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英語の祈願文(命令文)の理解

前から何度か書いているが、「God save the Qeen」は祈願文で、Godの後にコンマを入れて「God、Save the Qeen」とすれば、「神よ、女王を助けたまえ」と、意味が明瞭になる。祈願文とは、言い換えれば命令文であり、神に「命令」しているわけだ。

これとそっくりなのが、ジョニー・ソマーズの「内気なジョニー」の中の
「Johnny get angry、Johnny get mad」
で、これもコンマを入れて
「Johnny,Get angry, Johnny,Get mad!」
とすると分かりやすい。つまり、Johnnyへの命令であり祈願なのである。
「ジョニー、怒ってよ、キチガイになってよ!」
という祈願だ。つまり、「私のために怒り、キチガイになって戦えるような男でいてほしい」という願いである。
そこで、
「I want a brave man, I want a cave man」
と続くのである。(前にも書いた気がするが、Cave manは穴居人で、当時のアニメ「恐竜時代」のイメージだろう。もっとも、あのアニメのcave manたちは文明人で紳士揃いだったが。というより、サラリーマンばかりで、ほとんど戦わなかったwww)

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宗純氏の謎、あるいは謎の宗純氏

「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った「逝きし世の面影」ブログ主の宗純氏の読者コメント欄への自己投稿コメントだが、宗純氏自身のプライベート生活(らしいように読める)の記述もあって興味深い。この記述によると、能登大地震の直前まで能登近辺(訂正:単に山岳地帯にいただけのようだ。)にいて、間一髪危機を逃れたようで、凄い偶然である。まあ、書き方が少し曖昧な印象なので、私の誤読かもしれない。

大阪大空襲の米軍の1トン爆弾を恐れて疎開した先が能登半島地震の震源地に近い町野町(町村合併で現在は輪島市町野地区)」

「とんでもない田舎で寒いし腹が減るし、しかも小さな子供時代にいじめにあった辛い記憶があるので、「能登はやさしや土までも」どころか悪夢そのもの。一度も行く気が無いが、実は私の生まれ故郷なのです」

というのは、どういうことだろうか。能登には「一度も行く気はない」が、能登が「実は私の生まれ故郷なのです」というのは、生まれたのは能登だが、それ以降は行ったことがない、ということなのか。それなら、「小さな子供時代にいじめにあった」というのはどういうことか。能登で小さな子供時代を過ごし、大阪に引っ越し、集団疎開で一度戻って、それ以降は「一度も行く気はない」ということだろうか。で、宗純氏が戦争で(大阪から)集団疎開をした年齢なら、当時最低でも7歳だったとして、現在86歳以上の年齢なのだろうか。それなら御達者なことで慶賀の至りだが、書かれた文章の雰囲気だとそうは思えない。「何とも奇妙で不思議」な人である。文中の「中山忠光」の話も面白いが、前後の話とどうつながるのだろうか。私の判断で見え消しにしておく。私の読解力が小学生レベルだから話の筋道や論理が分からないだけかもしれない。それとも、宗純氏は時間も空間も超越したエスパーかwww 一休宗純のゴーストか。
念のために言えば、私は「逝きし世の面影」ブログは数あるブログの中でも良心的で、政治的姿勢は非常に立派だと思い、よく読んでいる。ただ、韜晦的な書き方はあまり好きではない。

(以下引用)文中の「前鬼の」は「前記の」の誤記だろうが、そのままにしておく。どうしたら、こういう漢字変換が起こるのだろうか。それとも「前鬼」は地名か?


「能登はやさしや土までも」 (宗純)2024-01-18 16:10:12何とも奇妙で不思議。謎のニュース

日本テレビ系列の地元メディアKNBニュースやNHKの1月12日放送では、
「志賀原発の一部で想定超える揺れあった 能登半島地震で 原子力規制委」とのタイトルで、

原子力規制委員会の定例会合が11日開かれ、能登半島地震に伴い、北陸電力の志賀原子力発電所で観測した揺れの加速度が、設計上の想定を一部でわずかに上回っていたことが分かった。会合の席上、報告があった。規制委の山中委員長は審査には年単位の時間が必要だと発言し、
北陸電力では「揺れのデータは『暫定の値』なので石川県など地元自治体へは報告する考えはない」としています。と報道。事実上公式ホームページの北電発表400ガル弱は出鱈目だったと認め「撤回」したようです。
どうも、志賀原発の状態は危機的らしい。あるいは北陸電力とか日本政府のガバナンスがボロボロで危機的らしいのですから恐ろしい。ほぼ終わっています。

最新ニュースでは志賀原発の非常用ディーゼル発電機の故障が報じられるが、刻一刻と破滅に向かって暴走しているのか、それとも単に疑心暗鬼で、右往左往。日本国自体が無政府状態に陥っているのか。何とも縁起の悪い話である。

王政復古(明治維新)5年前、一世紀半も昔の天誅組首領中山忠光卿は明治天皇の叔父なので百姓の近藤勇や土方歳三の新選組よりも大事件だったが今では忘れ去られほとんど知られていない。
五条代官所を襲撃して倒幕の決起に成功したが、その後に高取山城攻略に失敗した後に天辻峠から十津川に入り、
(たぶん今の国道425で)下北山村の寺垣内にある正法寺を本陣にして、十津川から嫁越峠越しに前鬼に運び込んだ兵糧や武器を幕府軍側に押さえられて万事休す、その後伯母峰峠から鷲家口にて天誅組は壊滅する。中山忠光一人は辛くも長州に落ち延びるが、長州藩の裏切りに合い暗殺されている。

今回奈良県に行って去年末、12月初めには大峰主稜線の嫁越峠を目指すが、運悪く寒波襲来での雪と風、ガスが濃く視界不良で池郷川の第31番靡の小池宿跡周辺周回で早々と撤退したが、この付近はゆるい傾斜の桃源郷。池郷下部の危ないナメ滝地帯とは大違い。天気さえよければ素晴らしい景色だったのだろうがガスで何も見えない。小池宿跡まではテープや踏み跡、道標があるが、小池宿跡から嫁越峠へほぼ何も無し。
時間に余裕が生まれたので前鬼の南にある国道169号線で下北山村役場がある寺垣内に向かうが、土砂崩れ片側一車線の地点では、私が通って1週間後には和歌山県在住の人が車ごと生き埋めになって炎上。死亡する。現在も通行止めで復旧工事のめどさえ立たないが、往復したので危ない遭難した場所を二回も通っていた。

実は、別の林道の落石で1年前に酷い目に遭った危険地帯では今回も落石があり、太い大きな丸太を梃子にして、苦労して何とか通過したのが今年1月1日午後4時。
なんと、その10分後に能登半島地震の余波の震度4の地震が到来しているので、たぶん現場ではもっと大きく落石していると思われるのですよ。まさに間一髪で命拾いしています。じわじわと最後が近づく不気味な感覚
大阪大空襲の米軍の1トン爆弾を恐れて疎開した先が能登半島地震の震源地に近い町野町(町村合併で現在は輪島市町野地区)なので、まさに限界集落。とんでもない田舎で寒いし腹が減るし、しかも小さな子供時代にいじめにあった辛い記憶があるので、「能登はやさしや土までも」どころか悪夢そのもの。一度も行く気が無いが、実は私の生まれ故郷なのです

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広田先生の文明論

12時(深夜0時)ごろ目を覚まし、寝床で、読みかけの「三四郎」を最後まで読んだ後、寝直そうと思ったが、目が冴えてしまったので起きてこれを書いている。
私は漱石の作品を全部読んだわけではないが、「吾輩は猫である」と「三四郎」は漱石のベストの作品ではないか、と思う。前者はカリカチュア性が強いので、真面目に読む人は少ないと思うが、漱石は真面目に文明批評や社会批評をしている。「三四郎」も同様で、青春小説の反面、ここにも優れた文明批評がある。その一部を抜き出す。漱石の漢字の使い方は独特なので、一部、こちらで変更する。引用部分は「広田先生」の言葉である。これは漱石自身の意見でもあると思う。

(以下引用)

「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事ひとつとして他(ひと)を離れた事はなかった。すべてが、君(夢人注:主君)とか、親とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それをひとくちに言うと教育を受ける者がことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸漸(ぜんぜん:次第に)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」(夢人注:「露悪家」は漱石がこの時作った造語らしいが、今は普通の言葉だろう。少なくとも「露悪的」は普通の語だ。)
「昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自(めいめい)同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でも何でもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、美事(みごと)な形式を剥ぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。」
「形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(生地)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天爛漫としている。(夢人注:このあたりは広田先生=漱石の皮肉だろう。もちろん、「天真爛漫」が本来の熟語)ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義(夢人注:これは現代で流行語の「他人軸」と考えたほうがいい。広田先生は、これを「偽善」とも言っている。)がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らしていくものと思えば差支えない。そうして行くうちに進歩する」
「英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって化石しかかっているーーー」

(以上引用)

「三四郎」が書かれたのは20世紀初頭で、正確には明治41年(西暦だと1908年か)のようだ。つまり、英国が帝国主義の覇者として世界を睥睨していた時代である。そのころに英国の衰退を予見していた漱石は慧眼どころか、予言者だろう。そして、日本が露悪家(「正直」な利己主義者)だらけになりつつあることも指摘している。現代の日本がまさに悪人天国であるのは言うまでもない。みな、「正直」な露悪家だ。これは「偽善」の衰退の結果とも言える。
まえから書いているが、「偽善」とは、天然自然の善性の顕れではなく、「人為的に行う善」であり、これこそが社会を良化するのである。少し前の流行語で言えば「やらぬ善よりやる偽善」である。さて、今や、テレビでホリエモンやひろゆきや漫才師たちなど「自分の本音を言う」と思われている連中(元犯罪者たち。あるいは蓋を取った肥桶)が、日本の言論を支配し、若い人々や子供たちに影響を与えている。
こうした状況では、広田先生でなくとも日本は「亡びるね」と思うのが当然だろう。

ちなみに、私は英国の衰退の原因は「植民地時代が終わった」という時代の趨勢と、英国が階級社会であることにある(階級社会は必然的に衰退する。日本も同様。インドの発展は単なる人口ボーナスである。)と思っているが、その考察はまたの機会にする。




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「三四郎は」と「三四郎が」の違い

私は、些細な謎を推理するのが好きなのだが、今、市民図書館から借りて読みかけ(三読目か四読目である)の、夏目漱石の「三四郎」の一節に、こういう部分がある。話ももう終盤というあたりだ。

広田先生が病気だと云うから、三四郎見舞いに来た

これを読んで、不思議に思わないだろうか。三四郎はこの小説の主人公で、話は彼の経験したことが中心となって進んでいる。ところが、

広田先生が病気だと云うから、三四郎見舞いに行った

ではなく、「三四郎が見舞いに来た」である。これでは、三四郎は主人公でも何でもなく、有象無象のひとりのようではないか。
そこで気が付くのは、それこそが漱石の意図なのではないか、ということだ。つまり、漱石は三四郎という人物を描きたかったのではなく、彼を中心に起こる、さまざまな人間模様を描きたかったのであり、三四郎は、いわば話の結節点ではあっても、「主人公」でも何でもない、ということである。主人公は、むしろ、「無意識の偽善者」であり、三四郎を翻弄する、美禰子ではないか。
もちろん、彼女を無意識の偽善者と断定するのは彼女に気の毒で、彼女は、単に「誰かに愛されたい」という願いから、無意識的に男を操縦する手管を使うだけだろう。その相手が、誰になるのか、彼女自身にも分からないから、「候補」となりそうな相手には謎めいた接近をしたり、遠ざけたりするわけだ。
彼女が三四郎に「迷子のことを英語で何と言うか知っているか」と聞き、「ストレイシープ(迷い羊)」だと教えるのは、彼女自身がまさに精神的迷子であることを示している。

私が、この作品を映画化するなら題名を「迷い羊たち」とする。この話の登場人物の中の若者たちは、みな、迷いの中にあり、それこそが青春の本質だろう。



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脳死(ゾンビ)社会

「大摩邇」から転載。
「大摩邇」の別記事の一節を先に引用する。

昔ながらの意味での職業は存在しない。弁護士、医者、教師、聖職者たちは皆、陰謀家たちに忠誠を売っている-あるいは、少なくとも彼らの指導者たちはそうしている。(V・コールマン)

(以下引用)文中の「対処療法」は「対症療法」が正しいのではないか? 「療法」とは当然病気に「対処」するものだから、「対処療法」は同義反復である。病気を根底から治さず、「症状」を止めるだけの皮相的療法だから軽蔑的に「対症療法」と言うのだろう。(喘息での「咳」などのように症状自体が病気を悪化させる一因である場合もあるので、「対症療法」すべてが悪いわけではない。)

お注射マン

とある民間救急ドライバーの日常さんのサイトより
https://ameblo.jp/namachocoponzu/entry-12836814148.html
<転載開始>

TODAY'S
 
お注射マン

 

こんにちは!生チョコぽん酢です。

先日ゾッとするようなアレ体験をしたので記事にさせて頂きます。

この一件からは思うところが多すぎて内容が散らかってしまうことをご了承ください・・・。


とある独居の患者さんから次のような依頼を受けました。

全身が痛くなり?整形外科クリニックに行きたいとのこと。

話を聞いてみると、痛み止めの注射を毎月打ちに行っているそうです。

今までどうしていたのか聞いてみたところ、前回までは一般的なタクシーで行っていたそうなのですが、本人曰く「重症化した」から今回は私の事業所に依頼をしてきたという流れでした。

体の状態を電話越しで確認してみたところ、今でも何とか歩くことは出来る様子ですが、不安が大きく補助が欲しいみたいです。

車椅子にも座れそうなので、1名対応で予約を承り、当日は相方がお迎えに上がったのでした。

自宅に行ってみると概ね情報通りで、特に問題なく出発できたそうですが、その間の会話でとんでもないことが発覚します。

相方「今日の午前中は込み合っててお迎えが午後になってしまうかもしれません

患者さん「大丈夫、午前で終わる事はないと思うから

(?)この時点で午前9時
相方「痛み止めの注射を打つだけなんですよね?

患者さん「そうだけど全身に打ってもらうから前回も昼過ぎてた

とのことで、なんと全身10箇所以上に痛み止めのブロック注射を打ちに行くのだそうです。

常軌を逸しています。

しかも、前回から全身に打っているそうですが、体中が筋肉痛のような痛みになり、その後体が動かなくなり、今日にいたるという事が発覚。

こう続けます。

あれは痛み止めの注射なんかじゃない、別の注射を打たれたんだ俺は

そんなことは無いと思いますが、そう思うのになぜ病院に足を運ぶのか。

まるでコロナワクチンを見ているようです。

何事にも限度というものがありますよ。

それに、医者も医者ですよね。

痛いのなら痛み止めの注射を打ちましょう、というのは対処療法でしかない上に、

全身が痛いなら全身に痛み止めの注射を打ちましょう、という発想がどうにも幼稚というか、アレというか。

でもここの整形外科クリニックは地元でも人気のところなんですよ。

コロナワクチンと同じで、患者達は自動的に病院に足を運ぶようにプログラミングされているのかもしれません。

ちなみに、痛み止めのブロック注射を調べてみたのですが、どうやら保険適用になるのは初診月は1ヶ月に4回まで、翌月再診月より1ヶ月に2回とまでと定められているようです。

つまり、この方の場合は2回分以上は自費で支払っているということですよね。

一体いくらになるのでしょうか。

とあるクリニックの料金表を見たところ、部位によって違うものの1割負担で500円~900円程度と書いていました。

仮に500円だとすると、1本あたり5000円ですから、この患者さんが11本なのか19本なのかは分かりませんが、仮に12本とした場合、6万円の報酬になります。
 
ここにレントゲンやら別の加算も加わるでしょうから・・・
 

儲かりまんなぁ
 

やはり私には子供同士のお医者さんごっこのようにも見えるし、認知症同士のおままごとにも見えるし、認知機能の下がった中高年をターゲットにした詐欺(弱みにつけ込んだ押し売り)のようにも見えてしまいます。

この一件からも、日本人の変態的な注射好き(刺すのも受けるのも)が伺えますよね。

お注射マンですよ。


そして話はここでは終わりません。

午後になっても一向に電話が鳴らず心配していたのですが、15時頃に一般のタクシードライバーから電話が来ました。

何やら見覚えのある光景で嫌な予感がします。

おばちゃんタクシードライバー「あの、そちら介護タクシーさん?

私「はい

〇〇さんを間違えて家まで送っちゃって。整形外科から依頼があったものだから何も知らず迎えに来ちゃったの

自宅についたら介助が必要だからって言われて、私にはどうすることもできないから手伝いに来てくれませんか?

お前、人のことなんだと思ってんだよ

という言葉を押し殺し、

先日の一件から間をあけずに、また同じような出来事が起こった怒りの気持ちも押し殺し、

仕方がないけれどとりあえずタクシーには帰ってもらって、手伝いに行ってあげましたよ。

介助だけでww

でも行ってみると、想像以上に悪化しているのです。

もう歩行すら出来なくて、ほぼ全介助。

自宅のベッドに寝かせましたがこのまま寝たきりになっちゃいそうな雰囲気です。

行きより悪化してて愕然としました。

こんな状態だから自分では電話できず、クリニックに私の事業所に電話してもらうよう頼んだのでしょう(そして間違えられた)。


そういえば、昨日投稿したコロナワクチン後遺症の患者さん方もやはり体が動かなくなる人が多かったように思います。
 
私自身もコロナワクチン後遺症で体が動かなくなる症状を何度も見てきました。

 

でもそれらの人達は皆、病院に行っても原因不明と言われ、たらい回しにされて痛み止めだけ処方されるのがオチなのです。

 

 
しかし昨日投稿した通り、本人達に自覚がないだけで、こうした事例は山のようにあるのだろうと思います。

今回の患者さんが後遺症化どうかは分かりませんが、痛み止めを全身に打ちたくなる要因は何だったのかと、勘ぐってしまいます。
 
まぁ何にしても、この方の場合は痛みを和らげようと整形外科クリニックに行ったのが運の尽きでしたね。

整形外科クリニックの多くは、注射で生計をたてているお注射マンが多いのだと思われます。

だって、たった1回ブスッとするだけで5000~10000円ですよ。
 
1秒くらいの医療行為です。

 

そして毎日毎日、患者がブスッとしてもらう為に、まるでディズニーランドのアトラクション待ちのように朝から開店前のクリニックに大勢並んでいます。

この医者は1日に何発ブスッとしているのでしょうか。

100発のお注射だけで1日50万円~100万円の売上なのだから、笑えますよね。

病院に行くのは勝手じゃない?」と思うかもしれませんが、これら医療費の9割は我々の税金ですからね。

医療は必要ですが、何事にも限度や節度というものがあり、救急車も同様ですが必要な人に手厚く提供できるのが正しい形なのは、あえて私が言うまでもありません。

今回の患者さんのケースは、先生が相手の弱みに付け込んだのか、患者から泣いて頼まれたのか知りませんが、
 
少なくともアレな日本人同士の医療は、確実に財政を不健全にしていると私は感じます。


ちなみに、どこの整形外科クリニックのホームページを見ても、ブロック注射を激押しです。

中には「保険適応が2回ですが何度打っても安全です、問題ありません」と、保険外の注射まで推しているところも見受けられます。
 
ほんまいかいな。
 
ブロック注射って、痛みのある部分の神経の近くに麻酔薬を注射して、痛みの伝わる経路をブロックするものですよ・・・。
 
全身に打っても安全と誰が言い切れるのでしょうか。
 
そしてお注射マンは、自分の体で同じことができますか?
 
ほんとアレの極みだなと、個人的には思います。


そして、想像してみて欲しいのですよ。

今回の一件でのアレ度合いを。

一般のタクシーに気づかずに乗り込む患者さんもアレだし、

この状態の人で一般のタクシーを呼ぶ整形外科の看護師もアレだし、

この状態の人を乗せて出発するタクシードライバーもアレだし(乗せる時はクリニックのスタッフ総出だったと思われる)、

医師の注射狂い具合もアレだし、判断もアレだし、

痛みを取るために打った注射で痛みが増して更に体が動かなくなったのに、また注射を打ちにいく患者もアレだし、

登場人物全員アレ

結局アレな人達が増えれば増える程、負担がこちら側にくる上に、その構図にすらアレな人は気付けないから困ります。

この世界はアレが中心になって動いていくでしょうから、明るい未来など想像しない方が身のためかもしれません。

1億総認知症の世界では、何事にも期待するだけ無駄だと思われます。

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「組織悪」と「自分軸」

「大摩邇」所載の「マスコミに載らない海外記事」の一部で、ジョン・ミアシャイマーという、わりと最近高く評価されている軍事評論家(か?)の書いた文章らしいが、私は下の引用文の赤線を引いた部分に来て、それ以降を読む気を失った。
先に、その文章から載せる。

(以下引用)

 第一に、ジェノサイドは他の戦争犯罪や人道に対する罪とは区別されるが「そのような行為全ての間にはしばしば密接な関係がある」と強調している。(1)例えば、第二次世界大戦でイギリスとアメリカがドイツと日本の都市を爆撃した時に起きたように、戦争に勝つために民間人を標的にすることは戦争犯罪だがジェノサイドではない。イギリスとアメリカ合州国は、標的にされた国々の「かなりの部分」、あるいは全ての人々を絶滅しようとはしていなかった。選択的暴力に裏打ちされた民族浄化も戦争犯罪だが、ジェノサイドではないが、イスラエル生まれのホロコースト専門家オメル・バルトフが「あらゆる犯罪の中の犯罪」と呼ぶ行為だ。4

(以上引用)

いや、これは「ジェノサイド」と呼ばれる行為をあまりに狭く定義したものだろう。一般的理解では、「他民族への大量殺戮行為」をジェノサイドと認識していると思う。ヒトラーですら、ユダヤ人全員を絶滅させようとしたわけではない。自分にとって利用価値のあるユダヤ人は殺していない。そもそも、ユダヤ人の定義すら明確ではない。
広島や長崎への原爆投下や、日本の諸都市、あるいはドレスデンなどへの無差別爆撃がジェノサイドでなくて何なのか。つまり、最初から「膨大な民間人が死ぬことを当然の予測として行われた殺戮」はジェノサイドなのであり、そうでないなら、旧約聖書に書かれた古代ユダヤ人の他民族殺戮行為以外にジェノサイドは無い。何しろ、「女は処女だけ(戦後に繁殖牝馬的に利用するために)残し、男は全員殺す」のである。

話は変わるが、ミアシャイマーがこういう記述をしたのは「言葉の定義に正確であろうとした」のかもしれないが、その心底には英米人としての自己弁護の気持ちがあったのではないか。
これは、私が常々言っている「組織悪」の一種である。自分が属する組織(大きくは国家)を自分と同一視して考える心理である。その心理は、「自己愛」という人間の根本的心理に根があるだけに強力で、しかもほとんど無意識に発動される。
念のために言っておくが、私は自己愛を否定しているのではない。その無意識の発動の危険性を言っているのである。私も(自分が日本人だから当然だが)ほとんど無意識のうちに日本や日本人と自分を同一視しており、外国人が日本や日本人を褒めると、自分自身が褒められたように嬉しいし楽しいのである。(ただし、「日本政府=日本」でないのは当然だ。ネトウヨや工作員はそういう馬鹿思想を植え付けようとするが。)
最近はやりの「自分軸」という言葉も、実は自己愛の美名であるとも言える。これは要するに「自分中心」と同じことであり、「軸」と「中心」で何が違うのか。どちらも、自分が軸、あるいは中心になって他者が廻るのである。「自分中心」を「自己中心」と言っても同じだろうが、これを「ジコチュー」と言えばあっと言う間に悪口に変わるのであるwww 「お前ってほんとにジコチューだよな」と言われてあなたは嬉しいかwww 「あなたは自分軸がしっかりしていて素晴らしい」も内実は同じである。ついでに言えば、組織の下にいながら自分軸を持てる(心の中に持っているつもりでも、それを行動で示せる)人間などほとんどいないだろう。


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安楽死について

私は安楽死賛成派で、私に認知症の疑いが生じたら、すぐにでも殺してほしい(自分で自殺もできないほどボケることもあるだろう。)と思っているので、下の記事、つまり「安楽死反対派」の書いた文章は眉に唾をつけて読むというか、難解な文言は適当に流し読みしただけだが、一応読んだ後でも、やはり私の「安楽死肯定思想」に変わりはない。私は、苦労や苦痛が大嫌いなので、難病にでもなったら、治療より死を選びたい。つまり、安楽死は「福祉政策」と見るべきで、ただし、あくまで本人の意志によるべきだ、と私は思っている。
下の記事の事例のように、夫が安楽死を望んだのは夫に正常な認識能力が無かったからだ、という妻の申し立ては、おかしいと思う。そもそも正常な認識能力の有無の判断を誰ができるのか。医者ならできるが、妻には無理だ、というのもおかしいし、妻が正しいとも確証は不可能だろう。つまり、当人に正常な判断能力があるかどうかは問題がずれているのであり、あくまで「当人が望んだ」でいいのである。
幼児や子供については安楽死は不可とすればいい。つまり、彼らは自死の適切な判断ができるほどの人生経験を積んでいないからだ。私自身に関して言えば、私は自分が二十歳すぎるまで生きるとは思っていなかった。死ぬ勇気が無いから生きてきただけだ。で、生きてきて、まあまあ良かったな、と思っている。何しろ、自殺という「人生の解決法」は、一回きりしかできないという難点があるのであるから、できるだけ先延ばしをすることを、若い人にはお勧めする。冗談だが、20歳以下は「自殺禁止」と法律で定めればいい。それに違反したら死刑にするわけだww
頭の中の生活こそが真の生活だという私の思想にしても、肉体が死ねば自動的に頭脳生活も終わりである。つまり、安楽死を肯定する以上、私は自殺も肯定するが、肯定するだけで、お勧めはまったくしない。
若いころの苦労も苦痛も失敗も、時がたてばぼんやりとした記憶になるだけだ。世の中には悪の限りを尽くしながら、老衰して死ぬまで生きた悪党もゴマンといる。自殺(若死に)願望のある人間は気が弱いだけだろう。

ただし、カナダという国、あるいはその政府はNWOの尖兵的な印象もあるので、カナダの安楽死肯定(推進)政策は、世界人口削減政策の一環である可能性は高い。その点ではカナダ政府の政策を完全肯定するのはマズいだろうとは思う。

(以下引用)

安楽死が合法の国で起こっていること…「生活保護」より「安楽死」の申請のほうが簡単というカナダの事情

ライブドアニュースより
https://news.livedoor.com/article/detail/25696759/
<転載開始>
安楽死が合法化されるとどんなことが起きるのか。著述家の児玉真美さんは「カナダでは合法化からわずか5年で安楽死者数が4万人を超えた。経済的に困窮した障害者が死を選ぶケースも起き、問題になっている」という――。

※本稿は、児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。





写真=iStock.com/sittithat tangwitthayaphum
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sittithat tangwitthayaphum




■後発国でありながら「安楽死先進国」になったカナダ

カナダは安楽死の合法化では2016年と後発国でありながら、次々にラディカルな方向に舵を切り続け、今ではベルギー、オランダを抜き去る勢い。ぶっちぎりの「先進国」となっている。

カナダではケベック州が先行して2015年に合法化したが、その際に法律の文言として積極的安楽死と医師幇助自殺の両方をひとくくりにMAID(Medical Assistance in Dying)と称し、翌年の合法化でカナダ連邦政府もそれを踏襲した。Medical Assistance in Dyingを平たい日本語にすると「死にゆく際の医療的介助」。しかし、これでは積極的安楽死から緩和ケアまでがひと繫がりのものとして括られてしまう。


安楽死を推進する立場はそれまでにもAID(Assistance in Dying)、VAD(Voluntary Assisted Dying)、PAD(Physician-Assisted Dying)などの文言を用いることによって、暗に「安楽死は死ぬ時に医療の助けを得ることであり、緩和ケアと変わらない」というメッセージを発信してきたが、カナダは国としてその立場を明瞭に打ち出して安楽死を合法化したといってよいのではないだろうか。


■医師だけでなく上級看護師も安楽死を実施できる

もうひとつ、カナダの合法化がそれ以前に合法化した国や地域よりもラディカルに踏み出した点として、医師だけでなくナース・プラクティショナー(上級看護師)にも安楽死の実施を認めたこと、「耐え難い苦痛」の要件の箇所に「患者本人が許容できると考える条件下では軽減することができない」と付記されていることのふたつを挙げておきたい。後者では、通常の標準治療や緩和ケアで軽減できる苦痛であったとしても、本人がそれらの治療を「許容できない」なら法律の要件を満たすことになる。


これら2点については、その後オーストラリアの各州とニュージーランドが合法化した際にも同じ要件が法文に盛り込まれた(ヴィクトリア州だけは実施者を医師に限定)。この点を含め、カナダの合法化は世界の安楽死の動向をめぐる大きな転換点となったのではないかと私は考えている。

■合法化からわずか5年で対象範囲が拡がった

またカナダでは、合法化当時は終末期の人に限定されていた対象者が合法化からわずか5年で非終末期の人へと拡がった。2021年3月の法改正で新たに対象となったのは、不治の重い病気または障害が進行して、本人が許容できる条件下では軽減することができない耐え難い苦しみがある人だが、2024年には精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も容認される方向だ。


カナダの安楽死者は2021年の対象者拡大から増加し、保健省のデータによると2021年は2020年から32.4%の急増となった。2021年、2022年にそれぞれ1万人超。2016年の合法化からのMAIDによる死者数は4万人を超え、2021年段階でカナダ全体の死者数の3.3%。


どの州でも毎年増加しているが、もともとカナダの一連の動きを強力に牽引してきたケベック州では安楽死者が総死者数に占める割合は5.1%(7%というデータもある)に及ぶ。オランダの直近の割合と並ぶだけでなく、オランダとベルギーでは二十数年間での漸増であるのに対して、ケベックでは2015年から、カナダ全体でも2016年から短期間での急増と言うことができる。

■さらにラディカルな法改正への動きが続く

現在もケベック州内科医学会から障害のある新生児への安楽死を是認しようとの提案が出たり、認知症など意思表示が困難となることが予測される人には事前指示書でMAIDを可能とする法案が州議会に提出されたり(現行法では実施時に意思確認が必要)と、さらにラディカルな法改正への動きが続いている。


この法案が2023年2月に提出された際に同州の高齢者問題大臣が語った言葉が非常に印象的だった。「MAIDは終末期ケアであり、この「ケア」という言葉を私は強調します。MAIDは人々が最後の瞬間までを自分が望むように生きることを可能とするケアなのです」。ここにカナダのMAIDの特異性が如実に顕れている。


オランダやベルギーの安楽死は合法化された当初、もうどうしても救命することができない終末期の人に緩和を尽くしてもなお耐えがたい痛み苦しみがある場合の、最後の例外的な救済手段と捉えられていた。合法化には、すでに公然の秘密として行われていた安楽死に規制をかけ、医師の行為の違法性が阻却される条件を明確にする狙いもあった。その意味では、安楽死は「合法化された」というよりも「非犯罪化された」という方が厳密には正しい。

■「合法的な医療サービスであり、利用するのは個人の権利」

その後の時間経過の中で少しずつ対象者が拡大し、さまざまに安楽死の捉え方が変わってきているのは事実だが、カナダでは最初から安楽死が緩和ケアの一端に位置づけられて、例外的な措置というよりも日常的な終末期医療のひとつの選択肢として合法化されたことになるのではないか。それは、カナダでは法制化の意味合いそのものまでが、例外的に際どい行為をする医師の免責(違法性の阻却)から、患者の権利としての安楽死の容認へと飛躍してしまったことを意味してはいないだろうか。


ケベック州の高齢者問題大臣の発言にもそれはうかがわれるが、2020年にも同州の小さな訴訟で印象的な判決が出ている。夫が申請し認められた安楽死を止めようと妻が起こした訴訟で、妻の敗訴を言い渡した判決は「安楽死は、最高裁が合憲と認めて立法府がそれをルール化したものである以上、合法的な医療サービスであり、それを利用するのは個人の権利である」と書いた。「医療サービス」「個人の権利」という言葉が意味深い。


こうしたカナダの先鋭性を「カナダ固有のMAIDイデオロギー」だと指摘するのは米国国立衛生研究所の生命倫理学者スコット・キムだ。キムは2023年2月にカナダの新聞「グローブ・アンド・メール」に寄稿し、「MAIDイデオロギー」の特徴は安楽死を当たり前の(ノーマルな)治療とする捉え方と医師が積極的に推進する姿勢のふたつが融合していることだと書いている。

■合法化されれば医師の裁量にゆだねられるようになる

実は先の2020年のケベック州の判決では、もうひとつ重大なことが言われている。夫の安楽死が認められるべきでない理由として、妻が主張したのは「夫は終末期ではない(この段階では対象がまだ終末期の人に限定されていた)」、それから「認知症気味なので、その混乱の中で決断したことにすぎない」の2点だった。


そこで争点は、(1)男性の症状が法律の要件を満たしているか、(2)男性に意思決定能力があるか。最終的に、判決はいずれについても「裁判所には判断する権限はない」とした。症状についても意思決定能力についても、そのアセスメントは法律によって医師の専門性にゆだねられている、という理路だった。


医師の判断や対応に疑問を抱いた家族が訴える訴訟が最近増えているし、実際にかなり粗雑なことが行われていたりもするが、いったん合法化された国々の安楽死の法的規制では、このように専門性という名のもとに多くが医師の裁量にゆだねられてしまう。


そもそも事後的に報告を義務づけている法律の規定も、医師に自己申告を求めているにすぎない。それだけの裁量権を与えられた医師たちがカナダではキムが言うようにMAIDを「推進する姿勢」を持っているのだとしたら、それはたいそう気がかりなことではないだろうか。

■居住支援を受けられず安楽死を選んだ女性

カナダでは近年、医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死の申請が医師らによって承認される事例が次々に報道されて、問題となっている。実際にMAIDで死んだ人がいる。報道から3つの事例を紹介したい。


1例目はソフィアという仮名で報じられた51歳の女性。化学物質過敏症(MCS)を患い、救世軍が運営するアパートに住んでいたが、コロナ禍で誰もが家にこもり始めると、換気口から入ってくるタバコやマリファナなどの煙が増え、症状が急速に悪化。


カナダには障害のある人に安全で、家賃が手ごろな住まいを助成する福祉制度があるため、友人や支援者、医師らの力も借りて2年間も担当部局に訴え続けたが、かなわなかった。安楽死の要件が緩和されたため自分も対象になると考えて申請したところ、認められて22年2月にMAIDで死去。支援者が寄付を集めていたが、間に合わなかった。友人への最後のメールに書かれていたのは「解決策は見つかりました。もうこれ以上闘うエネルギーはありません」。


ソフィアの安全な住まい探しを支援してきた、ケベック環境医学会の会長であるロヒニ・パリスはメディアの取材に「この人は、助けてほしいと2年間ずっと乞い続けました。あらゆる先に手紙を書き、あらゆる先に電話をかけて、健康的な住まいを求めました。ソフィアは生きたくなかったわけではありません。あのままでは生きられなかったのです」。

■福祉サービスを受けるよりも簡単な申請手続き

同じ病気で同様に困窮してMAIDを申請しながら、友人が集めた寄付が間に合って命拾いした女性もいる。トロント在住の31歳のデニス(仮名)は、難病のほか6年前からは脊髄を傷めて車いす生活となっている。収入は州の障害者手当のみで月に1200ドル程度。ただでさえ貧困ラインを割っているうえにカナダでは住宅不足で家賃が上がった。7年前から助成金の出る住まいを申請し、本人はもちろん支援者と主治医も奔走したが、実質的な対応はされないままだった。


写真=iStock.com/PuiStocker65
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PuiStocker65

それに比べると、安楽死の申請手続きは驚くほど簡単だったという。幸い、承認を待っている間に支援者のインターネット募金が成功し、一時的にホテルに移ることができた。募金を始めた支援者は「もし住まいの問題と弱者であることがMAIDを求める理由に含まれているとしたら、我々はそこに非常に深刻な倫理問題を抱えています。それなのに政府は、人々に自分自身を方程式から取り除く力を与えている。これでは医療的臨死介助(Medical Assistance in Dying)ではなく政治的臨死介助(Political Assistance in Dying)です」(太字は筆者)と憤った。

■「経済的制約に適した治療の選択肢は他に存在しない」

3例目は、ブリティッシュ・コロンビア州在住の30代後半の女性、カット(仮名)。難病のため痛みがひどく、ここ数年は麻薬性鎮痛剤オピオイドを使用している。カナダには専門医が少なく、根治治療を受けるには海外へ行くしかない。生きたいと望んでいるが、前年MAIDを申請し承認されている。


カットに関する報道で私が気になったのは、彼女の安楽死を承認した保険会社の書類にある「患者のカルテは長く、患者のニーズと経済的制約に適した治療の選択肢も介入も他には存在しない」というくだりだ。「本人が許容できると考える条件下では軽減できない」耐え難い痛み苦しみがあることというMAIDの要件に「苦しみを軽減する手段が経済的に許容できない」ことまで含意されていくと、合法化の際にどれだけの人が予測できただろうか(太字は筆者)。

■「非常に安直な問題解決を提供している」と医師から批判も

ソフィアの事例を報道で知り、連名で連邦政府の障害のある人の住まいを担当する部署に書簡を送った4人の医師たちがいた。ソフィアの症状は空気のきれいな環境に移ることで軽減されたはずだと述べて「われわれは医師として、この状況にMAID以外の解決策が提案されなかったことを受け入れがたいと考えます」と書いた。


児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)

デニスの治療に当たっている医師のリイナ・ブレイもメディアの取材に「社会はこうした患者を裏切っています。MAIDが提供している、この非常に安直な問題解決をストップし、これらの人々に必要なのは支援だと社会が認識し始めることを望みます」とコメントした。


彼らのように、難病や障害ゆえに生きづらさを抱える患者のそばに寄り添い、適切な支援を求めて八方手を尽くし奔走する医師たちがいる。支援があれば生きられる人に安楽死の要請が認められたことを憤る医師たちだ。その一方に、こうした患者たちからの安楽死の要請を専門性の名のもとに簡単に承認してしまう医師たちもいる。


2019年4月にカナダを公式訪問して聞き取り調査等を行った国連の障害者の人権に関する特別報告者は、「施設や病院にいる障害者にMAIDへの圧力がかかっている、また医師らが障害者の安楽死を公式に報告していないとの気がかりな報告が届いている」と報告書に書いた。


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児玉 真美(こだま・まみ)
著述家、一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事
1956年生まれ。京都大学文学部卒。カンザス大学教育学部でマスター取得。英語教員を経て著述家。近著に『増補新版 コロナ禍で障害のある子をもつ親たちが体験していること』(編著/生活書院)、『私たちはふつうに老いることができない 高齢化する障害者家族』(大月書店)ほか多数。
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(著述家、一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事 児玉 真美)

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