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夏の聖なるチルダイ

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」から一部転載。
彼の分析力の素晴らしさについては何度か書いてあるので、今更言わない。しかし、夏は遊ぶべき季節、怠けるべき季節であったという指摘はやはり素晴らしい。
これを敷衍すれば、夜は休むべき時間、寝るべき時間であったのに、電気をコウコウと(どんな漢字だったか忘れた)輝かせて、起きている時間にしているのも、人間の内部の自然に逆らう行為だろう。
つまり、文明は「便利と効率」を与えたが、それは人を労働に駆り立てるだけで、少しも幸福にはしていないのである。現代人で幸せな顔をしているのは、多幸症という精神病患者くらいだろう。テレビで笑い転げているタレントたちも、収録が終わればむっつりしているに決まっている

原発事故は、我々の文明の、この反自然性を見直すきっかけになるかもしれない。反自然性は人間の不幸の原因にもなっているのだから、その見直しは必要だろう。

夏の暑さは我々を「チルダイ」させる。チルダイとは、沖縄方言でぼうっとした気分、だらけた気分のことである。しかし、そのチルダイが気持ちがいい、というのが夏という季節の特色だ。だから、昔、沖縄演劇のポスターで「聖なるチルダイ」というキャッチコピーを見た時、実にうまい表現だと感心した。(ただし、私は沖縄県民だが、沖縄方言には詳しくないので、嘘を書いている可能性もある。一知半解は私のブログの特徴なので、にわかに信じないように)


(以下引用)


 秘密はここにある。
 子供の頃はあんなに大好きだった夏が、大人になってから憂鬱な季節になってしまっている理由のうちの大きな部分は、実は「生産性」という言葉の中にある。私はそうにらんでいる。

 この一週間、私は、当面の仕事を投げ出して、ただ暑さに身を任せていた。
 と、働かない男にとって、猛暑日の暑さと真昼のダルさは、案外にフィットするのである。確かに、肉体は暑さに参っている。でも、精神はかえってのびのびとしている。そんな気がするのだ。

 こじつけのように聞こえるかもしれないが、私は、夏がイヤな季節になったのは、実は冷房装置のせいだと思い始めている。
 エアコンディショナーというものがなかった時代、われわれは、夏を「しのぐ」という形で、暑さに対応していた。
 「しのぐ」方法は、細かく拾い上げれば、手法としては山ほどある。
 が、根本は、「生産性を落とす」ことだ。
 最も暑い季節の一番しのぎにくい時間帯は、いろいろなことをあきらめる――これが、夏を「しのぐ」際の基本姿勢だ。といって、夏をやり過ごすことに関して、特段に目新しい決意やコンセンサスを持つ必要はない。真夏の暑さの中に置かれたら、人間は、誰であれ、生存以外のほとんどのことをあきらめざるを得ない。われわれは、生物学的にそういうふうにできているのだ。

 だから、昭和の半ばごろまで、夏の間、日本の産業界の生産性は、明らかに低下していたはずだ。
 それが、エアコンという文明の利器を得て以来、事情が変わる。
 エアコンは、「温度を下げる」というあらためて考えてみれば、とんでもなく強引な方法で、夏をねじ伏せてしまう機械だ。
 と、少なくともエアコンの冷房能力が及ぶ範囲にいる限り、夏は、事実上消滅する。
 と、冷房された部屋の中では、生産性が維持される。
 冷気を維持するためのコストと、生産性の低下を防ぐことによって得られるメリットを比べてみて、メリットの方が大きいということになれば、オフィスを運営している人々は当然、エアコンを導入する決意を固める。かくして、日本の夏は、少なくとも働く現場からは駆逐されたわけだ。コガタアカイエカや、日本住血吸虫がほぼ根絶やしにされたみたいに。文明の力で。

 素晴らしい達成だと思う。
 科学の勝利。あるいは文明の凱歌だ。
 とはいえ、われわれが、有史以来数千年間にわたって、夏を生産性の低下によってやり過ごしてきた国の国民であるという事実を軽視してはならない。われわれは、この何千年かの間、夏の間は、ほぼ無力化していたのである。そういう気分なり季節感が、わたしたちのDNAの中には、刻まれているはずなのだ。

 エアコンの助けを借りて、夏を抑えこむことによって得られるメリットは当然、素晴らしく大きい。が、一方には、必ずデメリットも発生している。で、そのデメリットの一つが、この国の大人の間に蔓延している「サマータイムブルース」だと私は考えるのである。
 “There ain't no cure for the summertime blues”
と、ロジャー・ダルトリーは叫んだ。
「夏の日の憂鬱につける薬なんてありゃしねえぞ」
 そう。働く者にとって夏はどうにも始末に負えない季節だ。
 人は誰も、子供の時分は夏が大好きなのに、年齢を加えるに従って、夏を憎むようになる。これは、体力の問題ではない。
 休めない夏は、一種の呪いなのだ。

 生産性をあきらめてしまえば、夏は心地良くダルく、素敵にレゲエな、懐かしい季節に戻る――ような気がする。私の考えは甘いのだろうか

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マウンティングのための議論と建設的議論



「内田樹の研究室」から転載。
何度か書いてきたように、私は「民主主義は素人の政治談議によって育てられる」という思想の持ち主である。私のブログはその実践の場にすぎない。プロの言論人の発言の大半がクズであるのに対し、ネット上の素人の発言には、私のブログは別として、(これはもちろん謙遜だ。こう言っておかないと腹を立てる人が多いのだ)聞くべきものが多い。
で、数少ない聞くべき発言をするプロの言論人が内田樹と小田嶋隆である。小田嶋隆の読みの深さ、繊細な表現力は、まさしくプロであるし、内田樹もそうだ。内田樹も小田嶋隆も他の人と違う角度で問題を見るため、私のような頭の鈍い人間にとって、非常に啓発的である。
ただ、彼らのブログは、読めばその通りで、私などが付け加えることは何もない。それで、あまり頻繁な引用はしないのである。
今回は、「議論の意味」という、あまり語られることのない、しかし重要な内容で、ネット上の議論の大前提になる話なので、掲載する。

(以下引用)


2011.07.05
暴言と知性について


松本復興相が知事たちに対する「暴言」で、就任後わずかで大臣を辞任することになった。
この発言をめぐる報道やネット上の発言を徴して、すこし思うことがあるので、それについて書きたいと思う。

松本大臣が知事に対して言ったことは、そのコンテンツだけをみるなら、ご本人も言い募っていたように「問題はなかった」もののように思われる。
Youtube で見ると、彼は復興事業は地方自治体の自助努力が必要であり、それを怠ってはならないということを述べ、しかるのちに「来客を迎えるときの一般的儀礼」について述べた。
仮に日本語を解さない人々がテロップに訳文だけ出た画面を見たら、「どうして、この発言で、大臣が辞任しなければならないのか、よくわからない」という印象を抱いたであろう。
傲慢さが尋常でなかったから、その点には気づいたかもしれないが、「態度が大きい」ということは別に政治家が公務を辞職しなければならないような重大な事由ではない(それが理由になるなら、石原慎太郎はとうに辞任していなければならない)。
だから、問題は発言のコンテンツにはないのである。
発言のマナーにある。
自分の言葉を差し出すときに、相手にそれをほんとうに聞き届けて欲しいと思ったら、私たちはそれにふさわしい言葉を選ぶ。
話が複雑で、込み入ったものであり、相手がそれを理解するのに集中力が必要である場合に、私たちはふつうどうやって、相手の知性のパフォーマンを高めるかを配慮する。
たいていは、低い声で、ゆっくりと、笑顔をまじえ、相手をリラックスさせ、相手のペースに合わせて、相手が話にちゃんとついてきているかどうかを慎重に点検しながら、しだいに話を複雑な方向にじりじりと進めてゆく。

怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない。
だから、他人を怒鳴りつける人間は、目の前にいる人間の心身のパフォーマンスを向上させることを願っていない。
彼はむしろ相手の状況認識や対応能力を低下させることをめざしている。
どうして、「そんなこと」をするのか。
被災地における復興対策を支援するというのが、復興大臣の急務であるとき、被災地の首長の社会的能力を低下させることによって、彼はいったい何を得ようとしたのであろうか。

人間が目の前の相手の社会的能力を低下させることによって獲得できるものは一つしかない。
それは「相対的な優位」である。
松本復興相がこの会見のときに、最優先的に行ったのは、「大臣と知事のどちらがボスか」ということを思い知らせることであった。
動物の世界における「マウンティング」である。
ある種の職業の人はこの技術に熟達している。
大臣のくちぶりの滑らかさから、彼が「こういう言い方」を日常的に繰り返し、かつそれを成功体験として記憶してきた人物であることが伺える。
それ自体はいいも悪いもない。
ひとつの政治技術である。
それが有効であり、かつ合理的である局面もあり、そうでない場合もある。
今回彼が辞職することになったのは、政府と自治体の相互的な信頼関係を構築するための場で、彼が「マウンティング」にその有限な資源を優先的に割いたという政治判断の誤りによる。

気になるのは、これが松本大臣の個人的な資質の問題にとどまらず、集団としてのパフォーマンスを向上させなければらない危機的局面で、「誰がボスか」を思い知らせるために、人々の社会的能力を減殺させることを優先させる人々が簇生しているという現実があることである。
「ボスが手下に命令する」上意下達の組織作りを優先すれば、私たちは必ず「競争相手の能力を低下させる」ことを優先させる。
自分の能力を高めるのには手間暇がかかるけれど、競争相手の能力を下げるのは、それよりはるかに簡単だからである。
ある意味で単純な算術なのだが、この「単純な算術」によって、私たちの国はこの20年間で、骨まで腐ってきたことを忘れてはいけない。

コミュニケーションを順調に推移させるためには、「相手が自分の言うことを理解できるまで、知的パフォーマンスを向上させるためにはどうすればいいのか?」という問いが最優先する。
少なくとも30年間の教師生活において、私はそのことを最優先の課題としてつねに考えてきた。

学生に向かって「お前はバカだ」とか「お前はものを知らない」というようなことを告げるのは(たとえそれが事実であったとしても)、教育的には有害無益である。
「お前はバカだ」と言われて、頬を紅潮させ、眼をきらきらと輝かせて、「では、今日から心を入れ替えて勉強します」と言った学生に私は一度も会ったことがない。
教師として私は、若者たちに「知性が好調に回転しているときの、高揚感と多幸感」をみずからの実感を通じて体験させる方法を工夫してきた。
その感覚の「尻尾」だけでもつかめれば、それから後は彼ら彼女らの自学自習に任せればいい。
いったん自学自習のスイッチが入ったら、教師にはもうする仕事はほとんどない。
読みたいという本があれば貸してあげる、教えて欲しいという情報があれば教えてあげる、読んでくれという書きものをもってきたら添削する、行きたいという場所があれば案内する、会ってみたいという人がいれば紹介する・・・それくらいのことである。
それで十分だったと教師生活が終わった今でも思っている。

現状認識やなすべき手立てについて、自分と考え方が違う人と対面状況に置かれたときに、多くの人は、両者の意見の相違の理由をもっぱら「オレが利口で、あいつがバカだから」と思い、口にもする。
だが、当人が言うように、知的力量にほんとうに天地ほどの差があるのなら、相手を説得するくらいのことはできてよいはずである。
クリアーなロジックで、平明な文体で、カラフルな比喩を駆使し、身にしみる実例を挙げて、「なるほど・・・そう言われれば、そうですね」というところまで導けるはずである。
でも、そういうふうな話し方をする人を、私は論争場裏では見たことがない。
論争的場面において、人々は詭弁を弄し、論点をすり替え、相手の思考を遮り、相手が「むずかしいことも理解できるように知性が好調になること」を全力で妨害している。
それは論争の目的が、相手の知性を不調にさせて、ふつうなら理解できることも理解できなくなるように仕向けることだからである。
論争相手を知的に使い物にならなくすることによって「どちらがボスか」という相対的な優劣関係は確定する。
この優劣の格付けのために、私たちは集団全体の知的資源の劣化を代償として差し出しているのである。
よほど豊かで安全な社会であれば、成員間の優劣を決めるために、競争相手を効果的に無能力に追い込むことは効果的だろう。
けれど、それは「よほど豊かで安全な社会」にだけ許されたことであって、私たちの社会はもうそうではない。
私たちは使える知的資源のすべてを最大化しなければどうにもならないところまで追い詰められている。
その危機感があまりに足りない。
メディアの相変わらず他罰的な論調を見ていると、メディアにはほんとうの意味で危機感があるようには思えない。
どうすれば、日本人の知的アクティヴィティは高められるのか、ということを政治家や官僚やビジネスマンやジャーナリストは考えているのだろうか。
たぶん考えていない。
できるだけ「バカが多い」方が自分の相対的優位が確保できると、エスタブリッシュメントの諸君は思っているからだ。
松本大臣の「暴言」は単なる非礼によって咎められるのではなく(十分咎めてよいレベルだが)、この危機的状況において、彼の威圧的態度が「バカを増やす」方向にしか働かないであろうこと(それは日本の危機を加速するだけである)を予見していない政治的無能ゆえに咎められるべきだと私は思う。


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菅下ろしの深層

「阿修羅」経由で作家矢作俊彦の発言を転載。
書かれたことのすべてに同意するわけではない。特に小泉擁護発言など、これまでの政治状況にあまりに無知すぎると思うが、菅総理下ろしの激化と彼の「脱原発姿勢の明確化」が関連しているという指摘は正解だろう。
また、私は小沢支持者だが、小沢もまた原発利権者の一人だという指摘も多分正しいと思う。それらを含め、この発言には聞くべきものがいろいろあると思うから転載するのである。


(以下引用)

二週間ほど前から、私も言うべきではないかと考えていた。『この際、菅を支持しよう』と。今のこの国では、王様が裸だと言うより、王様は裸じゃないと言う方が、よほど勇気が必要らしい。おかげで今まで言いそびれていた。

そう、日本中が王様は裸だと言っている。しかし、私にこの王様は裸に見えないのである。パンツぐらいははいている。それを何故、よってたかって裸と謗るのか?理由があるに違いない。何しろ敵将ばかりか家臣や市民まで、こぞって裸だと言うのだから。これは理由を疑う必要がある。

王様は自らの延命のために法案を通そうとしていると皆が言う。それが必要かつ有用な法案であるなら何のためであっても、今この際かまわないではないか。王様を玉座から引きずり下ろそうとしている連中と、王様の法案は大筋似たりよったりだ。たとえ延命に手を貸しても、後で帳尻を合わせればよい。

大筋似たりよったりだと書いた。王様と臣や敵軍にはただ一点、違うところがある。原発に対するスタンスである。彼だけが再生可能エネルギーへの転換と原発の(段階的)廃止を主張している。そして――ここが肝心だ。彼がそれを言いだしたとき、家臣と敵軍は王様を玉座から下ろそうとし始めた。

東電の処分が議論され、発送電分離が言われた。そして菅首相は、浜岡原発の停止要請を発した。その直後だ。永田町が一斉に菅降ろしを始めたのは。敵も味方も、菅を引きずり下ろそうとする者たちに大儀があるとは思えない。まずその理由がよく見えない。共通するのはひとつ『性格が悪い』と言う。

思えばこの数年間、私たちは無能の首相に何度もつきあわされてきた。菅は無能かもしれない。いや、きっと無能なのだろう。しかし、それにしたって前の前のあの人や、ことさら前のあの人に較べたら、マシではなかろうか。ことに前のあの人、震災時、あの人が首相でいたらと考えただけで恐ろしい。

菅の元では協力できないと自民党は言う。理由はよく分からない。約束を守らなかったというのだが、その約束というのが国会のある種の慣例だったりする。国会での仁義がきちんと切れないといって怒っている人もいる。要約すると『性格が悪い』ということになる。

性格で仕事を問われたら、私の小説など一冊も売れなくなる。これだけでも、私には菅を支持する必要があるように思える。もちろん、理由がそれだけのはずがあるものか。考えるまでもない。菅降ろしは奇しくも、彼が発送電分離を言い、浜岡を停めたときから一斉に噴出したのだ。

すべてのメディアが、この因果関係に目をつぶっている。いや、あえて触れずにいる。これが何故なのか分からない。ただ東京電力が多くのメディアにとって大変大口のスポンサーだということは、誰でもが知るところだ。そして、多くの国会議員にとってもまた。

名のある政治家で、東京電力から献金を受けていないのは菅直人と小泉純一郎だけだと聞いた。原発を推進し電力会社と大変親密な関係を築いたのは、中曾根康弘と田中角栄である。中曾根には主義主張があった。田中は金だ。その金脈が小沢一郎刑事被告人へ受け継がれていないわけがない。

その小沢被告が拳を振り上げたのも、発送電分離が聞こえ始めた直後だった。今ひとつ呼吸は合わなかったものの、例の不信任決議では自民党と小沢被告の間に連携があったのは、見てのとおりである。彼らに理由などない。何がなんでも菅を引きずり下ろす。それ自体が目的だ。

いや、理由はある。要するに、菅はこの国のエスタブリッシュメントの尾を踏んだのだ。電力会社と原発関連企業と政界に横たわる闇の獣の尻尾を。何とか蛇に怖じずと言う。『無能』で『性格が悪い』わが首相は市民運動出身の素人あがりだった。最近の混乱を見ても、今なお永田町的には素人だ。

私は、その菅を支持する。少なくとも権力の間近にあって、東京電力と原発について、言葉を濁すことなく、まともなことを言っているのは彼と小泉純一郎と河野太郎だけだから。その中で、菅のみが権力中枢の、それもトップにあるからだ。

(阪神ファンには申し訳ないが)長嶋茂雄が監督を辞めた翌々年、私は一年間タイガースを応援した。長嶋が愛した野球チームの行く末を案じて、タイガースの優勝を心底願った。今の気持は、それによく似ている。しかたない。鼻をつまんで菅を支持する。

フクシマを遠く離れて、言うべきことを思いついた。何事にも距離感が必要だ。恋も戦いも、そして言葉も。もう一度だけ言っておく。私は、鼻をつまみ、断固として菅首相を支持する。

日が傾き、じきに飲んでも叱られない時刻になる。だから 2、3付け加えておこうと思う。『菅は品性下劣、自己の栄達しか考えていない。そんな者に与するのか』と、半ば叱責に近いご質問をいただいた。ひとりならず、似たようなご質問を。 答えは簡単、yes! 逆に、それゆえ私は支持する。

その賎しさ、さもしさのみを信じる。自民党の誰それ、小沢被告一味の誰それが言う通り、彼は延命のためならなんでもする。(世間の言いぐさを踏襲するなら)延命のためにのみ、原発をひとつ止められたのである。あと150日延命できるなら、全部止めるかもしれない。

無能かもしれない。性格が悪いかもしれない。しかし(前の誰かのように)わが王様は決して愚かではない。延命のために何をすればよいかを彼は知っている。パンプロー ナの牛追い祭りのように、彼を引き返しのきかない隘路に追い込むこと。私たちに今できることは、それくらいしかない。

だから支持する。 その賎しさ、さもしさのみを信じて。その性格ゆえ、彼ひとりが出来るかもしれないのだ。小泉が郵政にやってのけたこと以上の芸当が。戦後日本国というマシーンのチタニウムのように硬い横っ腹に風穴をあけることが。 ゆえに支持する。一切に鼻をつまんで。

6月24日 矢作俊彦
http://twitter.com/#!/orverstrand

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亀井静香の民主党上層部批判

yomiurionlineより転載。
私が亀井静香が好きなのは、彼が「あらまほしき政治家」像を体現しているからである。つまり、「正義感がある」「信念がある」「勇気がある」「国民の立場に立っている」「私欲が少ない」「頭がいい」「弁が立つ」などの美点を持っていることで、それらの長所に比べれば「顔が悪い」などは些細な欠点だ。私は自分がハンサムに生まれてしまったせいで、顔と中味は一致しないという事実を長い間受け入れることができなかったが、今は、不細工な顔でも味のある顔があり、ハンサムでも性格の悪さを表している顔もあることがわかり、その判別もできるようになってきた。前原などは、まあ整った顔と言えるが、その性格の悪さは顔からも明らかだ。しかし、顔での判断には人生経験がいるし、誤りも多いので、とりあえず、政治家を見るときは、最初は顔を無視して、その言動だけで見るのがいい。
亀井静香の話になると、なぜか顔の話にしかならないのは不思議である。彼としても不本意だろう。だが、私は彼の大フアンなのである。政界における名優で、黒沢映画で言えば志村喬か、といったところだ。
こうしたすぐれた人材がまだいるのは、日本にとっての幸福である。
下記記事における亀井の言葉は、今の民主党の上層部が「自分の利益しか頭にない連中」であることを如実にあらわしている。国民のことなどカケラも頭にないのである。だからこそ、亀井の怒りの言葉があるのだ。



(以下引用)



亀井代表「民主党はアナーキーになっている」



. 国民新党の亀井代表は6日、菅首相と首相官邸で会談し、松本龍前復興担当相の辞任と後任人事に関し、民主党の安住淳国会対策委員長が首相を批判していることについて、岡田幹事長に注意するよう求めた。


 亀井氏は会談後、記者団に「民主党執行部が首相の人事権にまで要求するようなことを平気で言っているような状況は、あまりにも目に余る。これでは政権が成り立たない」と怒りをあらわにした。

 亀井氏は会談に先立つ記者会見でも「安住氏は(自分が偉いと)勘違いしているんじゃないか。国対委員長と相談した組閣なんて、自民党だってやったことがない」と安住氏を名指しで批判した。さらに、党執行部が首相を公然と批判する民主党の現状について、「アナーキー(無秩序)になっている。極左の内ゲバより程度が悪い」と皮肉った。

(2011年7月6日19時36分 読売新聞)

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ストロスカーンもあちこちで忙しい

「毎日jp」より転載。
ストロスカーンのホテル従業員暴行事件がでっちあげだとばれそうになってきたので、世界支配層は今度は新しいネタを持ち出してきた。
それが「2003年」のことというのだから、これまたストロスカーン陥れのためのネタにすぎない可能性は大だとたいていの常識人なら思うだろう。だいたい、8年前の暴行「未遂」事件など、最初から立証不可能だ。もし、そんなもので起訴したり、有罪にしたりできるならば、誰でも好きなように有罪にできることになる。
「被害者」が「女性作家」とか書かれているが、ルポライターである。まあまあの美人だが、金で被害者役を引き受けたのだろう。マスコミの底辺にはそんな女はゴマンといる。
私はべつにストロスカーンを弁護する義理はないが、世の中が「雰囲気」だけでどうとでもできるという風潮になるのは断固として阻止したい。そもそも、空気で社会が動くのは日本の悪しき風習で、それを世界全体に輸出したら、後世の人々に恨まれるだろう。まあ、911以降の世界は、実はそうなっているのだが。


(以下引用)


仏女性作家、前IMFトップを告訴 「過去に暴行未遂」5日、パリの弁護士事務所を出るトリスタンヌ・バノンさん=ロイター



 国際通貨基金(IMF)の前専務理事ドミニク・ストロスカーン被告(62)に性的暴行を受けそうになったとして、フランス人女性作家トリスタンヌ・バノンさん(32)が5日、同被告をパリ検察当局に訴えた。AFP通信などが伝えた。

 同被告はニューヨークでのホテル客室係への強姦(ごうかん)未遂事件で、被害者の供述に疑問が出て軟禁を解かれたばかり。起訴取り下げや来年の仏大統領選への立候補が取りざたされる中、新たな訴訟を抱える可能性が浮上。再び窮地に立たされた。

 同通信などによると、バノンさんは2003年、取材に訪れた際に同被告に襲いかかられた、と主張している。一方、ストロスカーン被告の弁護士は「架空の話」として、バノンさんを名誉毀損(きそん)で訴える準備があるという。(野島淳)

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体を冷やして癌になろう

「飯山一郎のホームページ」から転載。
これから夏に向かって、冷房をガンガン使う人間が増えるかと思うので、冷房をガンガン使うとガンになるよ、という警告である。まあ、癌と体温の関係はもちろん証明されてはいないが、老人になると体温が低下しやすいことと、老人のほとんどが癌になることとに相関関係がある可能性は高い。癌の話は別としても、体温低下は万病の元だろう。

確かに、冷房をつけると気持ちがいい。
気持ちがいいのだから体に悪いはずはない、と誰でもそう思う。
ならば、酒も煙草もみな体にいい、となるわけで、これは錯覚である。
気持ちのいいことで体には悪いというのはたくさんあるのである。まあ、冷房愛好症は一種の中毒症だ。麻薬と同じである。

ついでに、豆知識として、体の中で冷えやすい部分を教えよう。ここから風邪をひくという部位だ。
それは、肩と、足の甲である。
寝る時には、肩を出さないこと、そして(老人の場合は)夏でも靴下をはいて寝ることをお勧めする。若者は自分自身の体温が高いから、裸のような格好でも夏場は大丈夫だが、老人は体温が低いから、寝る時に十分気をつける必要がある。そして、老人の場合はちょっとした風邪が命取りになることが多いのは言うまでもないだろう。
ついでながらテレビなどで節電を呼び掛けながら、やたらと熱中症のニュースを流すのは、おそらくクーラーをどんどん使えという「裏の呼び掛け」だろう。そして、これによって、「一応、警告はしましたから、熱中症での死亡は政府や東電の責任ではなく、国民の自己責任ですよ」となるわけである。


(以下引用)


さて次は,体温とガン細胞の関係を述べておきたい.
じつは,体温が35℃以下になると,ガン細胞は増殖しやすくなる.
そのガン細胞は,体温が39.5℃になると死滅してしまう.
これを応用したのがガンの「発熱療法」で,抗癌剤よりもはるかに安全だ.

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小沢無罪の可能性が高くなってきた?

「阿修羅」投稿記事から。ネタ元は日刊現代のようだ。
小沢無罪の目が出てきたとしたら、そして検察起訴事件有罪率99%の日本で検察が敗れることが起こったら、これは画期的な出来事である。
世界的にも、ストロスカーンの冤罪が証明されそうになっていることなど、これまでの世界支配層の牙城が揺らいでいるという噂もあるし、なかなか面白くなってきた。さて、こうなると、権力にすがって甘い汁を吸っていた人間がどんどん転向することも起こるだろう。実に見物である。
情報化によって世界中の人間が世の中の真実を知るようになってきたことが、その背景にあると私は睨んでいる。社会の上位層にいる人間でも正義感の強い人間が、「事実」を知り、大胆に行動するようになってきたわけだ。闇の中にいる連中は、その正体を明るみに出されると、案外弱いものである。なぜなら、彼らの悪事そのものは歴然としているからである。


(以下引用)


小沢裁判 無罪は確実 〝強制起訴の根幹崩れる 裁判長も怒った検察のデッチ上げ〟もうやるだけ時間と税金のムダ 日刊ゲンダイ
http://www.asyura2.com/11/senkyo116/msg/126.html
投稿者 極楽とんぼ 日時 2011 年 7 月 03 日 17:40:38: /lwF1HCtYSDhs




2011年(平成23年)7月4日 (7月2日発行)

 小沢裁判 もうやるだけ時間のと税金のムダ


(写真)無罪は確実!(石川被告と小沢=円内)


───

 検察ストーリーは、やはり砂上の楼閣だった。小沢一郎元代表の元秘書3人が収支報告書の虚偽記載に問われた「陸山会裁判」で、東京地裁が「検察敗北」の決定打を放った。検察の供述調書38通の大半を「信用できない」として証拠採用を却下。デッチ上げと認めた調書には、衆院議員の石川知裕被告(38)が「小沢元代表に虚偽記載を報告、了承を受けた」という調書も含まれていた。この調書が、小沢の強制起訴の唯一の証拠だっただけに、秋にも始まる裁判は根底から崩れ去ったも同然だ。無罪は確実で、裁判を開くだけ時間と税金の浪費である。

───


 裁判長も怒った検察のデッチ上げ

 陸山会裁判で、元秘書3人の弁護団があぶり出したのは、ハナから結論ありきで、脅し、すかし、泣き落としで自白調書を作りあげた東京地検特捜部のエゲツない実態だ。
 その筆頭格が、石川議員の聴取を担当した元特捜副部長の吉田正喜、田代政弘両検事である。
「吉田検事は別件の〝贈収賄事件〟の調書を作成し、『こんな事件はサイドストーリーだ』と破り捨てるパフォーマンスを演じて自供を強要。田代検事は『特捜部は恐ろしい組織だ』と脅しつつ、時には『親しい検察上層部が〝小沢の起訴はない〟と言っていた』と甘言をささやき、小沢氏の関与が色濃い調書にサインさせたのです」(司法ジャーナリスト)
 石川は保釈後の再聴取をICレコーダーを使って密かに録音。石川が供述を翻そうとすると、聴取を担当した田代検事が「最高権力者の小沢氏が変えさせたとの印象を持たれて(検察審査会で)小沢氏が不利になる」と再び揺さぶりをかける様子がバツチリとられ、裁判所に提出された。
 大久保隆規元秘書の調書を取ったのは、改ざん検事の前田恒彦受刑者だったし、池田光智元秘書の担当検事2人も、今回と同じように作成調書が「デツチ上げ」と過去の裁判所で認定された〝札付き検事〟だ。
 不良検事の吹きだまりのような捜査メンバーに、普段なら特捜部の肩を持つ東京地裁も「こいつら、オカシイ」と判断したのだろう。証拠不採用の決定文で「威迫ともいうべき心理的圧迫と利益誘導を織り交ぜながら、巧妙に供述を誘導した」と、特捜部を厳しく批判。弁護団関係者も「驚くほど検察の調書が採用されなかった。裁判長の怒すら感じる」と語ったほどだ。
 こんなデタラメ検事たちの作文調書が、小沢関与のシナリオとなり、検案審査会で強制起訴される決定的材料に悪用されたのだ。元検事の郷原信郎・名城大教授はこう言う。
「小沢氏の共謀を立証する材料は、石川議員らの供述調書しかありません。その信用性が崩れたのですから、検察官役の指定弁護士は戦う前から武器を奪われたようなもの。〝勝負あった〟と見るべきです。もはや、小沢氏を法廷にダラグラと縛りつける理由はありません。指定弁護士は早期決着を図るべきです」

 指定弁護士はサッサと白旗を揚げるべきだし、デツチ上げに便乗した大マスコミも検察と同罪だ。政権交代の立役者を潰した世論誘導の不明を恥じて、素直に国民に謝罪したらどうだ。


───

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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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