忍者ブログ

刑務所よりひどいスポーツ強豪校のいじめ

少し長い記事なので途中で終わるかもしれない。あきれるほど凄惨ないじめだが、スポーツ強豪校の部員の精神構造は、案外こんなものなのではないか。完全に暴力団や不良の精神である。

(以下引用)

《静岡の強豪私立・磐田東高に警察捜査》剣道部寮で凄惨いじめ「裸画像をメルカリ出品」「ビンタSNS動画」複数部員の喫煙、暴力を公表せず


配信

NEWSポストセブン

剣道強豪校でいじめ






発覚したいじめの数々



拍手

PR

手紙配達者(文づかい)25

式部官が突く金房の付いた杖が寄木細工の板に触れてとうとうと鳴り響くと、天鵞絨(びろうど)張りの扉が一時に音もなくさっと開いて、広間の真ん中に一本の道が自然に開け、今宵の六百人と聞いた客たちがみな「く」の字のように身体を曲げ、背の中ほどまで切り開けて見せた貴婦人の頸(くび)、金糸の縫模様のある軍人の襟、またブロンドの高髷(まげ)などの間を王族の一行が通り過ぎなさる。真っ先には昔ながらの巻き毛の大仮髪(かずら、鬘)をかぶった舎人(とねり)が二人、ひき続いて王と妃の両陛下、ザクセン、マイニンゲンの世継ぎの君夫婦、ワイマール、ショオンベルヒの両公子、これに主な女官が数人従っている。ザクセン王宮の女官は醜いという世間の噂どおり、いずれも顔立ちが良くない上に、人の世の春さえ早くも過ぎた者が多く、中には老いて皺だらけであばら骨をひとつひとつ数えられそうな胸を、式なので隠すこともできず出しているなどを額越しに見ていると、心待ちにしていたその人は来ず、一行が早くも果てようとする。その時、まだ年若い女官がひとり、殿(しんがり)に堂々と歩いて来るのを、そうだろうか、そうでないだろうかと仰ぐと、これこそ我がイイダ姫であった。

拍手

手紙配達者(文づかい)24

王都の中央でエルベ河を横切る鉄橋の上から眺めると、シュロス、ガッセにまたがる王宮の窓が今宵は特にひかり輝いている。私も招待の数に入り、今日の舞踏会に招かれたので、眺めていると、アウグスツスの広小路に列をなした馬車の間をくぐり、今玄関に横付けした一両から出て来た貴婦人が、毛皮の肩掛けを随身に渡して車の中に隠させ、美しく結いあげた黄金色の髪と、まばゆいほどに白い襟元を露わにして、車の扉を開いた帯剣の護衛者を振り返りもせず入った後で、その乗った車はまだ動かず、次に待っている車もまだ寄らない間(ま)を計り、槍を手にして左右に並んだ熊毛兜(帽子)の近衛兵の前を過ぎ、赤い毛氈を一筋に敷いた大理石の階段を上った。階段の両側のところどころには、黄羅紗に緑と白の縁取りをした制服を着て、濃紫(こむらさき)の袴を穿(は)いた男がうなじを屈(かが)めて瞬きもしないで立っている。昔はここに立つ人がそれぞれ手燭を持つ習いだったが、今は廊下も階段も瓦斯灯を用いることになって、それは無くなった。階段の上の広間からは、古風を残した吊り燭台の黄蝋(ろう)の灯が遠く光の波を漲(みなぎ)らせ、数知れぬ勲章、肩章、女服の飾りなどを射て、祖先代々の油絵の肖像の間に挟まれた大鏡に照り返されている有様、言うのも今さらである。

拍手

手紙配達者(文づかい)23

一月中旬に入って昇進任命などにあった士官とともに、奥のお目見えを許され、正服を着て宮廷に参り、人々と輪になって一間に立って臨御を待つうちに、老いて体のゆがんだ式部官に案内されて妃が出ていらして、式部官に名を言わせて、ひとりびとり言葉をかけ、手袋を外した右の手の甲に接吻させなさる。妃は髪は黒く、背は低く、褐色の御召し物があまり見栄えがしない代わり、声音がとてもやさしい。「あなたはフランスとの戦いに功績のあった誰それの親族か」など懇ろに話しかけなさるので、いずれの者も嬉しいと思っているだろう。従ってきた式典の女官は奥の入り口の敷居の上まで出て、右手に畳んだ扇を持ったまま直立している、その姿がとても気高く、鴨居柱を額縁にした一枚の油絵に似ていた。私は何気なくその顔を見たら、この女官はイイダ姫であった。ここに、そもそもどうして。


* * * *

拍手

「自由という魔境」

私自身の別ブログに書いたものだが、仮説として面白いので、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
「壺斎閑話」記事の末尾で、中村某という者が、ドストエフスキーは生涯にわたって精神病者だったという説を出していることについての文章である。まあ、その当否は別として、下の部分は面白い。

四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいた

という部分である。「したいた」は「していた」のタイプミスだろう。
これは、精神病を考えるうえで、面白い話である。つまり、「自由こそが精神を病ませる」という仮説だ。監獄や病院にいる時は拘束状態だから、「自由をあきらめる」。それが精神の安定をもたらすのではないか。あるいは、「自由」の代わりに「夢」や「希望」を置いてもいいかもしれない。夢や希望を失った状態こそが精神が一番健全に働くのではないだろうか。
そこで想起するのが、「冬の散歩道」の中の

when I look about my possibility  (look aroundかもしれない)
I was so hard to please

という一節だ。この「気難しさ」が、精神の不健康さの徴候だろう。青年期が精神の危機の時であるのも、まさに夢や希望や可能性の中で迷いに迷うからではないか。つまり、カフカ的迷宮の中にいるのである。


(以下引用)

そんなドストエフスキーだが、不思議なことに、四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいたと中村は言う。じっさいドストエフスキー自身も、「懲役のほうが気持ちが穏やかだった」と口癖のように言っていたそうである。なぜ彼がそんなふうに思ったのか、それについては詳しく立ち入って考えていない。監獄のなかでは、他人との関係が単純化されるので、精神的なストレスも緩和され、異常な精神状態に陥ることが少なくなった、あるいはなくなってしまった、ということだろうか。もっとも、この懲役中に癲癇の発作が始まったわけで、それをどう考えるかは、また別の問題である。
いずれにしても、ドストエフスキーが統合失調をほぼ生涯にわたって患っており、その症状を直接描写することで、かれの作品世界が形成されたとする中村の推論は、その有効性はともかく、面白い試みである。

拍手

手紙配達者(文づかい)22

 入日は城門に近い木立から虹のように洩れ、そこに河霧が立ち添って、おぼろげになる頃塔を下ると、姫たちはメエルハイムの話を聞き終えて私たちを待ち受け、連れ立って、新たに灯を輝かせている食堂に入った。今宵はイイダ姫が昨日とは変わって楽し気にもてなしたので、メエルハイムの顔にも喜びの色が見えた。
 翌日、ムッチェンの方へ志してここを立った。

 * * * *

 秋の演習はこれから五日ほどで終わり、私たちの隊はドレスデンに帰ったので、私はゼエ・ストラアセにある館を訪ねて、先にフォン・ビュロウ伯の娘イイダ姫に誓ったことを果たそうとしたが、固(もと)より土地の習いとして、冬となって交際の時節が来ないうちは、このような貴人に逢うことは容易でなく、隊付きの士官などの常の訪問というのは、玄関の傍の一間に延引されて、名簿に筆を染めるだけなので、思うだけで訪問はせずに終わった。
 その年も隊務が忙しい中に暮れて、エルベ河上流の雪解けに蓮の葉のような氷塊が緑の波に漂う時、王宮の新年華々しく、足元が危うい蝋磨きの寄木床を踏み、国王の御前近く進んで、正服姿も麗しい立ち姿を拝し、それからふつか三日すぎて、国務大臣フォン・ファブリイス伯の夜会に招かれ、オーストリア、ババリア、北アメリカなどの公使の挨拶が終わって、人々が氷菓に匙を下ろす隙(ひま)を覗(うかが)い、伯爵夫人の傍へ歩み寄り、事の次第を手短に陳(の)べて、首尾好くイイダ姫の手紙を渡した。


拍手

男らしさ、女らしさ

「隠居爺の世迷言」記事の一節だが、過去記事の文章の調子から見てかなり温厚と思っていた隠居爺氏の意外な一面で、こういうことをブログに書いて、今後の家庭生活は大丈夫なのだろうか。

ところで、今日は女房の愚鈍さに私が腹を立ててムカついてしまった。そして「ああ、男と女だな」と思った。

という箇所のことである。どういう事件があったのか、一方的な発言しかないので、それが本当に「女房の愚鈍さ」のためかどうかも不明だ。で、問題は、私がその女房の立場なら、こういうことをSNSに書かれたら、その恨みは一生忘れないだろうということである。たとえ表面的には和解しても、心の底に恨みは残る。
概して、年を取ると「堪え性」が無くなるものだと、私は自分の経験からそう思っている。つまり、隠居爺氏の怒りは、氏の堪え性の無さの発現だった可能性もあるわけだ。しかし、この文章を読んだ読者の大半は、「ああ、隠居爺さんの奥さんは『愚鈍』な人なのだろう」と心に銘記することになる。こういう、一方的な断罪は、私も公人や有名人への批評でよくやるが、連中は批判されるのが仕事の一部のようなものだから、まったく問題はない。問題は「弱者への攻撃」だ。まあ。隠居爺氏の奥さんが案外な強者で、いつも爺氏をいじめている可能性もゼロではないだろうが、氏の書きぶりだとそうは見えない。
なお私は氏の文章に(かなり韜晦して書いているが)「男らしさ」「女らしさ」への強いこだわりを感じるのだが、実はその意識こそが社会を悪化させる一因なのではないか、と思っている。少なくとも、かなりな割合の「男らしさの欠如した男」や「女らしさに乏しい女」の生き苦しさの原因だろう。で、その「男らしさ」は本当に男らしいのか、単なる演技なのかは分からないのである。
私はバイオレンスが大嫌いで、ある歌の歌詞だが、女の子が男の子に向けて歌う「大好きよ、強くなくても。大好きよ、頑張らなくても。」というフレーズを聞いて、かなり救われたものだった。もっと若いころに聞いていたら、人生の悩みがかなり軽減していただろう。ちなみに、これは「神秘の世界エルハザード」というアニメ(OVA)の主題曲のひとつである。

ま、要するに、男らしさも女らしさも不要で、「人間らしさ」があるかどうかが社会の構成員の要件なのではないか。つまり「ヒューマニズム」「人道性」の有無である。とは言っても、男に生まれながら性転換をしたり女の恰好をする、あるいはその逆も含めた今のLGBT運動を私が好ましく思っているわけではない。これも不自然極まるもので、すべて過度というのは悪化に至るものだ。


(以下引用)

気を抜いているから、話があちこち飛んでしまうけれど、男に男らしさのばらつき、女に女らしさのばらつきが生じてくるのは、自然の摂理みたいなもので、それが当然なのだけれども、それがそのままではなく、一挙に反対の性になろうとするのはどうしてなのだろうか。

 これは全く私の想像で、何の根拠もないのだけれど、女になろうとする男、男になろうとする女というのは、自分の本来の性に対するあこがれが強すぎるのではないだろうか。つまり、女になろうとする男は、男に対するあこがれが強すぎ、男になろうとする女は女に対するあこがれが強すぎる。

 そのため、ちっとも男らしくない自分や、ちっとも女らしくない自分を許せないんだよね。絶対に許せない。だから一挙に反対の性に飛ぼうとする。私のように、男なんて、弱虫だし、臆病だし、根性なしだし、嘘つきだし、デタラメだし、不真面目だし、努力しないし、チャランポランだし、売国奴だし、そう、まるで岸田総理のような情けないのが男だと思っていると、こんな私でも十分立派な男だと思えるんだよね。

 芸能界で、オカマとかオネエとか呼ばれている人を見ると、これも私の全くの主観になるけれども、とっても男らしい人たちだと思う。マツコ・デラックスなんて見ても、あの気配り、鋭さ、論理性などは男のものだよね。岸田総理にも食わせてやりたいくらいだ。

 ところで、今日は女房の愚鈍さに私が腹を立ててムカついてしまった。そして「ああ、男と女だな」と思った。男は兵隊だからね。ぼやぼや、ノホホンとしていると殺されてしまうという頭がある。だからピリピリしているときがある。

 女は"ぼのぼの"の世界で生きている。穏やか、まったり、ぼんやりなど。そうでないと子供は育たない。

 そんな性質の異なる男と女が一緒に暮らしているのだから、うまくいかないのも当然というか、しかし、だからうまくいくともいえる。どちらにしたところで、ご苦労様というところではあるけれど。

拍手

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
24 25 26
27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析