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天皇の「戦争責任」問題

歴史観、あるいは歴史哲学の話になるので、思想問題としてここで考察してみる。
「混沌堂主人」の次の発言だが、氏はこの思想を延々と書き続けている。
まあ、日本人が飢えて死滅するのは、当然の結末なのです。
天皇廃止OR天皇家根絶 という、日本人が「過去の受容」が無い限りに。
つまり、この思想が氏にとって最重要の思想だということだろう。で、その布教のためには、原爆地上起爆説とか、原爆特許は天皇が持っているとか、天皇は(イギリス軍の何かの階級に任ぜられているから)イギリスの手下であるとか、いろいろ書いている。すべて愚論だと思うが、一番の問題である、「天皇の存在は日本にとって最大の害悪である」という考えの是非を考察しよう。

第一にというか、根本問題として、日本人の「過去の受容」は必ず「天皇廃止or天皇家断絶」とならねばならないのか。まあ、氏がいつも言う、「日本人の無責任体質の根源は天皇という存在にある」という主張だが、その論拠は、太平洋戦争での天皇責任問題だろう。
氏は、「天皇は戦争の責任を取っていない」という説だが、これは氏の主観的判断だろう。私は、昭和天皇が在位のまま、「神格的天皇」から「人間天皇」となり、さらに日本国憲法下で「象徴天皇」となったことが、最良の「責任の取り方」だったと思う。それが、米国とGHQの「合理的判断」だったのであり、あの時点で「天皇廃絶」あるいは「天皇死刑」となっていたら、日本はとんでもない「アモラル(無道徳)社会」になっていただろうと私には思える。「天皇でさえ殺してよい、それなら、一般人の命など、虫けら同然であり、いくら殺してもいい」、という精神が日本人に芽生え、瀰漫した可能性が高いと私はと思う。(あるいは、すべてを他人のせいにする「他責思考」の瀰漫)
神道は滅び、仏教もまた戦争協力宗教であった以上、韓国のようにキリスト教でも輸入するか? 宗教や権威を背景にしない道徳が、天皇処刑で生まれた可能性より、私はとんでもない無道徳社会になった可能性が高いと思う。つまり、「人間天皇」になったとはいえ、天皇という「象徴」が憲法で保障されることで、日本人は国民的アイデンティティを保持できた、というのが私の考えであり、それは「人間はすべて平等だ」という欺瞞的思想には反するだろうが、天皇という存在の「不平等性」こそが、現実の現実性をすべての国民に示す暗黙の教訓になっていた、あるいはなっていると思う。

さらに、より重要なのは、ある意味では「天皇が許されたことで、日本人全体が許され、精神的負担を持たなくて済んだ」のだ。神格的天皇の象徴天皇化で、日本人の「禊が済んだ」とも言える。これが、当時の天皇と国民の「精神的一体化」から推測できることだ。(その極度な形である「天皇神格化」に私が反対であるのは言うまでもないだろう。天皇神格化が日本人神格化となり、とんでもない夜郎自大な悪質行動に結びつくからだ。これがアジア侵略での日本軍の行動に明白に表れている。つまり、ここでは、あくまで敗戦時の話をしているのである。)

あの戦争で家族や親しい人を失った人間は日本に無数にいる。だからこそ、私は「絶対的平和主義」者なのである。だが、それと天皇問題はまったく別のことだ。一国の支配者は、政治的に誤った判断をすることもある。では、その判断の誤りの責任は、どう取るか。戦争という重大事なら、「国民が彼を死刑にすることで責任を取らせる」か。これは、イタリアのムッソリーニに国民がやったことだ。で、ファシスト党員がすべて殺害されたとは私は聞いていない。つまり、大多数の「戦争責任者」は上手く逃げたわけである。どの国も同じことだ。そもそも、なぜ敗戦国の元首だけが戦争責任を問われるのか。勝てば官軍で、勝利国のすべての戦争犯罪は許されるのか。

天皇の戦争責任問題というのが、しばしば自分を戦勝国や被害者の立場に置いて、元首ひとりに責任を押し付ける論法のように私は思うのである。そもそも、その「被害者」たちは、戦争の時には自ら進んで戦争に協力し、あるいは戦争で金儲けをした一族だったりする。

あえて暴論を言えば、私は「あの戦争での敗戦は、日本国民にとって史上最大の幸運だった」と思っている。少なくとも、現代の日本人の生活の向上や精神的向上は、あの敗戦の結果なのである。ただし、その結果としての「日本の属国化」は、日本国民が大きな反対運動を起こすべきだが、それもまた別の話だ。私は、あの戦争で死んだ人々は気の毒だと思うが、戦後に生まれた世代は、戦後復興の恩恵をもの凄く受けており、それは元をたどれば「敗戦の結果」なのである。
なまじ勝っていたら、それこそ日本は既に滅亡していただろう。
となると、「敗戦責任とは何か」という話になるわけだ。

まあ、蛇足になるが、要するに、「戦争責任論」のほとんどは、実は「敗戦責任論」でしかなく、勝っていればすべて許されたという、馬鹿馬鹿しい議論だ、ということだ。しかも、私は「日本はあの戦争では敗戦して良かった」という思想なのだ。
もちろん、最初から戦争などしないのが一番である。その点では昭和天皇にも大きな「戦争責任」はある、と思ってはいるが、天皇に判断ミスをさせる無数の問題(アメリカによる戦争への誘導工作や日本軍部の愚かさ)があったことは、多くの話がある。
あなたが天皇だったら、あの時正しい判断ができたか? それを天皇に求めるのは、それこそ「天皇は神でなければならない」に等しい天皇神格化思想だろう。 で、世の「戦争責任論」が実は「敗戦責任論」という愚論であるのは上に長々と書いた通りである。




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食生活と癌

癌細胞は、ある年齢以上になると毎日のように発生して、大半は自然に消えるのであり、食生活とはほとんど無関係だと私は思っている。もちろん、ある種の癌は外的要因が発生原因にもなるだろうが、それも食生活はほとんど関係無いだろう。飲酒などは、脳溢血などの原因にはなるだろうが、癌とは無関係で、煙草になると、喫煙者は劇的に減少しているのに肺がん患者はさほど減らないようだ。

ついでに言えば、我々の体の一部は「生まれる前に死んでいる」(下の赤字参照)のである。中年や老年が今さら気にすることはない。長生きした老人の多くは「早く死にたい」と言うようだ。

まあ、酒も含めて、飲食は人生の喜びなのだから、過度に節制して人生を貧相にすることはない。

発生中の脳では、神経細胞のあいだに多くの接続がありうる。それにも関わらず、これらの接続のわずかしか出生まで残らない。脳の細胞の残りーーー半分くらいーーーは死ぬのである。(D・サダヴァ他著 「大学生物学の教科書」)

(以下引用)

似たような体験談が集まる

オホ・グロ @hogu6hogu6

分かる。わたしも煙草と酒せず生きてきて、特に煙草は副流煙を人一倍避けてたのにある日突然異形成って言われて「なんでわたしが!?」てなった。 x.com/dramerica88/st…


  2024-02-22 17:12:55
HiRo女漁師 @ykkr_iaho0923

身近な人で 私の空手の大師匠は、ずっと空手一筋で タバコはもちろん酒も飲まない。 家族にも喫煙者はいない、毎日農業で汗水垂らして働いて、食事も拘って、間食も盗らず、あとはずっと空手の稽古をしてた大師匠。 まさかの肺がんになったんですよ。 健康には人一倍気を使ってて、自信もあったんでしょう。 病名言われた時に戸惑ったみたいで、お医者さんに 「本当ですか!?嘘でしょう!?どうしてですか!」って言って動揺してたそうです。 そんな大師匠は闘病の末、先日亡くなられました。


  2024-02-22 21:48:52
ニャも無き者 @nyamonakimono14

うちの母親もいわゆる健康食、揚げ物や糖分控えて健康的な食生活を長年してたけど、大腸癌で最後何も食べれず辛い日々を過ごして亡くなったから、食生活で全ての病が予防できるわけではない… 今の食事も楽しもうと思った すごく辛そうだったから x.com/dramerica88/st…


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難関大学の解答欄の大きさの問題

見たいアニメがほとんど無い(「ダンジョン飯」とその他ふたつくらいしかない)ので、仕方なく実写ドラマを見ているが、「ドラゴン桜2」は面白い。今回など、まるで「女王の教室」のような政府(あるいは日本社会)批判があって、驚いた。東大など、この国を悪化させたエリートの巣窟ではないかwww しかし、確か原作漫画も東大卒の編集者がかなり原作脚本(あるいはプロット)に関与していたはずで、東大入試問題の特徴など、よくつかんでいる。
要するに「物事の本質」を把握する能力を見るというものだ。私は国語以外の問題は知らないが、国語の場合は「解答欄」があまりに小さいのがその特徴である。つまり、無駄なことはまったく書けないから、解答者がその問題の本質にいかに迫っているかが分かるわけだ。ただし、採点者自身が、「本質的模範回答」を作っているかどうかが問題で、赤本、黒本、青本など、出版社によって模範回答が違っていることも多いのが東大国語問題の特徴だとも言える。
そういう見方で言えば、最近のネットの、長いコメントに対する「3行で言え」という茶化しコメントなどは東大的だと言える。
まあ、テレビに出ている一部の言論人の、長くて何が言いたいのか分からないコメントには「3行で言え」が正しい反応だろう。意図的誤魔化しもあるし。
ちなみに、京大の国語は東大の正反対で、解答欄が異常に大きい。これは、その人間の思考や知識を多角的に見ようという、「親切な」問題作成姿勢だと思うが、採点者は大変だと思う。
ただし、ここに書いた入試問題の話は20年以上も前の話で、今でも東大や京大の問題がそういうものかどうかは分からない。細部では流行は追うが、本質は変わらないのが教育界だから、変わっていない気がするが。

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「男の怒り」はどこへ行った?

先ほど、散歩の間(「星のない暗い空」だった)中、下に引用したこの曲と歌詞の一部が脳内をずっと回っていたのだが、私は日活映画のファンでもなかったし、赤木圭一郎のファンでもなかったし、そもそもこの映画を見ていないし、歌詞もうろ覚えである。
だが、なぜか、この歌が頭の中から去らなかったのは、何か理由があるのだろう、と考えてみたが、結局は今の世の中のすべてに自分が怒っていて、その怒りが晴れることもまず無いだろう、と心の底で考えているからだろう。

それがひと時だけ晴れたのが、山上徹也の「怒りの一撃」だけだった。
しかし、その後も日本の状況はまったく変わらない。つまり、やはりあれは、安倍の「面従腹背」を疑ったCIA(DS)の「予防措置」であり、安倍切り捨てにすぎなかったのだろう。その証拠に山上徹也の処分がいまだに分からない。そもそも、あの時の現場状況から見て、彼が安倍死亡の「犯人」だったという証明は不可能だろう。
で、今の岸田が安倍以上にひどいという感想を持つ人も多いだろうが、安倍が三度目の登板をしたところで、それより良かったはずもない。つまり、日本が米国の実質的植民地である限り、状況は変わりようが無いのである。それを心底から理解させたのが岸田の「功績」かwww

そこで、「男の怒りをぶちまけろ」という言葉が私の頭の中から離れないという次第である。
今では、男は怒らないもの、となっている。腑抜け状態、去勢状態だ。
私は、昔の学生運動のころは、学生運動を馬鹿にしていた。しかし、彼らは、馬鹿だったが、真剣に怒っていた。だが、その怒りのポイントが「日本が米国の属国である」ということを、日本国民に、いや、米国民にも知らせる努力を怠っていたのではないか。で、結局は住民に迷惑をかけるだけのデモ行動や、仲間同士の殺し合いという内ゲバで、学生運動への同情も関心も消え去った。
まあ、要するに、「左翼」があまりにも馬鹿すぎたのだが、あの当時のマスコミはむしろ左翼びいきで、評論家の大半は左翼思想家だったのである。にもかかわらず、彼らはその状況をまったく活かすことができず、自ら滅んでいった。
その点にこそ、私の「怒り」のポイントがある。もちろん、「自民党をぶっ潰す」唯一の機会だった民主党政権の時、その政権(ただし、民主党内クーデター政権ではなく、鳩山小沢政権)を守らなかった国民に一番の責任がある。要するに、国民が政治的に無知で馬鹿だということだ。

(以下引用)


「男の怒りをぶちまけろ」

星のない暗い空
燃える悪の炎
こらえこらえて
胸にたぎる怒りを
冷たく月が笑った時に
命かけて男の
怒りをぶちまけろ 怒りをぶちまけろ



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まさに、「西側」マスコミ(ユダ金マスコミ最下層)的記事

「中央日報」という正体不明の新聞(ネット新聞か?)の報道で、嘘か本当か分からない推測的「事実」に、誰だか正体の分からない人物の推測的意見とプーチンやロシア政府への悪口を大量に加えた、「我、刷毛の影もて馬の影を掃く御者の影を見たり」という趣の記事だが、参考までに転載しておく。
「人権団体」ねえ。誰が、「グラグネット」なんて存在を知っているのだよ。で、なぜその正体不明の団体の正体不明の人物の発言がまるで「権威ある存在」の発言のように報道されるのだよwww

(以下引用)

「ナワリヌイ氏、一発殴られて死亡…KGB『ワンパンチ』暗殺術か」


配信中央日報日本語版


アレクセイ・ナワリヌイ氏



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児童文学の心理学

市民図書館から借りて来た、リンドグレーンの児童文学「ラスムスくん英雄になる」を、気の向いた時に間断的に読んでいるが、リンドグレーンというのは、少し前の流行語で言えば「根が暗い」作家だな、という気がする。つまり、脳天気な子供の世界の背後に、常に、どこか暗い大人の世界がチラチラしている感じが私にはある。たとえば、「名探偵カッレくん」などだと、子供の探偵ごっこの世界に実際に現実の殺人事件が起こるのである。(子供のころ読んだ記憶で書いているので、本当にそういう内容だったか確かではないが。)

で、ここで論じたいのは、昨日書いた「エランヴィタール」と「フランヴィタール」の話である。その定義を私なりにすれば、エランヴィタールとは「無秩序な生命力」、フランヴィタールとは「秩序ある生命力」で、後者は、「生命力」の本質とは異なるもので、前者だけが本当の生命力だろう、と私は思う。鋳型にはめられた生命力というのは本質的生命力ではなく、外的な力の産物だろう。だが、その概念を使うなら、人間の人生とは、(その良し悪しは別として)エランヴィタールがフランヴィタール化される過程である、と言えるのではないか。
たとえば、性欲の発現の仕方は原始的な無秩序性から、倫理や法律や習慣(風習・制度)という社会的強制によって「許容される性発現」と「許容されない性発現」に分けられていく。これは女性を「所有物」としていた男社会の産物で、女性は概してこの分化に否定的な感情を持っている、つまり性的アナーキズムに惹かれる傾向があると感じる。女性の自然性と言ってもいい。だが、性的アナーキズムの下では、性交(強姦含む)はあっても恋愛や結婚は無い、と私は考えているので、恋愛や結婚という人工的文化を完全に否定していいのかどうか、非常に疑問視するわけだ。

これが児童文学とどう関係するかと言えば、児童文学がなぜ「腕白小僧」を主人公にするか、という問題を私は論じたいわけだ。
腕白小僧の言動は周囲の迷惑だが、外部の観察者や観客の目からは「面白い」から彼らを主人公にする、というのがその理由だろう。では、彼らはなぜ周囲に迷惑な行動をするのか。それが「エランヴィタール」の発現だからである。彼らは社会について無知だから、やっていい行動といけない行動の区別がつかない。だから、結局は、活発な子供は傍迷惑な腕白小僧の行動をし、おとなしい子供はやりたいことをじっと我慢する。どちらが「話として面白い」かは明白だろう。

子供の頭の中の知識は、「理解されず、知っているというだけの、ゴミのような、無秩序な知識」と「整理され、理解された有益な知識」に分類される。前者でも、その知識が冗談のネタにはなるから、無益だとばかりは限らないが、人生の指針や参考にはならないわけだ。学校で習う知識の大半が、結局はそういうもので終わることは誰でも認めるだろう。まあ、進学に有益なだけだ。

で、知識についても、「無秩序から秩序へ」という進行が頭の中で起こるのが知的進化だろう、というのが私の説だ。つまり、エランヴィタールからフランヴィタールへというわけである。
だが、どんな大人の中にも、子供のころの「無垢な(白紙の)状態で」世界を見ていた、あのころへの懐かしさというものがあり、それが子供期をある種の「黄金時代」と思わせるのだろう。


ついでに書いておく。私は2週間に1回、市民図書館から10冊の本を借りてくるが、そのほとんどは最初だけ読んで、読む価値がないと判断したら、それ以上読まないで返す。で、借りる本の半分くらいは児童書である。児童書を「大人の目」で読むと非常に面白いのである。もちろん、その大半は屑であるが、中に非常に優れたものがある。逆に、高名な作家の「大人向け文学」でも、私にはまったく興味を惹かないものもゴマンとある。むしろ、興味を惹くもののほうが希少である。それ以前に、「読むのが面倒くさい」ものが多い。(今回は気まぐれで大江健三郎の「宙返り」という小説を借りてきたが、彼がどういう意図でこれを書いたのか、さっぱり分からず、興味も惹かれないので途中放棄した。登場人物の女性が、奇妙な「事故」で処女喪失する話が冒頭にあるのだが、そのエピソードがどういう「重要な」意味を持って、わざわざ話の冒頭に書かれたのか、理解する気にもなれない。)大衆小説は読みやすさはあるが、たいていは「読むのが時間の無駄」だったということが多い。人生の残り時間が少ない年齢だと、「読むのが面白い」や「読んで有益だった」ということが大事になるのである。
たとえば、現代のアメリカインディアンの少年が、白人の高校に転校する話を書いた「はみだしインディアンの物語」という小説は、現代のインディアンの置かれた状況(主人公の家族や知人が無意味にゴロゴロ殺される。あるいは他人の過失で事故死する。)を舞台に、主人公が悪戦苦闘する様がユーモアを持って書かれて、面白い。まあ、そのユーモアの質はかなりブラックなので、読む人に不快感を与える可能性が高いが、「読んで有益な」作品であるのは間違いない。そういう本が児童文学の書棚(YA、つまりヤングアダルト本だが)にあったりするのである。あるいは、R・L・スチーブンソンの「誘拐されて」などが児童文学に分類されていたりする。これは作者が「宝島」の作者だからという偏見からだろう。実際は、彼の時代のスコットランドの置かれた政治状況を舞台にした高度な「大人向け」小説だが、子供でも読める娯楽性の高い冒険小説だ。それが大人の目に触れない場所にあるわけだ。



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カタカナ外来語の厄介さ

「電気石板ノート」というブログから転載。面倒な内容なので、途中からは読むのを放棄したが、一応全部を載せておく。
花田清輝の映画評論の中に「エラン・ヴィタール」と「フラン・ヴィタール」という言葉が対立概念として出て来たので、興味を持ってググっただけである。あまり面白い概念でもなさそうだ。そもそも「生命力」をふたつに分ける意味があるのか。
ただし、概念というのは、一生の難問を解決する優れた「補助線」になることもあるので、疎かにはできないのは勿論である。だが、そもそも「エラン」と「フラン」の日本語訳くらい最初に説明してほしいものである。「活力」と「統制」か?「統制」なら、「理性」という概念だけで十分だろう。

(以下引用)
 花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』、『さちゅりこん』、『胆大小心録』などといった著作を読むと、時に、バビットという名前を認めることができる。アーヴィング・バビットは一八六五年オハイオ州に生まれたアメリカの批評家、生涯の大半、ハーバード大学でフランス文学を講じ、一九三三年に死亡している。

 花田清輝がバビットの名を持ちだすときに、必ずと言っていいほど付いてくるのが、バビットの造語である「フラン・ヴィタール」という言葉である。フラン・ヴィタールは、ベルグソンの用語エラン・ヴィタールに対抗してつくられた用語で、エラン・ヴィタールが「生の活力」や「生命の躍進」などと訳され、生の遠心的に拡大し、飛躍する力をあらわすのに対し、フラン・ヴィタールは「生の統制」であり、生の求心的に収縮し、組織する力をあらわす。エラン・ヴィタールの対抗概念ということから、フラン・ヴィタールを、なにか、生にとって破滅的な力、例えば、フロイトの死の衝動のようなものと考えるのは間違いである。ベルグソンのように生の本来をもっぱら遠心的な拡大のうちに認めるべきではなく、むしろ、求心的な組織する力に認めるべきだというのがバビットの真意である。

 花田清輝が、バビットを正面切って論じることはなかったが、『胆大小心録』に収められた「エランとフラン」などはバビットとそのフラン・ヴィタールという考えを最も大きく取り上げた文章ということになろう。そこで花田清輝は、国家や社会を生物とのアナロジーにおいて捉える、或は生物そのものとして捉えるスペンサー、フロベニウス、シュペングラーといった思想家や歴史家がもつ生命観を批判している。
 彼らが国家と重ね合わせて見ている生命とは、つまりは拡大膨張する生命でしかなく、ある国家や文化が拡大膨張をやめたとすれば、そうした国家、文化は既に生命本来の力を枯渇させているのであり、後は衰弱し没落するしかないことになる。花田清輝はバビットのフラン・ヴィタールを、こうした、あまりに単純で、それでいて無批判に信じられ、拡がっているようでもある生命観に対する解毒剤と考えていたようである。
 思うに、バビットが、わざわざ、フラン・ヴィタールといったような言葉を持ち出したのも、ベルグソンのエラン・ヴィタールを、文字通り、生命の衝動として受け取ったかれが、ベルグソンに反対して、そういう衝動的なものよりも、いっそう、われわれの生活にとって根源的なものであるとかれの考える、拘束し、統制し、組織していくものの存在を、大いに強調する必要があると感じたためであろう。
  もっとも、バビットのベルグソン批判が、すこぶる俗流的なものであったことは、『ルソーとロマン主義』の中で、かれが、直感を二つの種類に分け、エラン・ヴィタールを下理性的直感に、フラン・ヴィタールを超理性的直感に結びつけていることによっても明らかである。本来の意味におけるベルグソンのいわゆるエラン・ヴィタールが、直ちに超理性的直感に結びつくものであることはいうまでもない。しかし、ベルグソン批判としては的をはずれているにせよ、生命に、遠心的に、膨張し、拡大し、飛躍していこうとするエラン・ヴィタールのはたらきと、求心的に、収縮し、集中し、固定していこうとするフラン・ヴィタールのはたらきとを認め、本能・感情・欲望・衝動等を前者の――習慣・理知・計画・規律等を後者のあらわれとしてとらえ、人間の生命を人間以外の動物の生命から区別するものは、フラン・ヴィタールであって、エラン・ヴィタールではないと主張するバビットの説には、確かに、近代人の生命感の盲点を、するどく突いているようなところがある。   (「エランとフラン」)
 それでは、『ルソーとロマン主義』(一九一九年)で、バビットが二つの直
感について論じている一節を引用してみよう。
 「適度な釣り合いなど我々には場違いなものだと認めよう」とニーチェは言う、「我々が真に欲するのは無限であり、測ることのできないものである」と。人間の本性を求める者が適正な均衡をいかにして失ったかを見ることは容易い。美徳というものの九割近くに関わる自己抑制を自ら進んで犠牲にしていることによる。超人はその力への意志のために抑制の徳などは顧みないので、均衡を取り戻すことは到底ありそうもない。超人がするのは、彼が他者
や自分自身に認めた過剰なるものからその正反対の過剰に激しく揺れ動くだけのことであり、どちらにしてもそれは文明の倫理的な基盤に対する差し迫った危機である。過去において、模倣の、参照の対象となった原型や範型は、欲望を抑制し、均衡を与えるものであったのだが、ニーチェが言うように、無限への熱望を満足させないという理由だけではなく、既に見てきたように、統一や直接性への熱望も満足させないという理由のために、どんなタイプのロマン主義的拡張論者にも無視されている。十八世紀に完成された諸形式に関する限り、ロマン主義的な拡張主義者が異議を申し立てるのも正当な根拠がある。しかし、この時期の合理主義や人工的な作法が満足すべきものではないにしても、分析的知性や作法一般について攻撃を加え続けるのであれば、それはまったく不当なものである。反対に、個人の特異性が強調される時代、伝統が断たれ、より想像的、直接的なものが求められる時代には、特異性を増加させる力は決してそれほど必要ではないことを認めるべきだろう。想像的であり直接的であるにも様々な方法があり、分析は、抽象的な体系を打ち立てるのにも必要だが、経験から得られた実際のデータを判断し、賢明で幸福でありたいと願うならどうしたらいいかを決定するのにも必要なのである。過去との連絡が断たれ、個人主義的なこうした時代にこそソフィストたちが言葉をたくみに操りだすが、そうした手妻から身を守る唯一の方法は揺るぎのない分析の力を借りてソフィストたちの使う言葉を定義することである。ベルグソンは、フランスには二つの主要な哲学のタイプ、一つはデカルトまで溯れる合理主義的なタイプ、もう一つはパスカルにまで溯れる直観的なタイプがあり、自分は直観主義者である限りにおいてはパスカルの系統にあると我々に信じさせようとする。恐るべき詭弁がこの単純な主張には潜んでおり、この詭弁は、もし正されないなら、文明を破滅させるのに十分なものである。唯一の治療法は直観という言葉を定義することであり、そこから派生する下合理的直観と超合理的直観とを実際に即して区別する必要がある。分析し定義してみれば、下合理的直観は生の衝動(エラン・ヴィタール)と結びついていることが見い出され、超合理的直観は生の衝動を超えた生の統制の力(フラン・ヴィタール)に結びついていることがわかろう。更に、この統制とは、人が、夢ではない現実の世界の共通の中心に引き寄せられるときに行使されなければならないのは明らかなことだろう。従って、分析する人間が物事を、断絶のうち、死んだ、精神を欠いたものと見なければならないというのは真実とは程遠く、個人主義の時代においては、人は分析においてのみ真の統一への道を得るのであり、想像力の役割もまたこの統一を達成することにある。人は分析によって(ある時代の単なる慣習に過ぎないものとは異なる限りでの)衝動を制するのに役だつ典型的な人間の経験の中心を見い出すが、それは想像力の助けを借りて始めて理解することのできるものなのである。別の言い方をすれば、普通一般の自己というものがある現実とは、固定された絶対的なものではなく、幻影のベールを通してしか垣間見ることのできないものであり、幻影と分かつことのできないものだということである。この洞察は、理性による決まりきった手順によっては結局公式化することはできない。知的な観点を超越するこの洞察は、それ故、外に無限に広がる欲望とはまったく異なった意味においてではあるが、無限であるように思われるのである。
 このように、少なくともベルグソンによれば創造性に結びつくはずのエラン・ヴィタールが下合理的直感、つまり合理性以前の衝動的な直感に分類されてしまっては、もはや、批判対象であるはずのベルグソンはどこかに消え失せ、後にはフラン・ヴィタールを主張するバビットの姿だけが残ることになる。確かに、その著作を読んだだけでもバビットの教養の広さは十分に想像することができる。専門であるフランス文学はもちろん、ギリシャ・ローマの古典から英米文学、仏教や儒教にまでその知識は及んでいる。しかし、実のところ、なにについて論じようと、ベルグソンという名前がルソーになろうがワーズワースになろうが、バビットの主張はただ一つ、人間にとって必要なのは、遠心的膨張的なロマン主義ではなく、求心的統制的な力であり、文学について言えば、古典や伝統に規範を求めるべきだということなのである。どんな作家も思想家も、バビットにとっては傍証の役割しか果たしていない。ある作家との出会いによって思いがけなくも自説が変容してしまうような瞬間はバビットにはない。知識が遠心的に拡がれば拡がるほどバビットの主張は求心的に収縮し、まさしく自らの思想を体現していると言える。それ故、恣に拡がろうとするロマン主義の解毒剤としては有効かもしれないが、バビットを読むことには同じ円をぐるぐる廻るような退屈さを伴うことを否定できない。

 したがって、バビットが本当に面白くなるのは、そしてフラン・ヴィタールという用語が生動しはじめるのは花田清輝の文章においてである。例えば、『アヴァンギャルド芸術』のなかの一篇「ユーモレスク」はピランデルロを論じた文章だが、バビットにおいては固定化された教義であったフラン・ヴィタールが見事にアクロバティックな運動を見せてくれる。
[ピランデルロのような]グロテスコ派にとっては、エラン・ヴィタールとフラン・ヴィタールとの相克それ自体が、かれらの唯一の生の現実であり、そうして、それらの二つの生の対立は、判断中止におけるごとく、均衡状態において静止するようなことはなく、相手を倒すか、みずからが倒れるかどこまでも闘争しつづけているからである。本能、感情、欲望、衝動の奔流が、これに対抗しようとする理知や信念や良心や決意を、一挙に呑みつくそうとして殺到する。そこで、それらのものの相克の結果、社会的には、法律、習慣、伝統、因習、道徳、等々が、エラン・ヴィタールの激流をふせぐための、フラン・ヴィタールの堤防として、次第につくりあげられてゆくのだが――しかし、転形期においては、この堤防が、相当、脆弱になり、方々破損していることはたしかであり、或る日、突然、それが、ガラガラと崩れ去り、逆巻く波のなかに姿を消してゆくようなことが、しばしば、おこる。さきにも述べたように「仮面」が「顔」から落ちるとはこのことだが、グロテスコ派の作品においては、こういう悲劇的な光景が、徹頭徹尾、知的に、喜劇的観点からとらえられており、それらの作品は、わたしたちの肉体派の浪漫的な作品におけるがごとく、決してエラン・ヴィタールの勝利の賛美におわることなく、逆にフラン・ヴィタールの敗北を描くことによって――おのれの知性の限界をすれすれのところまでたどり、辛辣な自己批判を試みることによって、そういうきびしい試練に堪えることのできる、たくましい作家の知性の存在を証明し、かえって、フラン・ヴィタールの勝利を描いているようにさえみえる。つまるところ、かれらは、つねに、浪漫的現実にたいしては、古典主義者として――古典的現実にたいしては、浪漫主義者として立ち向い、浪漫的なものと古典的なものとの対立を、対立のまま、統一することによってガルガンフモールのみなぎっている、独自のバロック世界を形成するのである。
 花田清輝にとっては、エラン・ヴィタールもフラン・ヴィタールも生の躍動の一側面であり、生や文章の跳躍台でこそあれ、到達点ではない。

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