の習慣


 


1)はじめに


 


 日常の習慣は大事である。人間は習慣の動物と言っていいくらいで、身についた生活習慣を変えるのは容易なことではない。そして、我々の生活の大半は習慣的行動によっているのだから、生活習慣はその人の人生そのものなのだ。我々が自分の個性だと考えている物の考え方の傾向や物事への好悪も、習慣が固定化したものにほかならない。


 たとえば、物事から逃げる傾向の人間、物事をいい加減にやる傾向の人間も、最初からそうだったわけではなく、そのような行動を何回かやるうちに、それを「個性」にしてしまったのである。(実は、これは私自身のことだ。私は女性が苦手で、女性の前から逃げてばかりいたのだが、幸か不幸か、今では女性が私から逃げるような加齢臭の漂う年齢になったわけである。)


 習慣の持つ力をよく表すのが、字の上手下手である。あれは才能ではなく、字を書く際の習慣づけの結果である。つまり、少しでもきれいな字を書こうと意識して字を書いている人間は、字がだんだん上手になり、下手でかまわないと思って乱暴粗雑な字を書いてばかりいると、見るに耐えない悪筆が固定化されてしまうのである。


 そこで、ここからは、日常の習慣として知っていると役に立つ知識を幾つか書いていこうと思う。第二章の「能力開発」の部分は概論だったが、ここでは各論になるわけだ。


 


2)字をきれいに書くには。


 


 字はきれいな方がいい。私も悪筆のために、何度も恥ずかしい思いをしてきた。ある時期から意識して注意するようにしたので、少しは改善されたが、まだまだ不細工な字を書いていることがある。全体に漢字は改善されたが、ひらがなはまだ不細工なようだ。というのも、私には、「こういうひらがなが美しいのだ」というイメージが無いので、ほとんど練習もしていないからだ。もちろん、明朝体活字のひらがなを真似ればいいだけだが、どうも、こういう曲線の字は、書いていて楽しくないので、あまり練習する気にもなれないのである。漢字なら、すっきりとした1本の直線が引けたというだけでも楽しいのだが、ひらがなは曲線で書かないといけないので面白くない。まあ、これは私の単なるわがままで、「習慣化されてないから、いやがっている」だけのことだが。


 ここでは、漢字をきれいに書くコツを説明する。そのコツとは、「まっすぐ、等間隔に」というだけのことだ。つまり、「三」という字を書くなら、その三本の線がゆがまないように、等間隔になるようにするのである。できれば、その三を囲む四角をイメージして、その枠線との間も等間隔になるといい。つまり、である。このイメージ上の升目を連続していき、その中心線(字の真ん中を縦につないでいった架空の直線)がゆがまないようにする。そう心がけるだけでも、かなり見た目がきれいになるだろう。もちろん、上下の平行線が等間隔になるだけでなく、左右も等間隔にする。要するに、最初は金釘流に近い字でいい。線を均等配分し、線と線の間の空間も均等配分するわけだ。横の線を水平よりやや右上がりに傾けて書く方が自分としては美的に感じるというなら、そうしてもいい。


 大体において我々は明朝体活字に慣れていて、その字体に近いものを美しいと思う心理が形成されているので、練習の際には明朝体活字をイメージすればいい。良く見れば、明朝体活字は線と空間の均等配分を追求した結果として出来ていることがわかるだろう。その中の斜めの部分や曲線部分は、活字に従えばいいだけだ。


 次に、「字を書く」ことを運動的にとらえよう。毛筆での書道など私はほとんど知らないが、ペン字でも毛筆でも運動の基本はそう変わらないだろう。しかし、毛筆の場合は毛筆という道具の特異性が様々な困難を招く(たとえば、毛先に含ませた墨汁が無くなるまでにどの程度の線が書けるかという計算などが必要になる。)ので、ここでは毛筆の扱いは除外しておく。


 まず、大事なことは「ゆっくりと書く」ことである。急いで書いても、ゆっくり書いても、書く時間はそれほど変わらないものだ。だから、テストの時でも、あわてて書く必要はない。まして、それ以外の場合なら、字はできるだけゆっくり丁寧に書くべきである。


 次に、姿勢は正しくし、ペンや鉛筆は立てて書こう。ペンや鉛筆を操作する際は、「手首は動かさず、指先を大きく動かして書く」と良いそうだが、これは私は試したことがない。


 ペンを持った指先の動きとして、上から下の動きや、右から左の動きはスムーズに行くが、逆の動きはぎこちなくなりがちである。言い換えれば、自分の体の中心に向かう動きはスムーズで、外に向かう動きはぎこちないということだ。それが分かれば、逆に、外への動きの際に注意すればいい、ということになる。つまり、外への動きはややおおげさにやるということだ。


 本気できれいな字を書きたければ、机の上にノートや紙を斜めに置く習性は直した方がいいだろう。書道をやるように背筋を伸ばし、体を机に正対させ、紙やノートもきちんと机のラインと並行(垂直)に置くべきだと思われる。 


 自分が得意でもないことを長々と書いてもしょうがないので、字を書くことについてはこのくらいにしておこう。というのは、実は、考えながら書くという作業をする場合には、私の場合は字のきれいさなどに構ってはいられないので、私のメモやノートは今だに(この「今だに」は誤字ではない。否定を伴う場合は確かに「未だ・に~ない」のように「まだ」の意味で「未」の字を使うが、肯定文ならば「今・だに」、つまり「今でさえも」の意味だから「今」の字を使うべきなのである。)ひどい悪筆なのである。それで「上手な字の書き方」を論じているのだから、図々しいにもほどがある。


 


3)集中力を高めるには


 


 集中力を高める確実な手段は、集中を妨げるものを排除することである。つまり、自分の内面のコントロールによって集中するよりも、そのほうが簡単確実なのだ。こういうのはコロンブスの卵の一種であって、聞けば当たり前としか思わないが、それを自分で気づいて実行している人間は少ない。


 次に挙げる項目のうち、特に③は盲点になるところだ。人間の根本的エモーション(情動)は「自己愛」なのであり、我々はいつも自分が気になって気になって仕方がない存在なのである。自分が受け取る情報が「他人事」なら、その情報を我々は少しも気にすることはない。だが、ひとたびそれが自分のこととなると、我々の耳は地獄耳になり、またそれを聞いたことで死ぬほど心をかき乱すのである。


 集中力を高めるには


 


① 雑音をシャットアウトする。~自然の音はあまり我々の集中をかき乱すことは無い。人工的な音は、(音楽も含めて)我々の集中を乱すものである。


② 気になる視覚的情報をシャットアウトする。~たとえば、部屋の壁にアイドルのポスターを貼ると、そこに目が行くたびに、必ず雑念に誘われるだろう。その数秒・数分の積み重ねが、膨大な時間の無駄になるのである。


③ 作業中は自分に関係する情報が届かないようにする。~電話でも伝言でも、作業(勉強・仕事)中はすべてシャットアウトするという決まりを家族と取り決めておくと良い。


④ 定期的に休憩する。~人間の集中できる時間は15分が限度だという説がある。これは個人差があるだろうから、自分が集中できる時間を適当に決めて、定期的に休憩を入れるべきである。ただし、その休憩の時に、他のことへの集中が起こらないようにすること。たとえば、面白い本などを読み始めてはいけない。せいぜい、お菓子を食うか、軽い運動をするくらいが「中休み」としては適当である。


⑤ 定期的に集中ワード(「東大合格」などの目標・標語など)を見て、集中力を取り戻すように習慣づける。


 


 


【補足】上に書いたことと関連するが、物事を自分と関連づけることで関心が能動的になるということは重要だ。関心が能動的になると、知識の吸収や定着の度合いが高まるので、学習や自己教育に利用することもできるだろう。


 たとえば、美術が理解できない、絵の良さが分からない、という人間は多いが、そういう人間が美術館に行った場合、「その中の作品の一つだけただで貰えるなら、どれを貰うか」という思考実験をするのである。「どれか一つを買うなら」でも「家に飾るなら」でもいい。そうすれば、そこにある無数の絵は、心理的にすべて自分とつながる可能性がでてくるわけで、それだけでも絵に対するアンテナの感度が上がることは請け合いである。(これは赤瀬川原平が言っていた。)


 


4)会話能力を高めるには


 


 会話を面白く見せるには


 


① 表情を豊かにする。~表情は感情を導き出すものである。むっつりした表情をしていると陰鬱な気持ちになり、笑顔でいると明るい気持ちになる。そして、表情は伝染するものなのである。だから、最初は「作り笑顔」でもいいから、笑顔で人と接することである。笑顔で話せば、つまらない内容でも面白く聞こえるし、下手な冗談でも笑顔で言えば、相手は笑いやすい。ぶすっとした顔で冗談を言われても、相手は笑っていいのかどうか判断に困るだろう。つまり「笑顔は人間関係のスタートライン」なのである。


② 話し手自身が自分の話す内容を信じること。~これはセールスマンの極意でもある。自分の売っている商品が本当に素晴らしいと信じて話しているセールスマンと、自分は価値の無い商品を、騙して売ろうとしていると思っているセールスマンと、どちらに説得力があるかは自明だろう。冗談を言うにしても、「自分の冗談は面白い」と心から思っていれば、そう聞こえるものだ。では、どうすれば自分自身を信じられるか。『GS美神』の横島に「自分ほど信じられないものがあるか!」という名言があるが、この言葉に激しく同感する青少年も多いだろう。だが、それには自己暗示という有効な手段がある。要するに、人間の思考は一時に一事しか考えられないシステムだから、自分自身に常に心の中で言い聞かせるのである。たとえば、不安な気持ちになったら「Yes I can.」と心の中で叫ぶのである。オバマは「Yes we can.」で全米を催眠術にかけて大統領になったくらいだから、自分で自分に暗示をかけるくらいは難しいことではないだろう。


③ 自分を否定的にとらえないこと。~たとえば、「自分の態度は馴れ馴れしいと思われるのではないか」というのは否定的なとらえかたであり、「自分の態度は相手に親しみやすく思われるだろう」というのが肯定的なとらえかたである。どちらの場合も態度としては同じなのだが、その態度を取る際の心の持ち方で、相手の受ける印象は違ってくる。自分が自分を否定的にとらえれば、相手もあなたを否定的に見ることになるのである。これを「自己開示の返報性」と言う。つまり、こちらの話すレベルに応じて、相手も同じレベルで返すということだ。こちらがよそよそしい態度をとれば、相手もよそよそしい態度で返すのである。ではなぜ、自分を否定的にとらえるのか。それは、良いことを期待して、それが裏切られた場合を恐れるからである。つまり、前もって自分を否定しておけば、相手に否定されても傷つかないという計算をしているのである。要するに人間関係に対する臆病さの表れだ。逆に、人間関係を重大視しすぎているとも言える。我々はすべての人間に愛されるというわけにはいかないのである。ならば、いちいちびくびくして一生を送るのは馬鹿げた態度というべきだろう。


 


5)怒りを抑えるには


 


 これは「心術」の心のコントロールにもつながる話だが、感情コントロールの中で、特に怒りについて書こう。


 前段に「表情が感情を惹起する」ということを書いたが、怒りはその最たるものである。怒りの表情ほどすさまじい表情は無い。その表情をしながら、心を冷静にするというのは、相当に困難だとわかるだろう。表情とは体の情報であり、そして、表情(体の情報)が感情を惹起すると同時に、感情もまた表情(体の情報)を惹起するのである。


 生理学的に言えば、


 


「怒るべき事柄の情報」→脳の「怒り」の感情→ノルアドレナリンの分泌→心拍数増加・血圧上昇→脳へ怒りの情報を送る→さらにノルアドレナリンを分泌→……


 


のように、怒りが拡大されていくのである。


 では、この悪循環を解消するにはどうするか。それは「認知的再評価」による。言い方は難しいが、簡単に言えば、「自分の怒りは適正なのか?」と考え直してみるということだ。あるいは「怒って何かいいことがあるか?」と考えてもいい。実際のところ、怒りは不愉快な感情だし、怒りを他人にぶつけて、いっそう険悪な状況を作っても、何かのメリットがあるわけでもない。ただ、「怒りを発散させないと気がすまない」から怒るだけのことである。子供が癇癪をおこして物を壊すのを見れば、大人はそれを馬鹿げていると思うのだが、自分が同じような行為をしても、気づかないのである。子供も大人も怒りのために破壊的行動をしているという点では同じなのだが。


 人間はそれほど悟れるものではないさ、と言うならば、怒りたい時に怒るのもいいだろうが、怒りを爆発させて状況がましになることはほとんど無い、と言える。(これは、理不尽な扱いを受けても黙っていろということではない。正当な抗議をするのと怒るのはまったく違う行動である。)


 とりあえず、怒りの感情が起こったら、大きく深呼吸して、心臓の動悸を鎮め、血圧を下げることだ。体の怒りの情報を抑えることで、脳から怒りのアドレナリンが生じるのを抑えるのである。


 

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世界はもはやソドムとゴモラ

被害者は女装趣味や覗き趣味など、LGBT的に多趣味な人物だったようだ。まあ、魑魅魍魎の世界である。死に方まで猟奇的だ。「サロメ」の話とビアズレーの絵をちょっと思い出した。

(追記)下のコメントが、的を射ている気がする。つまり、何かの復讐だろう。そうでないと、家族ぐるみの犯罪にはならないと思う。被害者は、仄聞した範囲だと、世間通常のモラルの持ち主ではなかったようである。人前で平気で恥ずかしい行為ができるというのは、正常ではない。

外科でなくとも人を救う仕事を長年してきた医師が、娘の尊厳を奪われた復讐に家族全員の人生を捨ててまでの計画する。 よほどのことをされたのでしょうか? 家族の苦しみ、家族をぐちゃぐちゃにされたことに全部を投げ打って罪だとわかっていて仕返しする。 形は違いますが山上容疑者と似た気持ちを感じます。 真相が明らかになるほど袋小路的に苦しい、それほど社会や世間に知らしめたかったのでしょうか?生き地獄を覚悟で選んだ選択なのな、やりきれないです。慎重な警察の捜査お願いします。


28 それでも動く名無し 2023/07/25(火) 06:35:28.91 ID:7i7tYs0o0

この事件全然意味わからんのやけど
なんで引きこもり娘が女装好きのおっさんとラブホ行って親父の医者とグルになって解体してんの?


(以下引用)


〈札幌すすきの・首切断逮捕〉「医師の父はなぜ娘の逃走を助けたのか」殺されたAさんの奔放な行動と“特殊”なバーでの御法度行為…瑠奈容疑者とは”知り合い”だった


配信

集英社オンライン

集英社オンライン



「ともちゃん」という名前で知られた存在だった


1/2ページ


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「トレント最後の事件」の謎への挑戦

前に、「トレント最後の事件」について少し書いた気がするが、検索しても出てこないので気のせいだろう。この小説を読み始めてたぶん半月くらい経つが、あまり熱心に読んでいないので、まだ全体の3分の2程度しか読んでいない。というのが、「小説としては面白いが、推理小説としては変だ」という小説なのである。で、先ほど、その「推理小説としては変なところ」が、この小説の推理の鍵かもしれないと思い当たって、最初不熱心に読んだ冒頭部分を読み返してみて、ある推理に至ったので、書いてみる。
先に、「小説としては面白い」という説明からする。全体の3分の2までのその半分くらいが、主人公の素人探偵トレントが、犯罪の容疑者のひとりであるマンダースン夫人(殺人被害者の妻)に恋をする、その心理描写になっているのである。まあ、「若きウェルテルの悩み」のような「片思い小説」という点で文学性はあるわけだ。しかし、事件そのものの説明はあまりに漠然としている。推理小説としてはこれはおかしすぎるだろう。
そこで、最初の部分を読み返すと、最初の一文がこう書かれている。

ほんとうに重大なことがらと、外見だけのものとを正確に判別することは、我々凡人にとっては至難のわざというべきであろう。

これで、答えが分かった、と私は思ったので、この一文を書いているのである。ちなみに、第一章は、この殺人事件の被害者マンダースンという世界的大富豪の生涯や人物像の紹介になっている。そして、第二章以降は、まったくその種の話は出て来ないので、読者はこの第一章の内容や冒頭の第一文を絶対に忘れるのである。マンダースンは若いころは冒険的な投機家で、中年以降は堅実な金融資本家となっていたが、投機家的精神は老年になっても残っていた、とある。
もう、これで明白ではないか。
つまり、殺人事件は「ほんとうに重大なことがら」ではなく、「外見だけのもの」であるから、事件自体の経過の描写がほとんど無かったわけだ。
この小説にはG・K・チェスタトンへの献辞がある。その献辞によれば、チェスタトンなら、この作品を楽しく読んでくれるだろう、とされている。つまり、この作品自体がチェスタトン的な作品だ、と暗示しているわけだ。すなわち、正統的な推理小説ではなく、かなりトリッキーな「変則的推理小説」だと推定できる。
この作品で「本当に重大なことがら」は、第一章であり、そこに事件の真の鍵がある。そして、殺人事件は「外見だけのもの」であるとしたら、事件の真相は、「この殺人事件の死体はマンダースンではない」となるだろう。そして、マンダースンの死という(フェイク)大事件で起こる株式市場の大暴落と、それを利用した投機行為(底値で投げ売りされた株を買い占めること)こそが事件の真相だったわけだ。そして、本当の「殺人」被害者は、株式大暴落で財産や職を失い自殺した多数の人々だ、となる。
まあ、この推理が当たるかどうか、楽しみである。
(些末な部分で言えば、「マンダースンの死体」が義歯をはめていないのは、それが本物のマンダースンの死体ではないからだろう。警察は、死体が義歯をはめていないことに気がつきもしない可能性は高い。そもそも、マンダースンが義歯をはめていたことなど警察は知るはずがない。実際にマンダースンを知っていた人間が警察にいるはずもない。まあ、多少の不都合はカネで誤魔化せるだろう。)(犯罪の一番の「協力者」がマンダースンの妻であるのは言うまでもない。妻が、「この死体は夫ではない」と言えばすべておジャンである。だから、名探偵の恋情が捜査の邪魔になるわけで、そこに作者の皮肉がありそうだ。)(死体の片目が拳銃で射られたのは、その片目が何かマンダースンと異なる特徴を持っていたからだろう。)

(後記)最後まで読んだが、私の推理は大外れだった。だが、「正解」が、無理だらけで実につまらないもので、「探偵」が真犯人やその容疑者の不法行為を見逃すという、オマケ付きである。解説によると、作者自身、この作品は「推理小説への嘲笑として」書いたようだ。とにかく、筆致に騙されるが、登場人物の行為がすべて不合理すぎる。ヒロインなど、世界最大の遺産を受けながら、それを放棄して「探偵」である(たぶん二流か三流の)画家と結婚するらしい。財産に目がくらんで結婚した女が、それを放棄して、あまり冴えない男と結婚すること以上の不自然、不合理はない。不合理行為が「当たり前」なら推理は不可能だ。まあ、「女性心理」はどうでもいいが、億万長者が、さほど愛情を持ってもいない妻の浮気を疑って、その間男容疑者に罪を着せるために、自分が自殺して男を犯人に仕立て上げるという「計画」が、世界一の金持ちのすることか。大金持ちというのは、自分の行為で何百人が死のうが何とも思わない精神を持っているからこそ阿漕な商行為ができるのである。それは、すべて「自分の利益」のためだ。そういう男が自殺などするか。(なお、この「自殺」は、ありえないようなアクシデントで「他殺」になるが、その殺人者は、小説中でほとんど動向が描かれなかった人物である。そういう人間が「真犯人」だ、といきなり言われても、推理でそこにたどり着くのは無理だ。だからこそ、この作品は「推理小説への嘲笑」なのである。)いろいろネタバレしたが、推理小説としては最低の作品なので、ネタバレも罪にはならないだろう。まあ、今さら誰も読まないような古い推理小説なので、私のこのエッセイでかえって興味を持つ人がいるのではないか。

作品の無理や不合理を心の中で批判しながら小説を読むというのも、なかなか面白いのである。

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「共和制(republic)の謎」

私はいつも「共和党」という言葉を聞くたびに、「共和」とか「共和制」の定義は何なのだろうと戸惑うのだが、もちろん辞書で何度か調べてはいるがまるで覚えきれないのだ。
アメリカでは「民主党」と「共和党」の二大政党があるが、その違いも分からない。単に、民主党はリベラル的・進歩的(改革主義的)で、共和党は保守的な印象がある程度だ。前者は無神論的で後者はキリスト教を護持している印象もあったが、それも今は怪しい。前者の支持層は文化人が多く、後者は経済界に支持者が多いという印象もあるが、最近のIT産業では民主党支持層が多い気もする。まあ、要するに、さほど明確な区別はないということだ。それでいて「二大政党制」を標榜しているのもおかしいと言えばおかしい。
で、改めて辞書(三省堂「新明解百科語辞典」)で調べてみて、なぜ「共和(共和制)」という言葉がこんなに毎度毎度頭を悩ませるのかという疑問が解決した。下の赤字部分に注意。

共和制:(republic)世襲による君主制に対し、主権が複数者にある政治形態。国家元首や人民の代表者を間接・直接に選出し、主権が人民にある民主的共和制と、少数特権階級にある貴族的共和制・寡頭的共和制などがある

つまり、アメリカや日本、いや、ほとんどの「民主主義」を標榜する国は「偽装民主主義」であり、実は「主権が少数特権階級にある貴族的共和制・寡頭的共和制」だったのだ。その少数特権階級とは「財界人」である。彼らは政治だけでなくマスコミも手中にしている。

「共和制」という訳語もダメダメだと思うが、republicという言葉もかなり怪しいもので、 reは「後に、戻す」意味の接頭辞だが、publicを後に戻すとはどういう意味か。いったん「公(public)になったもの」を後に戻せば、王侯貴族の手に権力が戻るわけだwww (もちろん、「公」の手に権力を戻すとも解釈できるが、民主主義思想以前に民衆が権力を持っていたことはないのだから、民衆は主権を「取り戻した」わけではなく、「奪取した」のである。まあ、王侯貴族と民衆とどちらが「公」かと言えば、当然、民衆の側だろう。)確か北朝鮮も「共和制」で、今や一種の王朝である。
結論を言えば、アメリカの共和党は「民主主義を心の中では否定している」人たちが作った政党だろう。確か、独立戦争の時にも王党派(英国支配支持者)がいたが、その後裔が共和党ではないか。つまり、何としてでも「民主主義」を思わせる党名にしたくなかったから「共和党」という変な名前にしたのだと思う。もちろん、共和党も表向きは民主主義である。しかし、「一般大衆による支配(人民による政府)」という民主主義を信じている上級国民はいないだろう。
一般民衆ですらそれ(人民による支配)を「社会主義だ」「共産主義だ」と否定するのが常である。つまり、奴隷自体が奴隷制(上級国民による支配の階級社会)を支持しているww まあ、豚自体が肉屋(権力者)になることはほぼ不可能だ、とは言えるが、何も肉屋を支持することはない。
要するに、哲人統治以外にまともな政治は不可能だろう。政治家や官僚に下種や無能しかいない社会で民主主義が機能するはずがない。



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生活の技術(12)

夢人追記:「日常の演技」あるいは「自己の他者化」ということに関して、最近出たライトノベル(アニメ化もされた)の「弱キャラ友崎くん」という作品が、私がこの「生活の技術」で述べていることの素晴らしい実践的事例になっているので、一読をお勧めする。まさに、人生を黄金に変える錬金術の教科書である。小説としても抜群に面白い。私は大筋(物事の本質や論理)しか見えないので、自分では実践できなかった。まあ、する気もなかったが。


8 心術の6「感情のコントロール」あるいは自己の他者化


 


感情は理性ではコントロールできないのが普通である。自分で自分の心が意のままにならないのだ。では、なぜそうなのだろうか。


ここで言うコントロールできない感情とは、怒りや悲しみといったマイナスの感情である。喜びや楽しさなどの感情なら、コントロールする必要は無い。なぜなら、それらは「幸福」の実体なのだから。つまり、幸福とは我々が喜びや楽しさの感情で充たされていることなのである。逆に、我々が怒りや悲しみの感情で充たされているときは、我々は不幸なのである。したがって、幸福とか不幸とかは結局は感情の問題に帰着する、と言える。つまり、外部的な条件は幸福や不幸の条件にはなりうるが、幸福や不幸そのものではないのである、世の中の人間の多くはここを錯覚しているのだが。


何億円もの年収があり、映画女優かモデルのような美女を恋人にし、名声にも恵まれている人間を見たら、多くの人は彼を羨望するだろう。私も多分そう思う。だが、一瞬の後には、「だが、本当に彼は羨むべき存在かどうかわかったもんじゃないぞ」と私は考える。というのは、人間の本当の生活は、彼の心の内部で起こる生活、つまり彼の感情生活だと考えるからである。たとえて言うならば、味覚障害の人間にこの世でもっとも贅沢な美食を与えたとして、その彼を羨むかどうかということである。もちろん、羨ましくもなんともない。だが、世の多くの人間は、彼がその美食を口に運んでいるという事実だけを見て、彼を羨むのである。


要するに、大事なのは我々自身に適切な感受能力があるかどうかということなのである。


とりあえず、それはあるものとしよう。そうすると、問題は次のようになる。


「我々がどうあろうが、我々の毎日の生活は外部の条件に左右され、我々の感情もそれによって幸福になったり不幸になったりする。それにどう対処すればいいのか」ということだ。


言葉を変えれば、外的な条件によって心が動揺せず、穏やかな幸福感を保ち続けるにはどうすればいいのか、ということだ。これが冒頭に書いた、「感情のコントロール」の問題である。果たして感情はコントロールできるのかどうか。冒頭に私は「感情は理性ではコントロールできない」と書いた。それで話が終わりでは「心術」の意味がない。


感情は理性でコントロールできるという想定で考えてみよう。それには何が有効か。


 


ここで、妙なテクニックを提出しよう。それは「自分を他者化する」という方法である。


ある出来事によって生じる負の感情が制御できないのは、その出来事が自分自身の存在を傷つけるからである。それが他人事なら、我々は平気なものだ。「我々は他人の不幸に平然と耐えきれるほどに勇敢だ」と皮肉ったのはラ・ロシュフーコーだったと思うが、まさしくその通りであって、マイナス感情はすべて、それが自分に関わる何かを傷つけるところから生じるのである。自分の恋人や友人の不幸が我々を傷つけるのも、我々がその恋人や友人と一体化した感情を持っているからなのである。だから、たとえば自分のひいき俳優や歌手の悪口を言われると我々が不愉快になるのは、その悪口が、「その俳優や歌手が好きな自分」とか、「自分の趣味」への批判になるからなのである。つまりは自分自身が攻撃されたように感じるから我々は不愉快になるのである。


言い換えれば、我々が負の感情を感じるのは、その出来事が我々への攻撃だと無意識に判断しているからであり、その土台には我々のナルシシズムがある、と言える。


そこで、「自己の他者化」という「心術」が対策として考えられる。


「自己の他者化」とは、自分という存在と我々の精神の中の自我(自我とは思考の主体だとしておこう)とを切り離すことである。そして、自我のみが真の自分であり、他の部分は自分のロボットだと考えるのである。つまり、私という自我が私というロボットを操って行動させているのだと考えるのである。そして、その操られている自分は真の自分ではないから、それに対する如何なる攻撃も批判も気にしないようにするのである。


言い換えれば、これは「日常を演技する」ということだ。


ビートたけしが、「俺は笑わすのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」と言ったことがあるが、「笑われる」とは、彼自身が笑われることであり、「笑わす」とは、彼の演技によって彼の虚像が笑われることだ。見かけの上ではどちらも同じに見えるが、内実は違うのである。彼が「笑わす」場合でも、見かけの上では笑われているのは彼だ。しかし、その時、彼は「自分自身が笑われている」とは思わず、「演技している自分を笑わせてやっているのだ」と考えるのである。本質的にシャイな人間である彼がなぜ、舞台に立って、笑われることに耐えきれるのかと言えば、それは「笑われているのは自分ではない」からである。


これで、「自己の他者化」ということがわかるかと思う。


我々は実は、日常的に演技をしている。ただ、それに対して無意識なだけである。前にも書いたが、『徒然草』の中に、「人と交わると、言葉は、他人がそれをどう聞くかを顧慮しての発言となり、自然のままの言葉ではない」という一節があるが、発言に限らず、他者と交わる時の我々の言動のすべては他者を顧慮した「演技」なのである。あるいは、他者を顧慮した「政治的行動」なのである。


そして、そうした演技から解放された時に我々の願う「随所に主となる」ことが達成されるのだが、それは、あるいは演技を演技と意識しなくなった状態なのかもしれない。自分の演技の無様さに不愉快さを感じている人間が、他者との交流を不快に思うようになり、引きこもりなどになるのだろう。自由自在に演技のできる人間こそが「この世界のチャンピオン」なのである。


演技の話は前にもやったので、ここでは「心術」としての「自己の他者化」という方法だけを心に止めておけば良い。要するに、誰にも「真の私」を理解できるはずは無いのだから、他者の批判や攻撃はすべて的外れであり、それを私が一々気にするには及ばないということである。この世のすべては自分をも登場人物の一人とする人形芝居にすぎない、というような考え方をすればいいのである。言い換えれば、「自分という存在や自分の感情をあまり過大視するな」ということだ。


もちろん、この考え方は「だから何をしてもよい」とか「だから責任を取る必要はない」とかいう短絡的な思想に至ってはならない。あくまでこれは精神的な姿勢の話であり、演技だろうが何だろうが、人の社会的言動のすべては(本当は、内面的生活もそうだが)その人に返ってくるのである。禅問答で、「お前は、そのうち閻魔大王に飯代を請求されることになるぞ」と言う面白い言い方があるが、要するに、一生を終える時に、お前は自分の生き方を後悔しないか、ということだろう。これを現代風に言えば、「お前の人生の責任はお前自身にある」という「自己責任」になるが。


 

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教育と暴力

特に韓国の話ではなく、一般論として、教育問題や子供の暴力問題、あるいは暴力論として面白い思考素材だと思うので、載せておく。要するに、自分の力で暴力に対応できない人間を暴力の危険性のある場に居させるのは妥当か、という話である。教育の場というのは、暴力と直接に対峙する場でもある。
この事件とは逆に、子供が教師の理不尽な行為に対して、言語構築能力が無いために我慢させられる場合も多いだろう。教育現場とは、ある意味では暴力と暴力の緊張した現場でもある。もちろん、すべての組織がそうであり、上への絶対服従の代表である軍隊ですら、先日、気に食わない相手(上官)を射殺する事件があったばかりだ。

(以下引用)

韓国の女性教師、小6男児に殴られ踏みつけられ、全治3週間+PTSD…近く刑事告訴+損害賠償請求


配信

KOREA WAVE

SBSキャプチャー(c)news1



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