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現代倫理学(4)


「道徳・倫理の発生機序」


「道徳・倫理の発生機序」

道徳や倫理(この違いは明確ではないが、「倫理」に「理」という字が入っている以上、「道徳」を「合理的なもの」として集成した体系が「倫理」だと思われる。)は「禁止の体系」だと言われる。そして明らかに部族や社会の秩序維持手段として発生し成長したと思われる。
その根幹となる「禁止」は何か、と言えば、総体的には「欲望の禁止」だろう。ほとんどすべての道徳や倫理、あるいは宗教で「欲望」は禁止対象となっている。
だが、欲望の充足こそは人間が最も求めるもので、人生の目的と言っていい。それが禁止されるのが道徳や倫理だから、普通人が道徳や倫理、あるいは宗教を敬遠し、嫌うのは当然であり、中で「意識の高い人間」たちが、「道徳や倫理や宗教のような『人間性の自然に反するもの』がこれほど歴史の中で重視されてきたからには、それには単なる欲望の満足以上の貴重な精神的価値、人生的価値、社会的価値があるのではないだろうか」と考え、深く考察してきたわけだ。私のこの小論もそのひとつだ。
幼児や小児は道徳や倫理を知らない。そこで、彼らは自分の欲望を満足させるために泣いたり喚いたりして大人を困らせる。この、「欲望の達成は他者の迷惑になる」ということが倫理や道徳の発生機序だろう。大人は幼児や小児が何かを求めて泣きわめくと、それを与えて黙らせるか、脅すか叩いて黙らせる。この「脅し」が宗教での「地獄」などである。「叩くこと」が一般社会の「法律」である。他人の物に手を出す(盗む、奪う)と刑法で罰せられる。これは小児を叩くのと同じである。言葉で説得して相手の行為を止める(黙らせる)のが「道徳」や「倫理」である。だから、基本的に幼児や小児には通用しない。ただ、幼児や小児が欲望の対象として求める物は高価なものではないから、通常はそれを与えるだけで済む。
道徳や倫理は法律より「運用が困難」である。法律の背後には政府があり、警察や軍隊という暴力装置がある。しかし、道徳は基本的に「自分自身が自分の法律であり、法秩序の維持者」なのである。誰の心の中にも「自分ルール」があるが、それは自分の知った大人の影響や、自分の読んだ本の影響でできている。そうした個々人のルールの平均的なものが社会秩序の維持に役立つ場合、それが社会道徳となる。(「公衆道徳」は、普通は公の場でのルールだから、社会道徳とは少し違う。社会道徳は、ひとりでいる時も、個人を規制していることが多い。)
たとえば、「他人に暴力をふるってはならない」というのは基本的な社会道徳だろう。だが、それを守らないどころか、あえて無視する人間もいる。つまり社会の中の野獣だ。学校という治外法権の小世界では、よく見られる人種である。また、刑務所の中などでは、「ルール」はあっても「道徳」は無いだろう。道徳とは自ら進んで服する自己規律なのである。刑務所のような下層社会でなく、逆に社会の上位者の世界には特殊な「自分たちに都合のいいルール」があるようだ。これも「道徳」ではない。道徳の大半は、「他人への肉体的精神的危害を禁じる」もので、それを厳しく守ると他人より上に行けないものなのである。戦争という殺人行為は明白に道徳に反するが、しかし国家の命令では兵士はその殺人行為に従事するしかない。戦争において「戦争反対」を叫んだ宗教者は驚くほど少ないのである。つまり、彼らの「殺すなかれ」は大嘘であるわけだ。
「道徳」は普通は「人生を良く生きるためのアドバイス」であることが多い。しかし、大多数の人にとっては、その背後に道徳の履行を強制する「創造主」のような絶対的存在が無いから、その道徳を守るかどうかは個人の選択に任されている。

まあ、まだ言い落としていることがあるかもしれないが、とりあえずここで筆を擱くことにする。

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現代倫理学(3)


現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如


「悪」について考察する。
悪を倫理で取り扱う困難さは、「悪は個人的には利益を生むことが多い」という事実に基づいている。つまり、「悪が成功すれば、その実行者には利益を与え、社会全体には不利益を与える」のである。この不都合な事実を明言した倫理学者や哲学者や宗教家はほとんどいないと思うが、この事実を知らない人間もまたほとんどいない。だから、石川五右衛門ではないが、「世に盗人(悪人)の種は尽くまじ」であるわけだ。企業家や政治家など、世間で大成功をおさめ、警察に逮捕もされない大悪党はゴマンといる。つまり、警察や検察は「正義の味方」ではなく「権力の手下、権力の護り手」であるからである。このことを言明する宗教家や倫理学者もいない。しかし、自分の身に置き換えて考えれば、自分が警察や検察の人間なら権力者に立ち向かうことがまず不可能であることは容易に分かるはずだ。
簡単な話だが、善は善に反する行為はできないのに対し、悪は、必要な場合は善(偽善)もやすやすと行えるのである。現実世界では善は悪に勝てないのが道理だろう。
そこで、倫理が扱えるのは「個人的道徳」のレベルの問題だけという、情けない話になる。しかし、それは果たして小さなことなのか。つまり、倫理というのは自分の人生の導き手としてダメな案内人なのかどうか、もう少し考えたい。
私が世間の悪人たちを見ていて思うのは、その精神の卑しさである。そういう卑しい精神で一生を送る、その人生とは、巨万のカネがあろうと惨めな人生、生きるに値しない人生だ、と私は思う。
「卑しい精神」と言うとあまりに漠然としているが、「他者への尊重、愛情、優しさ、同情、献身」が欠如した精神と言えるだろうか。別の言い方をすれば「自己愛」だけが精神を満たしている人間、エゴイスト、特に残酷なエゴイストである。これは、まさに「悪」の特徴なのだ。
例を挙げるなら、『悪霊』のスタヴローギンである。彼は「何事も為しうる」能力と財産と身分を持ち、超絶的な美男子である。にも関わらず、人間に位階をつけるなら、彼はあの作品の中の人物で最下位になるだろう。それは、彼が他者をまったく尊重せず、他者を平気で踏みにじることのできる人間だからである。単に興味本位で、安月給の下級官吏のひと月の給料を盗んで恥じない人間なのである。それで一家が困窮することも分かり切っているわけだ。他人の不幸を平気で見ていられる人間を、私は人間の屑だと思う。企業経営者などにもその手の人間は多いのではないか。で、そういう人間の人生は楽しいのか、生きる価値があるのか、ということだ。
ここで、善というのを何か凄いことのように思うかもしれないが、要は「他者の尊重、敬愛」があるかどうかというだけのことだ。その反対になるのが高慢な自負心だろう。自己愛だけで満たされた人間は他者を尊重するはずがない。逆に、どんなわずかなものであれ、人間は自己犠牲を行う時、一番美しい。おおげさな言い方をすれば、自己犠牲をする時、人間は神に近づく、という印象すらある。『悪霊』の中で、シャートフが殺される前夜のシャートフとキリーロフの描写は、神々しさを感じさせる。これは、下級官吏の給料を盗む時のスタヴローギンの下劣さと対照的である。
つまり、善とは他者の尊重である、というのが私のテーゼだが、それは「美しい」行為でもあるわけだ。当人がその美しさを知らない時ほど、その美しさは輝かしい。悪を行う時人間は醜く、善を行う時、美しい。それだけでも倫理の価値は十分なのではないだろうか。
だが、これはまだ考察不十分な思想であるので、もう少し考えたい。

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「西側価値観」の完璧な体現としてのガザの大虐殺

「世に倦む日々」NOTE記事に引用されたケイトリン・ジョンストンの記事日本語訳の一部である。
私が彼女が自分のプロフィールに使う写真の顔が人造人間臭くて嫌いであることは別として、ここに書かれた内容は見事な「西洋人による西洋文明・西洋思想の自己批判」である。



記事原文タイトルを先に載せておく。私が彼女のプロフィール写真が嫌いなのも分かるだろう。
「embodiment」は、字面からすぐに推測できるように「体現」の意味。「atrocities」は「残虐行為(の数々)」。




The Atrocities In Gaza Are The Perfect Embodiment Of 'Western Values'

2023/12/20

(以下「世に倦む日々」から転載)
ガザの破壊は、西欧の価値観を守るために行われており、それ自体が西欧の価値観を完璧に体現している。学校で教わるような西洋的価値観ではなく、西洋的価値観が隠しているものだ。ラベルに宣伝文句が書かれた魅力的なパッケージではなく、実際に箱の中に入っている製品。

何世紀もの間、西洋文明は戦争、大量虐殺、窃盗、植民地主義、帝国主義に大きく依存してきた。宗教、人種差別、民族至上主義を前提とした物語を用いて、それを正当化してきた。そして、それら全てが、今、ガザ焼却の中で繰り広げられている。


















ガザで私たちが目にしているのは、学校で習った自由や民主主義などというちんぷんかんぷんな言葉よりも、西洋文明の本質をよく表している。私たちが何世紀にもわたって誇らしげに自画自賛してきた芸術や文学よりも、はるかに優れた西洋文明の表現だ。私たちのユダヤ教・キリスト教価値観が振りかざしたがる愛や思いやりよりも、はるかに優れた西洋文明の表現なのだ。

ブッシュ時代のイスラム恐怖症が2023年にゾンビのように復活する中、西洋文明が1万人の子供の死体の山を築いている間にさえ、西側の右派がイスラム文化がいかに野蛮で野蛮であるかを口走るのを見るのは、とてもシュールなことだ。その子どもの死体の山は、モーツァルトやダ・ヴィンチやシェイクスピアが生み出したどんなものよりも、西洋文化をよく表している。これが西洋文明だ。これが西洋文明の真髄だ。


















リベラル派が人種やジェンダーについて進歩的な見解を持つことを自画自賛する一方で、自分たちが選んだ役人たちが軍用爆薬で子どもたちの身体を引き裂く手助けをする。

軍国主義、帝国主義、資本主義、権威主義を原動力とする巨大な地球規模の帝国が、飽くなき食欲で人肉をむさぼり食う一方で、イランや中国のような国よりも自分たちがいかに優れているかを自画自賛する。これが西欧の価値観だ。これが西洋文明なのだ。

それが私たちだ。それが西洋文明だ。私たちは、自由、正義、真実、平和、表現の自由を重んじると言うが、私たちの行動はまったく違う姿を描いている。本当の西洋の価値観、魅力的なラベルの下にある箱の中の実際の製品は、今日のガザであなたが目にする行動なのだ。









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「ぞめき」とは何か

落語関係の本を読んでいると、その中に「二階ぞめき」というのがあって、話の内容はともかく、私はこの「ぞめき」がどういう意味か分からないので、考えてみた。グーグルで調べればわかるかもしれないが、どうでもいいことを考えること自体が娯楽なのである。
最初に考えたのは、この「ぞめき」とは名詞だろう、ということだ。
いや、最初に考えたのは、確か「ぞめき」の「めき」は「~めく」という語尾の変化形ではないか、ということで、例えば「春めく」のようなものだ。では、なぜ「めく」ではなく「めき」かというと、「めく」は動詞語尾で、「めき」は名詞語尾だろうという推定である。ウ段語尾が動詞でイ段語尾が名詞形であるのは、たとえば「歩む」は動詞で「歩み」は名詞であるなど、普通にある変化だ。「微笑む」は動詞で「微笑み」は名詞など、色々ある。
では「ぞめき」の「ぞ」は何か、というのが難しい。「ぞ」という言葉で連想するのは「ぞーっとする」くらいだろう。「ぞわぞわ」とか「ぞくぞく」とか、恐怖感の表現に多い音のようだ。しかし、「二階ぞめき」の場合は、話の内容はよく覚えていないが、そういう話ではないはずだ。動詞形で「ぞめく」としても意味不明である。
まあ、恐怖感に限らず、何か、気になる物事への好奇心を表す言葉としていいのではないか。
もちろん、以上の妄想的考察は考察自体が娯楽なので、正誤は問題ではない。

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現代倫理学(2)


現代倫理学(2)人間の倫理(善悪の定義と派生的考察1)



神の存在は不可知だから、我々に可能なのは「人間の倫理」を考察することである。それによってこの世界をより良いものに変えていけるなら、そういう考察は無意義ではないだろう。

さて、倫理の基本は「善とは何か、悪とは何か」である。古い言葉で言えば「勧善懲悪」が倫理の目的だが、問題は、その「善」と「悪」が明解な定義がされていないことだ。
この定義は単純なものである必要がある。それでないと社会全体の人間の指針とはなりえないからだ。つまり、「分からないままに従う」という、従来的な倫理(神の倫理はそれである。)ではなく、社会全体が納得して従う倫理を構築する必要があると私は思っている。そういう倫理が無いから、あらゆる宗教が破綻した後にこの無道徳な世界が生まれてきたのだろう。
たとえば、「嘘をついてはいけない」という倫理は、今では子供ですら信じていない。総理大臣を初めとして嘘が平気で罷り通る社会で、誰がそんな倫理を信じるものか。
また、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある若者の質問に居合わせた大人たちが誰ひとり答えられなかった事件は記憶に新しい。それも、世界中で戦争やテロや大量殺人事件が頻発する世界では、誰も納得できる答えを持ち合わせていなかったからだろう。

私が提起する「善悪の定義」は、下のようなものだ。その定義から派生する考察課題とその答えなどを番号付けしていく。定義自体は非常に単純なものだ。

定義1:善とは生の肯定、そしてこの世界の肯定である。
定義2:悪とは生の否定、そしてこの世界の否定である。

「生の肯定」が「この世界の肯定」になるとは限らない、という意見も出るだろうが、私はこれはほぼ同義になると思っている。1-aがその説明である。
以下が、定義1から発生する考察である。

1-a:生の肯定とは、世界の肯定である。つまり、この世界を「生きるに値する世界」と観じることである。
1-b:自己の生を肯定し、尊重することは、他者の生をも肯定し、尊重する「義務」を伴うべきである。
1ーc:bにおける「義務」がすなわち「倫理」である。(反論者のためにbとcを分けておく。)
1ーd:倫理は社会的存在としての人間が社会を維持する土台である。
1-e:従って、「なぜ人を殺してはいけないか」に対する答えは、「殺人は社会全体の破壊、あるいは崩壊につながるから」である。(言うまでもないが、「人を殺してもいい」という社会は全員の殺し合いになり、崩壊する。)
1-f:「なぜ社会を破壊してはいけないのか」に対する答えは、「社会は人が生きる基盤であり、そう質問するあなた自身が生きる基盤だからだ」である。
1-g:上記e、fは、貧困と抑圧、社会への不満によって「自分が死んでもいい」という自暴自棄に陥った人間(いわゆる「無敵の人」)に対しての抑止力にはならない。よって、社会は「無敵の人」を生み出さない制度、すなわち福祉制度の充実が必要になる。
1-h:ではあるが、「世界を肯定する者」は、自分が死ぬからといって世界そのものを破壊はしない。それは、彼がこの世界を愛しているからだ。(ここに文化の意義がある。文化とは本来的には世界への愛を生み出すものなのである。世界への嫌悪や破壊を促す創作物は倫理的には批判されていい。もっとも、それへの罰則を導入すると、ファシズム的社会になるので注意が必要だ。法律と異なり、倫理は本来、罰は伴わないのである。)

定義1に対する考察は以上である。

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医療が病人や病死者を増やす?

私が「健康関係記事」でいつも書いてあることが、ほとんど和田氏の言っていることと同じである。私のような素人が言うより、医者である和田氏が言うほうが耳を傾ける人が多いのは当然だろうが、残念ながら、マスコミの医学記事はロックフェラー医学界(製薬会社主導医学界)に乗っ取られているから、この手の記事は一般人はほとんど目にしない。
ひとつ、「寿命は寿命」として、じたばたせずに生きるのはどうか。まあ、私自身高血圧「治療」のために、毎月病院に通っているが、それは「治療」より、相手の医者が身内なので、隠者に等しい生き方をしている私のわずかな社会参加(人間関係維持)の目的が大きいのである。

念のために言えば、私の主張は「医学否定」ではない。「無駄(有害)な医療の否定」だけである。

(以下「大摩邇」から引用)

町から病院がなくなったら死ぬ人が減った…医師・和田秀樹が指摘する「日本の高齢者医療」の深すぎる闇

ライブドアニュースより
https://news.livedoor.com/article/detail/25621016/
<転載開始>
健康で長生きするにはどうすればいいのか。医師の和田秀樹さんは「医者が無理やり病気をつくり、本来は治療しなくてもよい人を治療するケースが驚くほど多い。医者にかかることで、かえって寿命が短くなるおそれがある」という――。

※本稿は、和田秀樹『医者という病』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。






■日本の医療は、無駄な検査と投薬が多すぎる

高齢者になると格段に処方される薬の量が増えますし、無駄な検査も増えてしまうので、医療費を増大させる要因になります。ただ、医者が正常値にこだわらず、「少しでも数値がその枠からはずれると、薬を使って数値を戻そうとする」という行為をしなければ、医療費が少しは軽減されるでしょう。



日本の医療体制の崩壊を防ぐには、何とかしてこの「正常値信仰主義」を正して、無駄な検査や投薬を防ぐ必要があるのです。そのために大切なのは、血圧の高い人が薬をやめたらどうなるのか、逆に薬を飲み続けた人はどうなっているのかを、きちんと大規模調査することです。

現状、日本の正常値にはまともなエビデンスがありません。それならば、ただの平均値±2標準偏差である正常値に頼らず、調査によって導きだしたエビデンスを元に、日本の医療のベースとなる治療方針を決めるべきではないでしょうか。


その際には、ぜひ「成人の正常値」だけではなく、「高齢者の正常値」についても調査してもらいたいものです。


私自身、もし許されるならば、健康状態を改善しつつも医療費を下げる研究などをしたいです。しかし、大学医学部の教授のように研究費がない上に、研究スタッフもいないので、自分では実施できません。現在、研究ができる立場にいる大学の教授は、非常に恵まれています。

■がん検診が広がっても、がんが「死因トップ」のまま

ところが、彼らは自分たちはろくにこの手の研究をしない上に、この手の研究をする人を選挙で教授にさせません。研究者を名乗るのであれば、研究費稼ぎのための製薬会社にこびへつらうための研究ではなく、少しでも日本の医学に貢献する研究を進めてほしいものです。


もしまともな研究をしないならば、もっと向学心のある若者に道を譲って、引退していただきたいです。


各種検査の中で、「これは不要ではないか」と私が強く思うのは高齢者の「がん検診」です。


日本人の死因の一位となるがんで死ぬ人が増えるほどに、マスコミなどを通じて「がんは怖い病気だから、がん検診を受けよう」と喧伝(けんでん)されがちです。しかし、世界中を見ても日本でがんの死者数が多く増え続けている理由の一つは、「がん検診のしすぎ」だと感じています。


昨今の日本では、腫瘍マーカーなどの血液で簡単にできる検査をはじめ、がん検診が広く行われるようになりました。しかし、がん検診がどんどん普及しているのに、がん患者の数が増え、がんによる死亡者数も増えています。


なぜこんな不思議な事態が起こっているのでしょうか?


それは、検診で見つけなくてもよいがんを発見しては、無理やり治療するからこそ、がん患者やがん死者が増えているという大きな矛盾が存在するからです。


■高齢者にがん検診は必要ない

そもそもがんは治療せずに放置していても、死の直前までは痛みなどを感じづらく、晩節を穏やかに過ごせるため、「最も幸せな病気」と言う医者もいるほどです。余命があと数年という患者さんのがんを見つけて、それを無理に治療してつらい思いをさせる必要はないと私は思います。


また、どんなに対策していても、高齢者になるほどにがん患者の割合は増えていきます。そもそもがんという病気は、細胞の老化によって引き起こされる要素があります。私がかつて浴風会病院という高齢者専門の総合病院に勤務していた際、患者さんの遺族の許可を取り、毎年100例ほどの遺体の解剖が行われていました。


解剖してみたところ、80代後半の方で、体の中にがんのない患者さんはほとんどいませんでした。それでも、がんが死因だった人は三分の一くらいで、残りの方はご自身ががんであることを知らずに亡くなっていきました。


高齢者であれば、がんが体内に発生したとしても、無理やり早期発見をして、治療する必要はないともいえるのです。

■一番怖いのは「がんもどき」を無理やり治療する行為

「病気は早期発見するほうが良い」と思われるかもしれませんが、検診によって恐ろしいのが、本来は治療しなくてもよい「がんもどき」を発見することです。「がんもどき」を最初に提唱したのは、近藤誠先生です。がんには、ほかの臓器への転移や浸潤(しんじゅん)する能力を持つ危険ながんと、これらの能力を持たない「がんもどき」の2種類があります。


危険ながんの場合は、手術などで取り除いても再発を繰り返しますし、手術や抗がん剤治療などを行うことで体への負担が強くなり、死期が早まることもあります。


しかし、がん検診で見つかる早期がんの大半は、「早期治療したほうが良いがん」ではなく、治療する必要のない「がんもどき」だというのが、近藤先生の考え方です。悪さをしない「がんもどき」は、転移はしないので、ご自身が症状を自覚するようになってから治療しても、決して遅くありません。


「がんもどき」の代表的なものといえば、スキルス性以外の胃がんや前立腺がん、甲状腺がんなどです。これらのがんは、手術や抗がん剤、放射線などで治療しようと試みられがちですが、放置しても問題がないことも多いので、無理に治療してQOLを下げるほうが問題だと私は考えています。


何が言いたいのかというと、がん検診を受けても、数種類のがんをのぞけば、大半のがんは見つけても助からないか、放置しても問題のないもののどちらかしかないということ。ですから、日本では数多のがん検診が行われているものの、がんの死亡者数がちっとも減らないのです。

■がんと一緒に生きる選択肢もある

早期発見したとしても、深刻ながんの場合は、寿命を1、2年延ばすことはできても死を防ぐことは難しいのです。


非常に残念なことですが、転移するタイプのがんは、10年ほどの年月をかけて、1センチほどの大きさへと成長していきます。その頃になってようやくがんを発見できるわけですが、すでにその時点で、がんは体中のいろいろな場所へと転移しています。


つまり、がんの種類が悪ければ、早く見つけて治療してもうまくいかないですし、がんの種類が悪さをしないものであれば、治療をしなくても長生きできるのです。


もちろん若い人ならば手術や治療に耐えられる力はあると思うので、早期発見によって治療する選択肢も悪くはないでしょう。ですが、ただでさえ体中の細胞ががん化しやすい上にその進行が遅い高齢者については、早期発見したせいで治療を行うことになり、抗がん剤や手術で体を壊したり、入院によって足腰が弱ったり、体力が大きく落ちてしまったり……との弊害が起こりがちです。



私自身が見てきた多くの高齢者たちの中には、がん検診を受けず、自分ががんだと知らなかったがゆえに、最後まで人生を楽しみ、穏やかに亡くなった方々が大勢いらっしゃいます。


どちらを選ぶかは価値観次第ではありますが、検診を通じて無理にがんを見つけて戦おうとするのではなく、もしかしたら体にいるかもしれないがんと一緒に生きるという人生を選ぶことも、一つの手段だと思います。

■過度な医療の介入は健康を損なう

現在の日本の医療は、事前に病気を防ごうとする予防医療が中心です。ですが、そのやり方はあまり意味がないのではないかと、私は常々思っています。


そう思う根拠の一つに、1974年から1989年にわたってフィンランドの保険局で行われた大規模な調査研究があります。この調査では、40歳から45歳の循環器系が弱い男性が約1200人参加し、健康管理をされたグループと何も介入しないグループとに分けて、その後15年間にわたって追跡調査を行いました。


最初の5年間、健康管理が行われたグループは、4カ月ごとに健康診断を行った上で薬剤が処方され、アルコールや砂糖、塩分の管理など食生活に関する指導も行われました。何もしないグループでは、健康調査票への定期的な記入以外は、放置されたのです。


その後、6年目から12年目については、健康管理は自己管理にしてもらい、15年後に両者の健康状態がどうなっているのかを検査しました。多くの方は、最初に健康管理されたグループのほうが、十五年目の健康状態は良いはずだ……と考えるのではないでしょうか。


しかし、結果はその予想を大きく覆すもので、がんをはじめとする各種の病気の死亡率や自殺者数、心血管性系の病気の疾病率や死亡率などの数値は、きちんと健康管理が行われていたグループのほうが高かったのです。


この結果を見て、「過度な医療の介入は健康を損なうのではないか」と感じる人は少なくないでしょう。

■欧米で集団検診が廃止になったワケ

ただ、私が驚いたのは、このフィンランドの研究が発表された後の日本の医者たちの反応でした。本来ならば、多くの医療関係者たちがこの衝撃的な結果に対して真剣に向き合うべきだと思いますが、日本の多くの医者たちは「調査の仕方が間違っているのでは」といって検証もせず、バカにするだけ。


医者たちが科学者である以上、調査で自分が納得のできない結果が出たのならば、きちんとその原因を精査すべきではないでしょうか? 調査の仕方が悪いというのであれば、それを修正した上で何がおかしかったのかを具体的に挙げるか、自分たちが同じ実験を行って、「このデータは間違っている」と指摘するべきです。


科学的なデータには科学的な反論が必要です。ですが、日本の医者の大部分は、こうした作業を怠り、自分たちの常識と違うデータは、検証もせずに排除する。国立大学にしても私立大学にしても、彼らの研究には国からの補助金も出ています。当然ながら、補助金は国民の税金から成り立っているのですから、研究費をもらう以上は公共の利益に還元されるような研究をするべきです。


ですが、彼らはこれまでの常識を覆す実験や調査結果に文句ばかり言って、自分たちでその結果を調査することはしません。これでは、日本の医学がいつまでたっても進歩しないのは当然です。だからこそ、日本は、アメリカよりも医学の進歩が10年(下手するとそれ以上)遅れてしまうのでしょう。

■集団検診が義務化されているのは、日本と韓国くらい

また、そもそもの集団検査自体も、国際的には不要論がささやかれています。


日本では、集団検診をして、血圧や血糖値、コレステロール値を見て、異常値があれば、検査データを正常にするために薬を出すやり方が主流です。ただ、世界的な研究で、集団検診は結果的には患者の寿命をあまり延ばさないということが近年わかってきました。


欧米ではいち早くこの事実に気が付いたため、集団検診は廃止になっています。現在のように、日本のような集団検診が義務化されているのは、日本と韓国くらいです。


2019年2月の日経新聞の報道によれば、OECDも日本の集団検診には見直しを求めているほどです。この事実について、もっと多くの日本人は知っておくべきではないかと私は思います。

■医療行為をしないほうが死ぬ人は減る

日本でも、医者いらずのほうが、寿命が延びた例はあります。その有名な例として挙げられるのが、「夕張パラドックス」でしょう。


2006年、北海道の夕張市が財政破綻し、市民病院が廃止になり、19床の診療所となったため、夕張市民たちが病院で医療行為を受ける回数が格段に減りました。病院に行けないのであれば死者数は増えるのでは……と思われるところですが、なんと夕張市では、がんで死ぬ人と心臓病で死ぬ人、脳卒中で死ぬ人の数がすべて減り、老衰で死ぬ人の数だけが増えたのです。


この夕張市の事例は、医療行為をしないほうが死ぬ人は減るし、病気にならずに老衰で死ねるという疫学的な根拠になったといえます。


コロナ禍でも、医療行為をしなかったゆえに死亡者数が減るという現象がありました。新型コロナウイルス感染症が日本にやってきた最初の年である2020年、実は日本全体の死者数が驚くほどに減りました。2020年は死亡数が約138万人で死亡数は11年ぶりに減少しました。


本来、少子高齢化が進んでいますから、死者数は毎年増えるはずなのに、2020年は前年より死者数が約9000人も減ったのです。

■医者が無理やり病気を作り出しているのではないか

多くの方は、コロナ禍には人がバタバタと亡くなっていったと思いがちですが、コロナが流行ったせいで医療機関に行かなくなった患者がものすごく増えました。何しろ熱があったらコロナだとみなされ、病院に拒絶されることが多かったのですから。


和田秀樹『医者という病』(扶桑社新書)

その後、2021年と2022年は史上最大の死者数を更新しました。これは、以前と同じように医者の治療を受けていたら死んでいた人たちが、一年間寿命が延びた結果だと考えれば、医者に行かなければ一年くらい寿命が延びるという大きな推定根拠になったと思います。


そして、もう一つの特徴は老衰が大幅に増えていることです。これも医者に行かないと、病気で死なないで自然に死ぬことができるということでしょう。


医者が無理やり病気をつくった結果、本来は治療しなくてもよい人が治療する羽目に陥っているケースが驚くほど多いことが、これらの事例からよくわかるのではないでしょうか。


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和田 秀樹(わだ・ひでき)
精神科医
1960年、大阪市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。ルネクリニック東京院院長、一橋大学経済学部・東京医科歯科大学非常勤講師。2022年3月発売の『80歳の壁』が2022年トーハン・日販年間総合ベストセラー1位に。メルマガ 和田秀樹の「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」
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(精神科医 和田 秀樹)

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バルセロナの風が語る言葉

「スペインのむかし話」という児童書から転載。真実と虚偽についての(あるいは社会というものについての)比喩として卓抜だと思う。

 「真実の鳥は、この城のおくの鳥小屋にいる。鳥小屋にいくと、うつくしい色にきかざった鳥たちがじぶんこそ真実だと、いっせいにさけぶだろう。でも、そんな鳥は、一わだって、とらえてはいけないよ。白い小鳥をとらえることだ。この小鳥は、すみっこにおしやられて、ほかの鳥たちから、いつもいじめられているんだ。死ぬようなことはないがね。かわいそうに、死ぬことさえできない鳥だからさ……」

「バルセロナの風」は、とあるギター曲で、私はジャズギター奏者ウェス・モンゴメリーのレコードで知ったが、そのアルバムの中で一番好きな曲である。(ユーチューブで聞けるかもしれない)この昔話がバルセロナの民話らしいので、記事タイトルの一部に借用した。引用した話の中では風が語るのではなく、ミミズクが語る。「ミネルヴァの梟は(やっと)夕暮れに飛び立つ」ように、梟は叡知の象徴だろう。その出現は遅く、その姿は夕闇の中に隠れている。

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