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「広田先生」の説から見る資本主義と社会主義の比較(1/22追記あり)

前に書いた「広田先生の文明論」を手掛かりに、「資本主義のメリット」を考察してみたい。私は資本主義の批判者で、「空想的社会主義」を良しとする者だが、社会主義がソ連において失敗したのは誰でも知っている。そこで、資本主義のメリットも考察してみたいが、それは、下に書く、広田先生の文明論と重なるかと思うので、先にそれを載せて、その後で考察する。考察は、今すぐではなく「追記」の形で、この回の文章に続ける予定である。
先に少し言っておくと、下の広田先生の言っている「英国の状態」が、実は旧ソ連、あるいは社会主義社会と同じだという考えである。まあ、私の考えの大略は、もう書かなくても推測できるだろう。
ただし、私が資本主義を否定し、社会主義を肯定する根本姿勢は変わらない。それは、資本主義とは闘争肯定と、人間の善性否定の野蛮思想であり、社会主義がヒューマニズム(惻隠の情重視)の思想だからだ。とは言え、資本主義が経済的に繁栄し、社会主義が経済的に衰退するのは原理的に必然性がある、とも思っているので、痛し痒しである。(ただし、資本主義は必然的に経済的階級社会になるので、その経済的繁栄も永続性はない。まるでマルクスみたいな言い方だが、マルクスとは違って、資本主義は繁栄と衰退のサイクルを繰り返す、と私は思っている。ここも、広田先生の思想に近い。)

追記する予定が、ほとんど書いてしまったwww


(以下自己引用)

「ところがこの爛漫(夢人注:露悪・利己主義が平気である社会状態)が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義(夢人注:これは現代で流行語の「他人軸」と考えたほうがいい。広田先生は、これを「偽善」とも言っている。)がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らしていくものと思えば差支えない。そうして行くうちに進歩する」

「英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって化石しかかっているーーー」


(追記)基本思想は追記ではなく最初に全部書いたので、なぜ「階級社会は必然的に衰退する」のかだけ書いておく。これは現在の日本社会もそうなのである。イギリスの衰退、そして「インドの発展が(人口ボーナスによる経済成長以外)不可能であること」が、その事例だ。その反対が中国の経済的成長で、これは(東海アマ氏の妄言とは逆に)かつて社会主義国家であった中国が精神的に「階級否定」社会であることが根底にあると思う。中国などでの「階級」とは、単なる命令系統にすぎない、と私は見ている。それはどこの国でも、まともな国家組織のある国なら同じである。身分的階級と、組織の命令系統を同一視するほどの愚はない。日本の企業でも、組織の命令系統を身分的階級と同一視する馬鹿上司は多いだろう。もちろん、中国やあるいはロシアなどにその弊が無いとは言わないが、私の知見の限りでは、その弊は非常に少ない。(まあ、そもそも情報が少ないし、その少ない情報のほとんどは西側マスコミのプロパガンダ情報であるから、読む価値はない。)

さて、本題の「階級社会は必然的に衰退する」ということだが、これは非常に簡単な話である。
階級社会では、基本的に階級間の移動は無い。移動が無いからこそ「階級社会」と言うのである。とすれば、上位階級の人間は、制度(見えない制度)によって身分が守られているから、努力する必要はない。その結果、時代が下るに従って、子弟は馬鹿しかいなくなる。たまに下から上に上がる人間がいても、その人間は、自分の地位を守るために、下の人間を下の階級に押し込める。下の人間が減ると、搾取対象の数が減るからでもある。下の人間の大半も、努力の空しさを知って努力しなくなる。その場しのぎ主義になる。(以上は原則論であって、例外は当然ある)

要するに、階級社会は上位層の人間を愚鈍で怠惰で傲慢にし、下位層の人間を虚無主義、あるいは無気力にする宿命がある。必然的に衰退するわけだ。これは今のイギリスやアメリカや日本を見れば明白だろう。

余談:勝海舟が、江戸幕府の高官にアメリカで何を一番感心したかと問われ、「そうですな、かの国では、我が国と違って、上に立つ者は地位相応に賢明であるようです」と答えたそうであるww(念のために言えば、これはアメリカが大発展していた頃の話である。つまり、「民主主義」アメリカの勃興期のことだ。)


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認知症とabsent-minded

私は高血圧なので、毎日、自分の血圧の記録を取っているが、ここ三日間の日付を、全部12月として書いていた。(12/19、12/20、12/21)という感じだ。つまり、今は一月だという認識が、これらを書いている時に、私の頭にはまったく上らなかったわけである。
はたして、これは認知症だろうか。私はそうはまったく思わない。今日の日付が12月だろうが1月だろうが、私の生活にはまったく関係しないからだ。必要の無いものには無関心である、というのは人間の自然な心理だろう。私にとって関心があるのは世界の政治状況であり、能登の被災者の状況などだ。散歩中なら空の雲の形や色彩、周囲の木や草や鳥、頭に沸き起こる想念などだ。
で、そういう「大事な思索」や妄想に没頭し、それ以外のことは意識にあまり上らない状態(上の空状態)を、英語では「absent- minded」と言うらしい。「心の不在」状態だ。(正確には、「通常生活、社会生活での心」の不在状態。)ニュートンが研究に没頭している時に、卵を茹でるつもりで、懐中時計を湯の中に投じた類である。(自分をニュートンに例えるところが、我ながら図々しいが、これは「認知症」と「absent-minded」の違いを言い、世間の老人たちを勇気づけるためである。まあ、それで勇気をもって認知症強化に邁進する老人が出てきたらとんだ罪作りだが。)

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「弁証法」懐疑論

私は、東海アマ氏を高く評価し、尊敬する部分もあるのだが、彼は、「知識と記憶力は凄いが、判断力がダメダメである」という評価である。ある種の偏見が固定観念となり、まともな判断力が無い、という印象だ。言い換えれば、膨大な知識と記憶力がほとんどムダになっている。
その原因が何か、と考えた場合、知識の選択の際に、既に偏見で判断しているというのが大きいと思うが、彼の判断の根底が、彼がしばしば力説するヘーゲルの「弁証法」にあるのではないか、そしてそれが彼の判断をダメダメにしているのではないかとふと思ったので、その考察をしてみる。つまり、「弁証法否定論」を試みようというわけだ。
もちろん、私はヘーゲルなど読んだことがないので、その一般的理解である「(正⇔反)→合」という思考法に、或る種の陥穽があるのではないかという考察である。
この論理形式は、「科学的思考」の基本でもあると思うが、そこに何かの陥穽があるのでは、という疑念だ。でなかったら、新コロだの新コロワクチンだの地球温暖化だの二酸化炭素否定論だのと、科学があれほどの間違いをしてきたはずがないだろう。もしかしたら進化論もビッグバン説もすべて間違いかもしれない、と私は疑っている。あるいは、ウィルス説そのものが間違っている可能性もあるだろう。あるいは「相対性理論」も間違いでないとも限らない。

まあ、そういう「子供っぽい」疑念はともかく、「弁証法」を考察してみる。これは、「或る説」に対して、「別の或る説(前説を否定する説)」が出てきて、それを突き合わせて考察することで、「両者を止揚した、より『正しい』説」が出て来る、という考え方だろうと私は理解している。問題は、これが「単なる二説の比較である」ことではないか。実は、他にも無数の説がある中で、「どうでもいい説」や「一見合理的に見える愚説」だけを突き合わせて、学界や論争者に都合のいい「答え」を出しているだけではないか、ということだ。これこそが、「科学の誤り」の根本ではないか、ということであり、しばしば「政治の誤り」の原因にもなるだろう。

そして、さらに言うなら、「論理そのものの問題」というのが出て来る。
私の考えでは、論理とは「説明手段」(「自分自身への説明」含む)でしかなく、「思考手段」としてはさほどたいしたものではない。つまり、1+1=2を永遠に続けても、何も出て来ないということだ。本当に大切なのは「直観」であり、そこにこそ「正解」はあることが多いと私は思う。もちろん、その「直観」は実は長い間の知的修練の結果、無意識の中に蓄積された知的経験の記憶から生じるのであり、小学生が「ビッグバン説は間違いだ~」と言っても、あまり説得力はないだろうし、私が言っても同様だ。しかし、問題は、「専門家」たちの思考や知識も「偏見」で固まっているだろう、ということだ。「論理」は、それを是正する力があるだろうか。

まあ、とりあえず、「論理(形式論理)」や「弁証法」は、実は「設定された土台の上での議論にすぎない」とだけ言っておく。

ちなみに、私はデカルトによる「分析と総合」という思考法が科学的思考、あるいは論理的思考の基本だと考えている。これはヘーゲル的な「二者択一」の陥穽を持たない。




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まあ、イイカ

住民は死んで町が壊れても、イカキングが健在なら、それを建てた町役場としては満足www

(イカ引用)青字と太字は夢人による強調。

能登町の巨大モニュメント「イカキング」“海には帰らず” 津波の被害免れ「いつもの場所に居ます」と無事をアピール


配信

ねとらぼ

現在のイカキングが少し寂しそう(画像:イカキングのX公式アカウントより)



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マイナカード保険証というザルシステム

「大摩邇」で知った記事を転載。
まあ、馬鹿システムである。つまり、「他人の保険証を使い放題」となり、健康保険財政は破綻するまで膨れ上がる可能性があるわけだ。


(以下引用)

印刷した写真使って3秒で突破…マイナ保険証の顔認証システムに穴 「なりすまし」の恐れ


西日本新聞

健康保険証の代わりにマイナンバーカードを利用するための読み取り機=東京都内の病院



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「梟の謎」の解釈

さて、「梟の謎」の解釈に取り掛かる。
記述の便宜と、読む人の便宜のために、先に、タイトル以外の各部分に番号を付けておく。


「 黄昏に梟は告ぐ

1:卑しき株式仲買人の死を悼(いた)め。
2:黄金の羽根の鳥は、緑の野の果てで挽歌をうたい、
3:格子に囚われし僧侶は、古(いにしえ)の紋章に弔いを刻む。
4:我は犬のごとく眠り、龍のごとく空に逝く。
5:いざ、狂騒の輪の回転を止めよ。
6:荒れ果つる庭に、拐(かどわ)かされし影どもが踊り、
7:人生の喜劇役者にも冬は疾(と)く訪(おとな)う。
8:見よ楽園の東、ユダを縛(いまし)めし裁きの椅子を。
9:砕け散る卵の笑いとともに我は消ゆ







1:実は、考え方次第ではこれが一番難しい。ここでの「死」が、遺書を書いた者の死であることは明白だが、彼は「株式投資家」ではあったが、「株式仲買人(証券会社員)」ではなかったはずであるからだ。まあ、証券マンも投資家も同じだ、と仮定しておく。実際そうなのかもしれない。で、株式仲買人は「卑しい」というのは、古い人間には普通の思想だった(「株屋」と軽蔑していた)が、投資家が株式仲買人を卑しいと言うのは、少し不自然である。まあ、これも、「どうでもいい」種類の話だろう。「株式仲買人の」「死を悼め」というのは、梟の言葉だろうが、「卑しい」とけなしながら、その死を悼めというのも、少し変ではあるが、これもどうでもいいとしておく。ほかに、大事そうな謎が続くからだ。つまり、少し変な部分は、単に作者が適当に考えた可能性もあるwww

2:「黄金の羽根の鳥」は、一読では「梟自身」となりそうだが、梟が自分を「黄金の羽根の」と自賛するのは変なので、ここでは「黄金」自体を「黄金の羽根の鳥」と言ったと考えておく。あるいは、「黄金を支配する」存在、としておく。その鳥が、「黄金に憑(と)りつかれた者(遺書を書いた大富豪)」の死を憐れんで挽歌を歌うわけだ。まあ、軽蔑半分の同情だろう。「緑の野の果て」の解釈が難しいが、緑の野が尽きたなら、後は荒野だろう。つまり、黄金に憑りつかれた者の人生の果ては荒野である、というわけだ。

3:誤解釈の可能性が高いが、「格子に囚われし僧侶」は、「宗教という格子の中に囚われた宗教家」全体、あるいは神父や坊主の類としておく。「古の紋章」は、もはや現代では通用しない宗教的教義、あるいはその儀式全体とする。

4:これは、解釈が難しい。つまり、ビートルズの「a hard day's night」にあるように、犬は「work like a dog」と酷使される存在であり、「犬のように眠る」という表現は珍しいからだ。猫だったら、そもそもその名前が「寝子」から来ているという説もあるように、ひがな一日寝ているだろうが。そこで、「犬のごとく眠り」とは、「私は犬のように(黄金のために)働いたが、実はそれは一生寝ていたのと同じだった」という自嘲だと解釈する。すると、次の「龍のごとく空に逝く」は、龍の雄飛どころか、単に「虚しい空に逝く」だけである。そもそも、空を飛ぶだけでは何の意味もない。「逝く」は、もちろん「逝去」である。

5:これは簡単。「狂騒の輪」は、遺書を書いた人間の人生そのものである。

6:「荒れ果つる庭」は、カネだけの世界のことだろう。「拐わかされし影ども」は、そこで狂騒的に活動している連中。もちろん、大半は「自分の意志」でその世界に入ったのだろうが、実は、それは「カネの誘惑」によって「拐わかされた」わけでもある。

7:「喜劇役者」は「笑われるべき存在」。「冬」は滅亡や死。当然、自分自身の死を意味している。

8:「楽園の東」は「エデンの東」、つまり、「楽園追放」を意味する。要するに、「(蛇の誘惑に乗るという)自らの過ちで、楽園を追放された存在」であるアダムとイブに自分を重ねたのだろう。「ユダ」は黄金30枚(だったか?)で、キリストを「売った」、つまり、自分にとって一番大事なはずのものを黄金によって売り渡した存在である。「ユダを縛めし裁きの椅子」は、意味不明。聖書にはユダは「縛められた」とか「裁きの椅子」に座ったという記述はないはずだ。まあ、ユダが「自分の心の中で自分を縛め、裁きの椅子に置いた」としておく。

9:「砕け散る卵」が、「鏡の国のアリス」に出て来る「ハンプティダンプティ」であるのは明白だろうが、「アリス」の話の中では、彼は砕けてはいない。そこで、「砕け散る」は「卵」ではなく「笑い」に掛かる(修飾する)言葉だと解釈する。ハンプティダンプティはアリスにナンセンスな問答をしかけ、アリスを困惑させるが、遺書の書き手もまた、アリスのように混迷の中で死んでいく、ということだろうか。彼に謎をかけた存在(神か悪魔か)の「砕け散る」ような狂笑の中で。



以上、この「謎」が出てきた以降の文章を(ハンプティダンプティという単語が出て来たのだけうっかり見てしまったが)、まったく読まないで謎を解釈してみた。わりと面白い解釈ではないだろうか。で、「正解」かどうかには、私はあまり興味はないのである。謎は、謎を解く過程こそが面白いからである。

(追記)一応、報告しておくと、上に書いた解釈(謎解き)は完全に大間違いである。ただし、「正解」が、私の目からは非常に無理があるものなので、私の解釈をダメ解釈だとは思わない。しかし、(たとえ偶然にでも)二重に解釈できる謎を作った作者は偉いとも言える。
「正解」がなぜ無理があるかというと、「謎を解かせたい相手」に出した謎が、やたらにマニアックな内容だからである。つまり、小学低学年生に二次方程式や微分積分の問題を出して、さあ解け、と言っているような感じだ。





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梟の謎(後で追記予定)

先ほど、寝床の中で読んでいた、濱岡稔という、ほとんど誰も知らないだろう作家(図書館で借りるまで私も知らなかった作家である。)の「ひまわり探偵局」という短編集(おそらく、推理小説の一種)の中に、とある大富豪実業家(もと投資家)の奇妙な「遺書」が書かれていて、それがこの話のキモだと思うので、少し考えてみる。念のために言えば、「遺書」を残した人物の死因には不審な点はなく、この遺書に事件性はない。ただ、意味不明の「謎」というだけであり、謎が存在するだけで、この作品は「推理小説」だとなる。まあ、北村薫的な「日常の謎」に近いか。文学的、あるいは雑学的知識が土台になった謎らしいことも、北村薫的である。
先に、その「遺書」を書き写しておく。考察はその後にするつもりで、時間的にその考察をいつ上げるかは未定だが、最後の部分に関して、私が「これがその謎の意味だろう」と思ったことに関連することが、その少し後の部分に書かれている(と言うより、その「単語」が書かれている)のを、うっかり見てしまったことを告げておく。まあ、「卵が壊れる」と聞けば、誰でも想像することである。

「 黄昏に梟は告ぐ

卑しき株式仲買人の死を悼(いた)め。黄金の羽根の鳥は、緑の野の果てで挽歌をうたい、格子に囚われし僧侶は、古(いにしえ)の紋章に弔いを刻む。我は犬のごとく眠り、龍のごとく空に逝く。いざ、狂騒の輪の回転を止めよ。荒れ果つる庭に、拐(かどわ)かされし影どもが踊り、人生の喜劇役者にも冬は疾(と)く訪(おとな)う。見よ楽園の東、ユダを縛(いまし)めし裁きの椅子を。砕け散る卵の笑いとともに我は消ゆ」

一読して、自分の人生への後悔と嘲笑だというのが感じ取れるが、個々の文面の「謎」の考察は、少し面倒そうである。後ほどやる。先にひとつ言っておけば、「黄昏に梟は告ぐ」は、有名な、ヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」を意味しているだろう。これ自体、どういう意味だ、と思う人が多いだろうが、ミネルヴァは(私の記憶では)「知恵の女神」であるとだけ言っておく。→追記する。私の解釈では、「黄昏」は物を見えにくくする、ということから「ミネルヴァの梟(真の知恵)」は、普通人の目には見えない(つまり、世間の俗説に注意せよ)という、ヘーゲルの警告だと思う。念のために言えば、私はヘーゲルよりも、彼の学問上の敵であったショーペンハウエルの「分かりやすさ」のほうが好きである。(哲学というより、「人生知」に優れている)

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HN:
酔生夢人
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男性
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仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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