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「抗命権」への疑問(再掲載)

石破総理に対して、これから様々な非難や批判が澎湃として沸き起こる(その背後に工作員と米政府、DSがいるだろう)ことが予想され、その際に、石破のかつての「上官の命令への不服従は死刑か懲役300年が妥当だ」みたいな発言が持ち出されるかと思うので、私自身が昔書いた、「抗命権への疑問」の記事を再掲載しておく。これは、日本の場合、「上官の命令は天皇の命令に等しい」と軍隊内部で誇張された結果、現在の「天皇否定論」の一部に利用されてもいる。

簡単に言えば、「抗命権」は軍隊そのものの存立基盤を根底から覆すものなので、軍事マニアの石破は頭に血が上って、あの発言になったわけだろう。絶対平和主義者の私と石破の立場は違うが、表現が過激すぎたことはともかく、軍事論理的には石破は正しいと思うのである。要は、徴兵制を復活させず、「良心的兵役拒否」を法律に定めればいいのである。

(以下自己引用)

「抗命権」への疑問

ドイツ軍には抗命権がある、という話があるのだが、それで軍隊が指揮可能なのだろうか。まあ、現在のドイツは戦争経験が無いから、戦争が現実に起こるまではこの権利が実戦でどういう運用をされるかはまだ分からないだろう。そして、ドイツ以外にこの権利が軍隊に存在する国はあるのだろうか。
そして、抗命権の存在によって、命令者が処罰される、ということはあり得る話なのだろうか。そうすると、軍隊というものは存在(あるいは軍事行動)自体が不可能になるわけだが、戦争という混乱状態の中で、誰が命令の適否や非道義性を証明できるのか。さらに、ある軍事的命令の根拠として因果関係を遡(さかのぼ)り、国家元首が戦争を始めたためだ、として国家元首を裁けるのだろうか。
これは、伊勢崎賢治の下のツィートへの疑問である。もちろん、私は軍拡に反対し、頑固な平和主義者であると自認しているのだが、この論理はおかしいと思うわけだ。もちろん、すべての国が軍隊を廃し、憲法9条とおなじ憲法を持つのが理想だが、下の論理では無理だろう。軍隊を持つ(ドイツ以外の)あらゆる国で、抗命権は無く、抗命罪はあるのではないか。ただし、「人道的兵役拒否」はある国もあるだろうが、それは別の話だ。結論が好ましくても、論理の正否は別の話なのである。

抗命権が担保されていないのに抗命罪だけある…つまり元首を頂点する上官に甘く末端の兵士に厳しい…どんな非人道国家か、ってなりますが、紛れもない日本の姿です。これで更なる軍拡を言い募る勢力。これを人権侵害であると問題視しない勢力。双方が卑怯千万です。



(以下引用)

忠誠宣誓 (ドイツ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


忠誠宣誓(ちゅうせいせんせい、Gelöbnis)とは、プロイセン王国時代より軍人に求められた君主への忠誠の宣誓を指す。左手を軍旗に触れて右手を上方に差し上げ宣誓することから、ドイツ語では軍旗宣誓Fahneneid)とも呼ばれる。この宣誓は絶対的なものと考えられており、軍人が命令に服従する根拠となった。また文官には官吏宣誓という同種のものが存在した。

概説[編集]

第一次世界大戦末の1918年11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は反旗の上がったベルリンに兵を送ろうとするが、集まった高級将校の多くは是としなかった。皇帝は「プロイセン軍人の忠誠宣誓はどうなったんだ」と詰め寄るが、参謀本部次長のヴィルヘルム・グレーナーが「陛下、忠誠宣誓はもはや空虚な観念に過ぎません。」と諭したという。同日、皇帝は退位した。




ナチス・ドイツ時代には弁護士にも弁護士宣誓が定められた。




忠誠宣誓に基づく命令への絶対服従の伝統は、第二次世界大戦でドイツ軍人が「人道に反する犯罪行為」を拒否しえなかった理由の一つとされたため、戦後のドイツ連邦軍(旧西ドイツ軍)では否定された(忠誠宣誓自体はドイツ連邦軍にも存在する)。そのためドイツ連邦共和国基本法及び軍人法には“軍人もまた市民であり基本権を保持する”という規定(軍人法第17条)、「抗命権」及び発動された場合の不利益処分(降格など懲戒)禁止が明文規定されている。また昇進できないことを条件に忠誠宣誓を拒否する権利も認められている。

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夜の眠りと日中の半覚醒状態(あるいは「記事拡散妨害仕様」について)

私の平均睡眠時間は4時間くらいかと思うが、それがどんどん短くなる傾向なので、今は3時間の時が多い。まあ、その中間くらいか。ナポレオンやエジソンなども4時間睡眠だったとかいう話もあるようなので、睡眠時間が短くても死ぬわけではないし、1日の使用可能時間が増えるわけだから、それを有効利用すれば人生を他人の2倍3倍の長さに伸ばしたのと同じである。だが、年を取ると頭がボケ、肉体も衰えて「前向きな活動をする」意欲も減衰するようで、長い1日をボケーッと過ごすのが常であるww まあ、ぼんやりと妄想に耽っている時間が無意味だとも思わない。妄想は私には娯楽でもあるのだから。
問題は日中の眠気である。眠いのだが、完全には眠れない状態で、ソファに呆然と沈殿している状態である。生ける屍だ。これでは超高齢者である。眠いのでまともな思考もできないわけである。妄想も「まともな思考」としてだ。「はんかくせえ」という悪口があると聞いた記憶があるが、「はんかくせえ半覚醒」である。まあ、夜間に眠れない分を、日中に浅く長く、分散的に補充しているとでも考えておこう。

(以下引用)下の引用記事に見られるように、記事拡散妨害は政治記事だけではないようなので、特に私のブログをターゲットとした妨害かと考えたが、それは自惚れだろうから、最近は多くの記事が「拡散妨害仕様」になっていると考えておく。まあ、引用記事に頼るのがそもそも著作権違反だ、という考えもある(それでは文明の進歩がなくなると私は思うが)ので、今後はなるべく記事引用に頼らない方向で行こうかと思う。そもそも、ブログは私の妄想遊びなのだから、べつに他記事を拡散する義務はない。ただ、拡散に政治的意義があることも多いので、そういう「記事拡散防止仕様」の広がり(拡散防止の拡散)は、困ったことだと思う。

年齢を重ねて、熟睡できなくなったらどうすればいいか。浜松医科大学名誉教授の高田明和さんは「眠りが浅くなるのは、実は『自己防衛本能』だという説がある。つまり、年をとるにつれて眠りが浅くなるのは、至極自然なことであり、むしろ健康である証拠だ。心配する必要などまったくない」という――。

※本稿は、高田明和『20歳若返る習慣』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

「眠っているようで起きている」状態の正体

年をとったら、睡眠をどのように考えていくべきなのか? あらためて検証してみましょう。


人は年をとるほどに、睡眠時間が短くなり、眠りが浅くもなっていきます。


誰の眠りにも、ひと晩のうちに、「深い段階」と「浅い段階」があること、そしてその段階は、3段階あることをまず覚えておいてください。


第1段階では、ウトウトした状態です。このとき脳波は、ゆっくりした波形になります。一般的に人が目をつぶり、心を落ち着かせたときに出る脳波を「アルファ波」と呼びますが、睡眠第1段階の脳波は、これよりもゆっくりした波です。


このとき体は眠った状態に陥っていますが、自分がどこにいるかは認識し、「背中に布団が当たっている」といったような自覚はありますので、「眠っているようで起きている」という感じです。よく「金縛り」といわれる状態は、第1段階の睡眠が長く続いてしまっている状態です。

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第1段階から脳波がさらにゆっくり遅くなると、人は眠りに入ります。このときが第2段階です。第2段階は完全に眠っている状態であり、自分がどこにいるのか、布団や姿勢の状態などへの意識はありません。しかし眠りはまだ浅いので、電話の音などですぐに目が覚めてしまいます。

高齢になると深い眠りが難しくなる

第3段階になると、さらに眠りが深くなります。脳波は2段階目よりも、もっとゆっくりになります。この眠りに入ると、ちょっとやそっとの物音では目覚めません。


「目覚ましをかけておいても目が覚めなかった」という、若いころを懐かしく思い出す方もおられるでしょう。高齢になると、この「第3段階の眠り」に到達することが難しくなります。


第1段階と第2段階を行ったり来たりしているので、ちょっとした物音でも、すぐに目が覚めてしまいます。さらには、一度目が覚めてしまうと、そのあと寝つけないこともよくあります。


すると、「健康に影響するのではないか」「このままどんどん体が衰弱するのではないか」と、非常に心配する人がいます。


専門家のなかには、「眠るにも体力が必要で、年をとると体力が落ちるから眠れないのだ」と述べる人がいますが、必ずしもそうとはかぎりません。


では、なぜなのでしょうか?

浅い眠りが「生き残りに有利」な、もっともな理由

高齢者の眠りが浅くなるのは、実は「自己防衛本能」だという説を唱えている生物学者もいます。


高齢になると瞬発力が衰えて動きも緩慢になるため、急に外敵に襲われるなどして身の危険が迫ったとしても、俊敏に反応してすぐに反撃をしかけたり、速く走って逃げたりすることができません。


人類の歴史を振り返れば、寝ている最中に自然災害や、外敵や野獣の侵入に見舞われる可能性は多かったでしょう。


そんな環境下で、体力が衰えて動きが遅くなっても生き延びられるように、年をとるほどに、ちょっとした物音でも目が覚めるという習性が、自然に発達していったのではないかと推測されています。

関連するビデオ: 朝日を浴びると快眠に!睡眠の質を改善する方法 (unbranded - Lifestyle)

もしもこの説が正しいのなら、年をとるにつれて眠りが浅くなるのは、至極自然なことであり、むしろ健康である証拠。心配する必要などまったくない、ということになります。


実際、高齢者の眠りが、「ゆさぶっても起きない」ほど深い場合は、かえって危険です。脳に異常がある疑いや脳梗塞になるリスク、認知症の兆しも考えられます。

「夜中にトイレで何度も目が覚める」人は……

「夜中に何度も、トイレのために起きてしまう」という方や、「一度起きると、そのあと眠れなくなってしまう」という方も多いと思います。眠れなければ不安だし、翌朝の体調が悪くなったり、疲れやすくなったりしているかもしれません。


睡眠障害と夜間頻尿は、どちらが先でそうなるのか明確ではありませんが、互いに関連し合っているそうです。先に述べたとおり、年をとれば睡眠が浅くなり、何度も起きることで体が覚醒しやすくなります。


すると膀胱の内圧が上昇し、尿意をもよおして、トイレに何度も行きたくなってしまう。そして多くなる夜間頻尿が、ますます睡眠障害をきたす悪循環になります。


ただ、何度もトイレのために起きることが睡眠障害をもたらすかどうかは、個人差があります。夜中に3回以上起きる人でも、その半数の人は「眠れないと悩んでいない」という調査もあります。


ですから安易に睡眠薬に頼るのではなく、まずは寝る1~2時間前から水分の摂取を控え、体が冷えないよう、とくに足を暖かくしましょう。そのほか、ベッドや枕など、快適に眠れる環境を整備して、生活リズムを改善することが重要でしょう。


---------- 高田 明和(たかだ・あきかず) 浜松医科大学名誉教授 医学博士 1935年、静岡県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業、同大学院修了。米国ロズウェルパーク記念研究所、ニューヨーク州立大学助教授、浜松医科大学教授を経て、同大学名誉教授。専門は生理学、血液学、脳科学。また、禅の分野にも造詣が深い。主な著書に『HSPと家族関係 「一人にして!」と叫ぶ心、「一人にしないで!」と叫ぶ心』(廣済堂出版)、『魂をゆさぶる禅の名言』(双葉社)、『自己肯定感をとりもどす!』『敏感すぎて苦しい・HSPがたちまち解決』(ともに三笠書房≪知的生きかた文庫≫)など多数ある。 ----------

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小泉・竹中以降の日本の凋落

「はてな匿名ダイアリー」のスレッドだが、書かれた意見(自民党政治肯定論に見える)の是非はともかく、今の日本の問題点や、そのおおまかな批評をしているのがいい。参考になる。
まあ、小泉以降の自民党政治がなければ、日本は今の3割くらい幸福で2割くらい上の経済成長をしていたと思う。

(以下引用)

2024-09-24

反省会日本はどうすれば良かった?

でもさあ


割と今って80点くらいで、これ以上は難しかったんじゃないのって思うんだけどね


少子高齢化って避けられなかったじゃん、世界的にインドですら同じ流れを辿ってるのを見るとこれは相当不可避なんだと思う


でもじゃあそれを諦めて諸々やらなきゃよかったのかといえばそんなことはないじゃん


子育て世代が楽になるのは必須しまだ足りてないよ


じゃあ子育て世代若者もっと優遇したらどうなったかといえば、幸福度が少し上がる程度でとどまったと思うんだよね


一個失敗だったと思うのは「家庭」に対するプライオリティを下げちゃったことだよね


都市集中とかさ、まあでもそれも遅かれ早かれだよね、これも不可避、地方創生は一長一短だし難しいって答え出てる


研究学校冷遇したのは良くなかったね、これは現在進行系


移民を入れれば〜っていうifは昔たくさんあったけど、その答えは欧州で出てしまった、この道も塞がっている


10%くらい入れた所で問題が多発して社会問題になる、1.2億人が1.3億人になっても焼け石に水じゃないか


家電メーカー凋落したのは、これもしょうがない、これは持ち回りだと思う、人件費が安くないとできないんだアレ


価格競争に陥った時点で他の事業を探すべきで、それはある程度成功しある程度失敗した


イギリスみたいに金融国家になるべきみたいな論もあったけど懐疑的格差広げて終わりでは?


スマホを取れなかったのは残念だけど、これも結局アメリカしか成功できなかったという状況だと思う、勝者総取りの状況がより進んでアメリカが勝者になった


自動車メーカーEVかいう罠に引っかからず慎重にうまくやったと思う


日本の政治はいだってしょぼいが、大して解決すべき第問題があるわけでもない、誰がやっても大差なかったと思ってる


日本国民ぶっちゃけ政治の話をするより自分の事を気にしたほうがコスパが良い


治安2010年前後悪化したけど今はかなりよくなってる、これ以上を望むのは贅沢


エンタメは活況、少子化のため今後は心配だが


 


なー厳しくね?今以上の点数出すの


 


___


 


氷河期世代については確かに反省点多いわ


これ他国でも似た状況は起きがちだけど、特定世代が落ち込むのってもっと対応策ありそうだよね


とは言え解決できる国がどのくらいあるのかというのも疑問だが、中国だって今まさに氷河期世代生んでるから


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翻訳練習「valley of ashes」

興味のある人のために、「The Great Gatsby」第二章冒頭の原文を載せておく。(タイプミスはご容赦願う。)ご自分で翻訳にチャレンジしてはいかがか。まあ、詩的感受性の高い村上春樹なら見事に訳している可能性もあるが、私の持っている本は他の人の訳である。


About half way between West Egg and New York the motor-road hastily joins the railroad and beside it for a quarter of a mile so as to shrink away from a certain desolate area of land. This is a valley of ashes---a fantastic farm  where ashes grow like wheat into ridges and hills and grotesque gardens,where ashes take the forms of houses and chimneys and rising smoke and finally, with a transcendent effort, of  men who move dimly and already crumbling through the powdery air. Occasionally a line of grey cars crawls along an invisible track gives out a ghastly creak and comes to rest,and immediately the ash-grey men swarm up with leaden spades and stir up an impenetrable cloud which screens their obscure operations from your sight.
 
1行目のhastilyは直前のmotor-roadの擬人化だろう。2行目以下はvalley of ashesをfantastic farmにたとえたものかと思う。つまり、それ以降の描写はすべて、この土地のすべてが頭から灰を被っていることの暗喩である。立ち昇る煙まで灰でできているわけだ。(もちろん、冗談だろう。)動いている存在は「崩壊しつつある灰」である。
上の文章のニュアンス(独白者の感覚や比喩表現)が映像化はできないことが分かるのではないか。実際、映画ではこの「灰の谷」はまったく印象に残らない。映像化するまでもない、という判断だろう。


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「華麗なる(笑)ギャッツビー」に見る、一人称小説の映画化の不可能性

「偉大なるギャッツビー」を第二章少しまで読んだが、第二章の冒頭の段落が意味不明で、英語の原書をざっと読んで確認し、その意味不明さの理由が「一人称描写」によるものだという結論になった。つまり、語り手の主観で語られるから、描写の客観性が無く、ある意味詩的な飛躍的表現になるわけだ。
実はこれが、「一人称描写(モノローグ形式)の小説の映画化は不可能」な理由であり、「不可能」が言い過ぎなら、「成功しても傑作にはならない(も言い過ぎなら「小説とは別の作品になる」)」理由である。当たり前の話で、原作では語り手の独白で語られる内容が、映画では語り手を映像対象に含む「客観描写」になるから原作とはまったく性質が異なるものになるのである。
それが、あの世界的ベストセラーである「ライ麦畑で捕まえて(ライ麦畑の捕まえ手)」が映画化されない理由である。あの秀逸な語り口を失えば、何も残りはしないからだ。
一人称描写小説の映画化で唯一成功したのは天才キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」だろう。あれは、主人公アレックスの独白と客観描写のミックスで見事に映画化されたものだ。
デビッド・リーンによるディッケンズの「大いなる遺産」の映画化は一人称描写を客観描写にしてかなり成功した部類だが、それでも、一人称描写の持つ「語り手の勘違い」という重要要素は消えている。その「語り手の勘違い」が、たとえばドストエフスキーの「未成年」の面白さなのだが、それに気づかないと、「『未成年』は失敗作、駄作」という評価になる。私自身、「作者と語り手の二重視点の面白さ」に気づくまでは、「未成年」はまったく読めなかったのである。

「偉大なるギャッツビー」に話を戻せば、これも「語り手が、その事件・出来事をどう感じ、どう考えるか」が重要要素になっているのだが、映画ではそれを描いていない(描けない)から、映画の内容はどうしても話の上辺だけをなぞった、スカスカの内容になり、せいぜいが1920年代アメリカのブルジョワの「華麗な」贅沢生活の描写、ブルジョワの精神の貧困性を垣間見せるだけにしかならないのである。美術と音楽と出演俳優の顔しか、見る部分は無くなる。
仮に、「ギャッツビー」を再映画化するなら、私が監督なら「カメラを語り手の目として扱う」手法を取るだろう。つまり、語り手は鏡や窓ガラスに映る以外は姿を見せない。(あるいは、誰かと握手する手くらいしか見せない。)ことにする。そして、話は語り手のモノローグで進めるだろう。それによってこそギャッツビーという男の神秘性(大きく言えば神話性、あるいは象徴性)が表現できるのではないか。

要するに、これはたとえば「梶井基次郎の小説を映画化して面白いか?」という問題だと思えばいい。作者(語り手)の個性や視点や語り口が面白いというのがこうした小説なのであり、そのほとんどは映画化不可能なのである。(一人称描写が大半で非現実的内容でも、漱石の「夢十夜」などは、話そのものが面白いし、映像性の高い話なので映画化できたわけだ。だが、もちろん原作とは異なる作品だ。)


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ブッダの教えと現代仏教の齟齬

現代仏教の各宗派はすべてインチキである、というのが私の考えだが、「宗教情報センター」というサイトの解説を見ると、私の認識は正しいようだ。(インチキだから無価値というわけではない。文学というフィクションにも大きな価値があるようなものだ。だが、インチキはインチキだ。)


(以下引用)赤字と下線は夢人による強調。



1.伝統仏教の「霊魂」観

 「死後の世界」についての科学主義的な原則論と世論との乖離に直面しているのは公教育の現場だけでない。伝統仏教界にも、教理と民俗的信仰の乖離の問題がある。
 仏教の開祖・釈迦は、「霊魂と身体の関係」や「死後の有無」などについては答えなかった(「無記」)。その理由として、毒矢が身体にささったときには毒矢を抜くことが最優先であるのに、それをせずに余計なことにこだわっていると毒がまわって死んでしまうという「毒矢のたとえ」がある。そのような問いは、生老病死などの苦の問題を解決するのに資することがないという考えからであろう[1]。とはいえ仏教は、あらゆるものに「永遠に変わらず独立的に存在し、主として支配能力がある実体[2]」は「ない」という「無我説」を説いており、「霊魂という実体的な存在を否定する」と一般に解釈されている。
 だが、インド仏教にはヒンズー文化の輪廻転生思想が取り入れられ[3]、それが中国を経て日本に伝来した。さらに仏教は日本古来の霊魂観と祖先崇拝という民俗的伝統を取り入れ、15~16世紀ごろに「葬祭仏教」として日本社会に定着した[4]。そこでは一般的に、死者は、僧侶による葬送儀礼によって仏(ホトケ)となり、子孫によって墓に埋葬され、子孫による祭祀を受け続けて先祖、つまり祖霊となっていくとされた[5]
 こうして、霊魂についてはインド仏教も、さらに日本各地の民俗信仰を吸収して展開した「日本仏教」も教理の矛盾を孕んだまま存在しているこのため日本の伝統仏教は、教理の基本としては無我説に基づき霊魂の存在に否定的であるが、ほとんどの宗派が統一された公式見解を持たず、個人的見解も多様である。

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What'll I do

何度か、冒頭部分だけ読んで、読み続ける気にならなかったフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を、なぜか読み始めてみると、実に詩的な文章で、ちょうど空が晴れて秋の日差しが射しこむ室内が、詩的な気分に満たされる。
たとえば、語り手がデイジーを描写する様子はこんなふうだ。

私はデイジーに目を戻した。あの心ときめく低い声音が、あれこれ私に尋ねようとしている。耳をすまして音程をたどりたくなる声だった。デイジーが何を言うにつけても、まるで一度しか演奏されない音楽のように聞こえた。その顔はというと、悲しげに愛らしくて、明るいものがある。つまり目は輝いているし、口元にも情熱の輝きがある。だが、デイジーに肩入れしたい男として、忘れがたい感興をそそられるのは声だった。歌のように聞き手を突き動かす。「あのね」と、ささやかれるだけで、たったいま浮き浮きすることがあったばかりで、すぐにまた浮き浮きすることがあるはずだ、と思えてくる。


まさに、この描写で思い出すのは、レッドフォード版ギャッツビーのデイジー役、ミア・ファーローである。そして、それとともに思い出すのは、あの映画の主題曲に使われた「What'll I do」だ。まさに「デイジーのテーマ」とでも言いたいような曲である。
そこで、ユーチューブでこの曲を探したが、私の大好きなナット・キング・コールの歌でもフランク・シナトラの曲でも、あの映画の歌とは少し違う気がするのが残念だ。それとも、私が自分の記憶を捏造しているのだろうか。
しかし、秋の晴れた午後に、「ギャッツビー」を読みながら、「What'll I do」を聞くのは贅沢の極みである。フィッツジェラルドを「小説の下手な小説家」と言って、御免なさい。(ほんの二、三日前が彼の生誕の日だったようだ。)





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酔生夢人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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