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ドイツはなぜユダヤには謝罪し、ロシアには謝罪しないのか

「続・壺斎閑話」記事で、ドイツとロシアの関係という面白い視点である。「deeply Japan」氏以外にはこうした視点で書いた筆者は少ないのではないか。
まあ、適当に断言すれば、それは、ユダヤ(偽装ユダヤ・DS)が20世紀初頭から世界のマスコミを支配した結果だということだ。
ついでに言えば、DS(古代ユダヤ的思想だが、ユダヤ民族ですらない。その思想は「シオン長老の議定書」に明確に示されていて、これはすべての人が政治学の初歩の教科書、あるいは反面教科書とすべきである。)がユダヤ民族受難を自らの盾としている、というのは私が大昔から自分のブログで書いている(指摘している)ことである。

(以下引用)

ドイツはイスラエルのユダヤ人に負い目を感じているか

| コメント(0)
トルコのエルドアン大統領が、今回のイスラエルとハマスの衝突に関連して、イスラエルによるガザの民間人殺害を批判して、イスラエルをテロ国家と呼んだ。それに対してイスラエルは当然反発し、エルドアンを反ユダヤ主義者といって非難した。そう言われてもエルドアンはひるまない。自分は別に反ユダヤ主義にもとづいてイスラエルを批判しているわけではない。イスラエル国家が現実に行っている行為を取り上げて、イスラエルをテロ国家と呼んでいるのだと反論した。
エルドアンはドイツを訪問中で、ドイツのショルツ首相との共同会見を催した。その席上イスラエルからの反ユダヤ主義批判に答えた。エルドアンは、ドイツが今回のイスラエルの行為を批判できないでいるのは、ユダヤ人に対して行ったホロコーストが負い目になっているのだろうとほのめかした。そのうえで、トルコはホロコーストとは何の関係もないから、余計な負い目を感じずに、自由に発言できるのだと言った。その負い目は、ほかの西側の諸国も感じている、とまではいわなかったが、西側諸国がイスラエル国家のテロ行為を非難しないのは、不思議なことだというようなニュアンスを感じさせた。
じっさい、エルドアンの言っていることは、理にかなったことだと思う。イスラエルは、自分を批判するものに「反ユダヤ主義」のレッテルを張って反撃するが、それは、この言葉が西側諸国に対して呪文のような効果を発揮することを知っているからにほかならない。とろこがトルコのような、ホロコーストとはかかわりがなく、またユダヤ人の金権に支配されてもいない国では、この言葉が呪文のような効果を発揮することもない。エルドアンとしては、トルコはNATOの一員でもあり、イスラエルによって一方的に攻撃されるおそれもないことから、言論の自由を遺憾なく享受することができるわけだ。
ドイツがホロコーストの歴史を踏まえて、ユダヤ人社会やイスラエル国家に対して過剰に気を使ってきたのは、ある意味必然のことだった。それには、英米はじめ西側の主要国が、ユダヤ人について特別に好意的になっているという事情がある。そういう事情があるから、ドイツとしては、イスラエルに対して強気に出られないのであろう。
ところが、同じようにジェノサイドの対象としたロシアに対しては、ドイツは全くと言ってよいほど気を気を使っていない。第二次大戦中には、ドイツはロシア人を2000万人以上殺したわけだし、しかもきわめて残忍な方法で殺した。それについてドイツは、ユダヤ人へのホロコーストのようには、責められることがなかった。色々な事情が働いたためである。そんなわけで、ウクライナ問題に関しては、ドイツは安心してロシア非難を行っている。今流行りのダブルスタンダードというやつである。
日本も、ロシアに対するドイツ同様、東アジアの諸国との関係においては、責任を追及されることがほとんどなかった。だから、何事もなかったような顔をして、それら諸国に接し続けていられるわけである。
ともあれ、イスラエルによるパレスチナ人への凶悪なテロ行為は、今の時点でもとどまるところを知らない。どうやらネタニヤフらは、パレスチナ人を本気で皆殺しにするつもりらしい。

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「糖尿病」の呼称変更に「血糖病」を提唱

確かに「糖尿病」という名前は誤解を生みやすいし、名前そのものに不潔感がある。病名変更には概して私は不賛成だが、これに関しては賛成だ。ただし、なぜ「ダイアベティス」などと、おそらく英語名だと思うが、覚えにくいカタカナ言葉にするのか。「血糖病」でいいではないか。「決闘病」は少しワイルドでカッコいいし、「血統病」の側面もあるのだから。
まあ、「尿」の一字を外せばいいだけとも言えるが、「血糖病」には、何より「高血糖」の恐ろしさを世間に周知させる意義がある。
ついでに言えば、血糖値の高い人は、毎朝2㎞程度歩くだけでもかなり改善される。若者より年寄りのほうが運動は必須なようだ。ただし、汗をかくほど、あるいは息が上がるほど激しい運動の必要はない。老人には運動による事故や故障も多いのである。まあ、景色や空を眺めながらのんびり歩くのがお勧めだ。

(以下引用)



       
       
       
       
       
       
       
1: ななしさん@発達中 ID:No8EVI090
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言われてみれば少し変か?
2: ななしさん@発達中 ID:29hkE9a60
そんな気になるんか
10: ななしさん@発達中 ID:w3f1PXHA0
遺伝の人も居るからな
20: ななしさん@発達中 ID:nGwDwjHp0
>>10
これ
10代でなった友達いるわ皆バ○にしてたけど今考えるとまじで可哀想
56: ななしさん@発達中 ID:77cmC1ac0
>>10
会社におったわ
ほんまかわいそうやった
54: ななしさん@発達中 ID:vzW8d4CE0
>>10
むしろ基本は遺伝や
21: ななしさん@発達中 ID:vTmVIpwC0
1型と2型って何が違うんや?重症度か?
25: ななしさん@発達中 ID:DjCAvLW30
>>21
1型は生活習慣に関係なく子供でも発症するやつや
41: ななしさん@発達中 ID:EuAXjGwtd
>>21
インスリン分泌する細胞が壊れててインスリン注射の治療が必須なのが1型
それ以外が2型
13: ななしさん@発達中 ID:fA8ObcPu0
糖尿病って未だに増えてるらしい
こんだけ言われても増えてるんやな
18: ななしさん@発達中 ID:ybv6cSsUH
恥ずかしい方がいいだろ
先天性の人は別の呼び方でもいいかもしれんが
46: ななしさん@発達中 ID:7FPQN9fE0
あれ?
こないだディアベテスにならなかったっけ
167: ななしさん@発達中 ID:vzW8d4CE0
ダイアベティスって名前になるらしいで
42: ななしさん@発達中 ID:Xu/vC/q/0
名前変わるの知らないんか?
ダイアベティスになるで
28: ななしさん@発達中 ID:LXJD2FcH0
もっとヤバそうな病名にした方が良い気もするで
23: ななしさん@発達中 ID:DO5RQZ5Kd
確かにもっと危機感ある名前に変えたほうがええと思うわ
51: ななしさん@発達中 ID:2ThyXb9nr
>>28
足壊死病とか失明病とかどう?
64: ななしさん@発達中 ID:LXJD2FcH0
>>51
それくらい危機感持てる病名のがええな
83: ななしさん@発達中 ID:PLekbd5e0
>>51
あしえしええな
リズムがいいし壊れるとか死とか感じもカッコいい
280: ななしさん@発達中 ID:38ovc/kw0
>>51
ACEC病ええやん
38: ななしさん@発達中 ID:IseDexBD0
糖尿病って何かショボそうな名前やけど重度だと手足なくなるやろ
37: ななしさん@発達中 ID:u37MmQMo0
血糖値が上がって血管がぼろぼろになる病気だからな
副産物として糖尿になるだけで
48: ななしさん@発達中 ID:KYwLVUxH0
こんな風に眼見えなくなるの地味に怖い

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52: ななしさん@発達中 ID:1E63rehd0
尿が甘いことはどーでも良い要素しな
58: ななしさん@発達中 ID:7FZMnAu/M
血糖性神経壊死病
65: ななしさん@発達中 ID:IsDQgoi60
おじさん糖尿病で死んだけど
失目に足切断とかわいそうな最後だった
お前らも一日中甘い飲み物飲んでるけど気をつけないと死ぬぞア◯ども
73: ななしさん@発達中 ID:GYLPTAGa0
糖尿病患者が靴下脱いだらかかとが取れて靴下に残ってた話怖すぎ
78: ななしさん@発達中 ID:pz1vJcjua
言うほど糖尿病って聞いておしっことか不潔とか思うか?
でも病名による勘違いから糖尿病になる患者がいるなら名前変えるべきやな
91: ななしさん@発達中 ID:7FZMnAu/M
ア◯「糖尿病っておしっこが甘くなる病気なんでしょ?」
こんなのが何百万人といるという事実

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本当に「夜明け前が一番暗い」か

私が毎日のように散歩していることは前から書いているが、その時刻は夜明け前後で、なるべく日の出が見られる時間にしている。私は日の出を見るのが好きなのである。つまり、日の出の少し前と思われる時間に家を出て、散歩の途中で日の出にうまく時間が合えば大成功だ。
それで分かったのが、「夜明け前が一番暗い」という言葉の嘘である。
もちろん、「夜明け前」というのが正確にはどういう時刻のことかが問題だが、多くの人はそれを「日の出の少し前」と思っているのではないか。ところが、日の出の前というのは相当に明るいのである。その明るさは、遠くの森や林の枝がはっきり区別できるほどだ。しかも、一部だけが明るいのではなく、いわば世界中(視野のすべて)が明るいような明るさである。曇りの日の昼間より明るい。
なぜ、太陽が地上に出てもいないのに明るいのかという理由を推理したら、それは「雲による間接照明だ」という答えになった。つまり、この時間帯の太陽の光は、地平線以下の部分を直接に照らすことはないが、観察者の上空にある空は太陽の光を受けており、そのままだとそれは宇宙に素通りするから地表は明るくならないが、上空に雲がある場合(特に薄い雲が広範囲にある場合)、雲の水蒸気の粒が太陽の光を受けてそれを乱反射し、その無数の反射光が地上を「間接照明」するわけである。
まあ、そういう推理を楽しめるのも、自分がこれまで疑いもしなかった「知識」が、嘘であることを知る快感も、早朝の散歩で自然に触れる効用だ。
念のために言えば、曇りの日は、雲が観察者の頭上を低い高度で厚く覆うため、太陽の光は(雲の乱反射で地上に届くことなく)かなりさえぎられる。だから暗いのである。

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日本の平均寿命と高齢者問題

「シロクマの屑籠」記事で、筆者は精神科医である。
言葉の端々に「理想の社会主義国家日本」への反感が感じられる文章で、では社会保障制度に反対なのかというと、そうは明言していない。もちろん、医者である以上は社会保障制度に頼って生きているわけだ。で、高齢者だけでなく、新コロワクチンで(超過)死亡者が激増していることには一言も言わない。まあ、しかし、転載するのは、「問題提起」としての価値はあると思うからである。しかし、「高齢者の平均寿命」って何だよ。高齢者に限定した平均寿命があるのか。
一応言っておけば、新コロワクチンのような意図的殺害以外なら、私は日本人の平均寿命が短くなっても問題ないと思っている。それは「無理に患者を生かす」過剰医療のためだと思うからだ。貧困化によって、そうした医療は庶民には不可能になるから、当然、難病死亡者数と老人死亡者数は増えるだろう。

(以下引用)

いつまでも あるかわからぬ 長寿の国


 
 
今日、ある方から「日本人のエイジングについて」質問をいただいたこともあり、久しぶりに日本人の平均寿命についてググってみたんですよ。そうしたら、以下のような読み取りやすいグラフがあって。
 

*こちらのグラフは高齢者住宅ジャーナルさんが出典となります*
 
皆さんは、この表を見て何を感じますか。病院に勤務している人なら、2020~2021年あたりは高齢者があまり亡くならない年だった、そのぶん2022年は亡くなる高齢者が多かった、などと思い出すかもしれません。コロナ禍の影響はここにも現れていますね。
 
私は、ぼんやりグラフを眺めながらこう疑問に思いました。「20年後、同じぐらい高齢者の平均寿命は長いものだろうか?」と。
 
このグラフの目の付けどころはどこでしょう? 医療行政の充実や医療技術の発展によって平均寿命が延びているさま、ひいては国民の健康が促進されているさま、と着眼する人は多いでしょうし、それ自体、事実でもあるでしょう。実際、そうした変化の経済的基盤であるところの、医療費や介護費も順調に伸び続けているわけですからね。
 
しかし、我に返った私はこうも思ったのでした──「これって、人間の寿命が人工的な手段でここまで延びに延びたってことだよね?」とも。
 
男性81歳女性87歳の平均寿命は、太古の昔からそうだったわけではありません。それぐらいの年齢まで生き残る幸運な人は、狩猟採集社会や農耕社会にも稀にはいたでしょう。けれども平均寿命はもっともっと短かったはずで、その短かった平均寿命を延長したのは人工的な手段によるものです。それは医療技術やインフラ技術のおかげだったり、社会保障制度の浸透だったり、経済的基盤のおかげだったりします。人々の健康に対する意識の変化、死生観の変化もあるかもしれません。
 
ともあれ、こうした平均寿命の長い状況が成立しているのは人工的な手段のおかげに違いないのです。けっして! 自然が・勝手に・このような平均寿命の長い状態を生み出しているわけではありません。このグラフが示しているのは、1980年との比較で男性の平均寿命が8年延びるぐらいには人工的な手段と人為が積み重ねられたってことでしょう。大正時代や明治時代の平均寿命と比較すれば、その差はもっと大きくなるに違いありません。
 
が、しかし。
その人工的な手段は持続可能でしょうか?
 

 
上掲の国立社会保障・人口問題研究所さんのグラフを眺めながら、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能かどうか考えてみましょう。なんだか無理っぽくないですか。現在でさえ、国債を刷りまくって今という瞬間をしのいでいるのに、社会保障費は今後もドシドシ増えていくでしょうし生産年齢人口はドシドシ減っていくでしょう。もちろん未来においても社会保障制度は健在で、無敵で、正しいはずです。が、いくら将来にわたって社会保障制度が健在でも私たちに提供される社会保障の内実が2023年のソレと全く同じとはあまり思えません。かりに同じだとしたら、生産年齢人口にあたる現役世代が強いられる負担と出血は今とは比較にならないほど高まるでしょう。
 
案外、それこそが国民の合意なのかもしれないな、と今宵は思ったりもします。日本って、20世紀から「理想の社会主義国家はソビエト連邦ではない。理想の社会主義国家は日本だ」って言われてたじゃないですか。それで言うなら、現在の日本は理想の社会主義国家、ですよね。で、未来においても理想の社会主義国家のはず。以下のツイートのように。
 

 
「働けない人を働ける人が食わせる。働ける人から働けない人に再分配を行い、一億総活躍社会をやっていく。」 日本には、これをやっていくってコンセンサスができているんですよね? そのことの是非を私はここでは判断しません。ただ「現下の政治状況からいってそのようなコンセンサスが存在するに違いない」と勝手に思い込んでいるだけです。国民のコンセンサスは民主主義国家にとって尊いものなので、どうあれ、理想の社会主義国家をやっていくのも尊い営為であるはずでしょう。
 
とはいえ、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能じゃないとしたら、結局、何かを変えていかなきゃいけないのでしょう。そういえば最近、退職金課税の見直しについての報道がありましたよね。
 
www.nikkei.com
 
報道から察するに、就職氷河期世代が退職するぐらいのタイミングで退職金への課税が厳しくなるみたいです。理想の社会主義国家をやっていくためには仕方がないことだと、皆さん割り切るしかなさそうですね。しかし、こういうことが今後繰り返されて、ますます国債を刷りまくって、そのうち一万円札がもっとぺらっぺらのお札になって、だというのに人口減少が約束されているとしたら、どんなに重税を課したところで、未来の高齢者の生活って2023年よりも苦しいですよね?
 
社会保障制度が提供してくれるもの&社会保障制度に支払わなければならないものも含め、日本を長寿の国たらしめている与件は、15年後・20年後には今よりずっと厳しくなっているんじゃないでしょうか。
 
日本人のエンゲル係数を眺めていると、そういう予感がどうしても禁じ得ません。2023年のエンゲル係数はどのレポートを見ても26%を上回っていそうな勢いで、第一生命経済研究所によれば、高齢者や低所得世帯においてその度合いは一層激しい、といいます。エンゲル係数が高くなれば、摂取する栄養素は偏りやすくなり、それはきっと健康の基盤をも左右するでしょう。人は健康のことだけ考えていればいいわけではなく、色んなことにリソースを割かなければならないので、経済的基盤が厳しくなれば健康にとってあまり良くない食生活や食習慣が増える可能性は高い、と想像せざるを得ません。
 
それはきっと、余暇やスポーツについても当てはまります。就職氷河期世代の老後を想像した時、現在の高齢者たちと同じぐらいの割合の人がフィットネスジムに通っているとは、どうにも思えません。現在の高齢者たちに比べて、フィットネスジムに通える人の割合は低下するでしょう。登山やトレッキングを楽しむ余裕のある高齢者も低下するでしょう。メンタルヘルスにとってプラスになる活動だって、経済的基盤が弱くなれば難しくなるかもしれない。余暇やスポーツや娯楽だって健康の基盤の一端をなしているんですよ。で、それらが今後、だんだん難しくなっていくとしたら……。
 
そうやってひとつひとつ考えていくと、今日の平均寿命の長さを成り立たせている与件、その人工的な手段が私たちの世代が高齢者になった頃にはすっかり弱り果てているよう、思えてならないのです。そうなった未来において日本の平均寿命が今日と同等であるとしたら、びっくりするほかありません。テクノロジーの進歩に期待する向きもあるでしょうけど、どんなにテクノロジーが進歩したって、良質なたんぱく質にはお金がかかりそうだし、介護にも医療にもお金がかかりそうだし、少子化と経済的縮小はキツいんじゃないか……という予感を今宵はぬぐえません。
 
 

繰り返しになりますが、「長寿=豊かさ」だったんですよ。

 
七年前、私は以下のようなことをブログで書きました。
 


「長生き」=「豊かさ」なんですよ、わかっているんですか - シロクマの屑籠
 
現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90代は当たり前で、100歳超えも珍しくない。昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、最近のアルツハイマー型認知症の患者さんは、レーガン大統領のごとく、十余年の歳月を生き延びる人もザラにいる。高齢者の多くは、病院に通って診察や投薬を受けながら、あるいは種々の健康診断などを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない。
高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや宅配サービスといったアメニティも、部分的には高齢者の命を支えている。昭和時代には60代70代で死ぬ人が多かったが、平成時代に入って80代90代で死ぬ人が多くなった背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
医療・福祉分野の出費が増えているあれは、そのまま命の値段である。


 
それから七年が経って、日本の経済的先細りがそろそろ見えてきたきたんじゃないでしょうか。平均寿命の長さを成立させていた「命を買う」という営み、その経済的基盤がいよいよ失われようとしています。かりに社会保障制度そのものが存続してもそれ以外の経済的与件、さらに精神的与件等々が現在より厳しくなっていたら、私たちが20世紀から積み上げ続けてきた「命を買う」という営みの内実は細くなってしまいます。日本は理想の社会主義国家であるはずなので、浮かぶ時も沈む時もみんな一蓮托生のはず。そんな未来においても長生きする人は長生きするでしょうけど、私たちのひとりひとりが男性81歳女性87歳まで生き残る蓋然性は低くなっていると想像せざるを得ません。
 
いちおう繰り返しますが、理想の社会主義国家であるとするコンセンサスが成っているのであれば、民主主義国家としてそれは尊いもののはずなので、そこは批判せず、尊んでおきましょうね。
 
平均寿命がこれから低下に向かうとするなら、これからの私たち、人生、どうすればいいんでしょうね?
 
数年前ぐらいでしょうか、60歳を「第二の人生の出発点」みたいなことを言っている人がいっぱいいたように記憶しています。いや、今でもそう言える人はいるでしょう。60歳を過ぎても働かなければならない時代ですから、それはそれでわかる気もします。
 
でも、私たち、60歳から先、だいたいどれぐらい生きられるんでしょうかね?
 
ここまでお読みになって「未来のことはわからないじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。
 
ええ、そうですとも。未来のことはわからない。だからこそ、男性81歳女性87歳まで生きられるって前提で「人生設計」するとか、わけわかんなくないですか。今の日本がドシドシ経済発展していて、ドシドシ医療や社会保障がやれるご時世だったら、そういう「人生設計」も良かったかもしれない。でも今はそういうご時世ではありません。日本は斜陽の国です。そのうえでまたまたパンデミックが来るかもしれないし、「国際的緊張」があるかもしれない。未来のことはわからないですからね。
 
いや、だからって結論らしい結論があるわけではありません。結局私たちのひとりひとりは生きるだけ生きるし、死ぬ時には死ぬのでしょう。それを正確に予測することはできないのですから。ただ、今日の平均寿命の長さに基づいて万事を計算したつもりになるのは、これからを想定するにあたってなんだか違いませんかと、そういうことを今宵は考えずにいられなかったのです。
 
未来はわからない。そのことに対して私たちがとる態度や行動はさまざまであるはずです。ひたすら貯蓄する人もいれば、今をこそ太く生きようと考える人もいるでしょう。そのひとつひとつの是非善悪や成否はここでは考えません。ただ、この長寿の国とされる日本を長寿の国たらしめているのは人工的な手段で、その成立与件がぶっ壊れてしまえば長寿だってぶっ壊れるのはたぶんそうなんです。そのことを憂いながら、屋根を叩く雨の音を聴いています。
 
 



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「地政学」という馬鹿思想

あまり、こちらのブログには似合わない話題だが、妄想・妄論ブログとしてはおかしくないだろう。最初に「地政学(知性が苦)」の定義から引用しておく。
この引用の中の

しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある[2]

というのは秀逸である。
私は原則として、「地政学」という言葉を振り回す著述者を信用しない。
政治が地理的条件と深く結びつくのは当たり前の話であり、実際の使用場面ではこの「地政学」という言葉は(現実重視の政治学という見かけを伴うが)単に、欧米政治の基本思想としての「ロシア・中国敵視政策」であるにすぎない。そのために日本や東南アジア諸国が利用されるわけだ。で、問題はなぜロシアや中国を敵視する必要があるのか、ということで、それをこれまでの「地政学」は実にいい加減に扱ってきた。
まあ、単純に言えば「白人国家以外の強国は認めない。存在を許さない」という欧米優越主義で、ロシアは「アジア」と見做されているから白人国家の仲間外れなのだろう。で、ロシアの場合は、そこからユダヤ人の大半が追い出されたという経緯もある。


(以下引用)


地政学(ちせいがく、Geopolitik)は、国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問である[1]


19世紀から20世紀初期にかけて形成された伝統的地政学は国家有機体説環境決定論を理論的基盤とし、ドイツイギリス日本アメリカ合衆国などにおいて、自国の利益を拡張するための方法論的道具として用いられてきた。第二次世界大戦後の国際社会において、地政学という言葉はナチス・ドイツの侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある[2]






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「ローマの休日」という映画題名のこと

世間的にはどうでもいい問題だが、私は誤謬が世間に広まるのが我慢できない性格なので、「逝きし世の面影」ブログが固執する、「『ローマの休日』の映画タイトルは、裏に「他者を犠牲にして得る娯楽」の意味が隠されている」、という説を考察してみる。

第一に、この題名にそういう意味が隠されているとしたら、それは

誰の利益(娯楽)なのか

という問題だ。映画の内容からすると、ローマの休日を楽しんだのはヘップバーン扮する某国の王女だろう。で、それは誰を犠牲にして得た娯楽なのか。グレゴリー・ペック扮する新聞記者やその相棒の写真家が「特ダネをあきらめて、公表しなかったこと」か。はたして、それが「他人を犠牲にして得た娯楽」なのだろうか。まあ、百歩譲って、そういう「些細な」犠牲でも犠牲は犠牲だ、としてもいいが、それは「自分の自由な人生を半分あきらめて王女として生きる」王女の決心より小さな犠牲だろうか。

第二に英語原題の「Roman Holiday」は本当にそういう意味があるのか。これは調べてみる。romanは形容詞で「ローマの」の意味だ、と英語辞書にはある。つまり、「ローマの休日」は英語の直訳であり、まさにそのままで英語タイトルの意味を伝えているのである。確かにromanには「ローマ人の」の意味があるが、それはjapaneseが「日本の」でもあり「日本人(の)」の意味でもあるのと同じで、ごく普通のことだ。何も、roman holidayを、誰かを犠牲にして成り立つ娯楽、の意味に解することはない。少なくとも、この映画のどこにも、古代ローマのコロッセウムで剣闘士が殺し合ったり野獣と戦ったりしたような殺伐としたものは存在しない。唯一のバイオレンスは、ヘップバーン扮する王女が、彼女たちを捕まえに来た連中のひとりの頭をギターか何かでぶん殴る(カメラマンがその決定的シーンを撮り逃して、「もう一回」と注文すると、もう一度殴るというギャグがある。)シーンだけだwww

私は「ローマの休日」は歴代映画の中でも一、二番に好きな作品なので、宗純氏の度重なる「ローマの休日」への発言は神聖なものへの冒涜としか思えないのである。


(以下引用)


ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)



映画史に残る不朽の名作『ローマの休日』(オードリー・ヘプバーン主演、1954年日本公開)は、ローマ滞在中に自由を求めて宮殿を抜け出した王女アン(オードリー・ヘプバーン)と、町で偶然出会ったアメリカ人の新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)の恋を描くラブストーリー(★注、当時のハリウッド映画の定番のハッピーエンドではなく王女は恋を諦め記者はスクープ記事を諦めて別れる悲恋として描かれる)

脚本を担当したダルトン・トランボのオスカー に対する画像結果.サイズ: 184 x 170。ソース: eiga.com

日本語版タイトルは英語を日本語に直訳したものだが、この映画の正しいタイトルは「Roman Holiday」(=ローマ人の休日、「ローマの休日」はホリディ・イン・ローマ)


映画「ローマの休日」の原題の「ローマ人の休日」とは古代ローマ帝国においてコロッセウムでキリスト教徒をライオンに食わせるとか剣闘士の戦い(奴隷同士の殺し合い)を、ローマの民衆たちが見世物として楽しんでいた史実に由来する慣用句で「他人を犠牲にして得る娯楽・利益」という恐ろしい英語表現で、密かにタイトルにもう一つの意味が隠されていた。脚本を担当したダルトン・トランボは当時のアメリカで吹き荒れた「赤狩り」(マッカーシズム)の標的になって投獄され、ハリウッドから追放されたハリウッド・テンの一人で、「ローマの休日」には別人(偽名)で参加。死後の1993年「ローマの休日」アカデミー原案賞がトランボに贈られた。2011年米脚本家組合が『ローマの休日』のクレジットをトランボに変更したと発表した。2022年05月13日 | 経済 ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)

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MAIDーI=MAD

私は安楽死肯定論者なので、下の記事を引用するのはただ「MAID」から「I(愛)」を引けば「MAD」になる、という駄洒落を言いたいだけである。ただし、これは世間の「メイド(コスチューム)好き」な人々に喧嘩を売っているわけではない。
岡氏(あるいは岡氏ではなく「大摩邇」主催者か?)は「安楽死反対論者」のようで、「安楽死させられている」と、まるでそれが強制であるかのように書いているが、記事から分かるとおり、これは「希望者を安楽死させている」のである。ただし、それが巧妙な「人口削減手法」である可能性も高く、犯罪的行為になる場合も多いことは注意すべきだろう。



(以下「大摩邇」から転載)

現在のカナダでは「毎日平均36人が安楽死」させられている

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=15832
<転載開始>

(参考記事)異端が排除される狂気の時代に、カナダの新しいT4作戦による大量死を眺め見て、さてそれをどう感じるか
In Deep 2022年12月21日



カナダは現在、毎日平均36人の国民を安楽死させている

N/A 2023/11/17


Canada Now Euthanizes an Average 36 Citizens Every Day


カナダの自由な安楽死法により、現在、毎日平均 36人の国民が政府によって安楽死させられている。


政府による自殺幇助に関するカナダ保健省の最新報告書によると、現在、安楽死は全国の死亡者の 4.1%を占めている


この数字は 2021年の 3.3%から大幅に増加した。


先月末に発表された、2022年の死亡医療援助(MAID)に関する第4回年次報告書では、 2016年以来、安楽死によって約 4万5000人のカナダ人の命が奪われたと述べている。


MAIDが合法化された 2016年には、1,018人のカナダ人が政府の自殺幇助によって死亡することを選択した。2022年には、その数は驚くべき 13,241人に膨れ上がり、これはカナダで毎日平均 36人が安楽死させられていることを意味する。


これは、2019年以降の平均年間増加率が 31.1%であることを示している。


データによると、MAID に対する書面による要求の 81%が許可された残りの19%のうち、MAID に不適格とみなされた申請者はわずか 3.5%であり、その数は 2019年以降減少している。


 

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