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インフルエンザ神話

「大摩邇」所載の「in deep」記事で、これまでも何度か聞いたことがある内容だと思うので、記事中の引用記事は冒頭部以外省略する。
ところで、感染症の「水平感染」って何だよww 感染は水平に(隣接する人から人に)感染するもので、「垂直感染」ってあるのか? まあ、親から子へというのは「垂直感染だ」と強弁することはできる。しかし、親と子は「空間的に」垂直なわけではない。(もちろん、私が「水平感染」という言葉を知らないだけだろうが、知っている人のほうが少ないだろう。)
一応、「スペイン風邪」が、実は風邪やインフルエンザではないという考えに私も同意するし、既に証明されていると思うが、「インフルエンザは人から人に感染しない」というのは怪しい意見だと思う。もしそうなら、毎年のように起こる「(インフルエンザによる)学級閉鎖」は単に生徒や児童の集団的(以心伝心の)サボりか? www

(以下引用)

スペイン風邪の流行の要因を合理的に常識的に考えると、すべてのパンデミックの医学的「神話」は崩壊するはず

In Deepさんのサイトより
https://indeep.jp/exploding-the-spanish-flu-myth/
この時に余ったマスタードガスが抗がん剤になりましたと。
<転載開始>



スペイン風邪の時代の背景

非常に興味深い記事というか、論文とでもいうべき文章を読みました。


スペイン風邪の誤った神話を打破する」と題されたもので、ヘルス・フリーダム・ディフェンス・ファンドという組織による記事です。


これが大変に長い記事ですので、あまり余計な前置きをせずにご紹介したいと思うのですが、何しろ非常に長いために、要点がわかりにくくなっている部分もないではないですので、文章の大まかな要点を書いておきます。


前半では、第一次世界大戦での戦場の非常に劣悪な環境と衛生状態、そして栄養状態についてから述べられます。


戦場の異常な不衛生さと共に、第一次大戦では、「ガス戦 / 化学戦」が繰り返され、環境中に大量の毒ガスや有毒液体が日々バラ撒かれ続けていたため、


「 1918年のヨーロッパは、全体としてとにかく体に悪い環境だった」


ことにふれています。


そして、中盤は、「スペイン風邪の発祥地」とも言われている米カンザス州のフォートライリーにある兵士を収容する巨大施設で、


「数万人の兵士に対して細菌性髄膜炎ワクチンの強制接種が行われた」


ことについてふれています。


興味深いのは、2008年に、アメリカ国立衛生研究所の科学者たちによって行われた研究で、


「スペイン風邪で死亡した人々の検死結果の 92%が細菌性肺炎が死因だった」


ことがわかったということがあります。


スペイン風邪のほとんどの死者の死因が、インフルエンザ「ウイルス」ではなく、細菌性の肺炎だったことが判明したのです。



このあと、さらに興味深い内容となっていき、「 1919年にアメリカで行われた『インフルエンザを強制的に感染させる人体実験」で、


「誰も発症しなかった」


ことにふれています。


実験では、スペイン風邪のインフルエンザは人から人にはうつらなかった、つまり


「水平感染しなかった」


のです。


実験は兵士を使って行われ、以下のような……人道的とはいえないですが、徹底した実験でした。


1919年のインフルエンザの強制感染実験


最初のボランティアたちは、まず 1種類のインフルエンザ株を、スプレーと綿棒で鼻と喉に、そして目に接種された。しかし、この処置で病気が起こらなかったため、他のボランティアたちはインフルエンザ患者の喉と鼻から分離された他の細菌の混合物を接種された


次に、ボランティアの一部がインフルエンザ患者の血液を注射された。最後に、ボランティアのうち 13名がインフルエンザ病棟に移され、それぞれ 10名のインフルエンザ患者に接触した。


各ボランティアは各患者と握手し、至近距離で会話をし、患者が顔に向かって直接咳をすることを許可した


この結果、


「参加したボランティアの誰もインフルエンザを発症しなかった」


と論文には書かれています。


「やっぱりインフルエンザって水平感染しないのか」と、改めて思いましたけれど、これは話が逸れますので、以下の過去の関連記事をリンクさせていただくに留めます。


なぜ私はウイルスのヒトからヒトへの水平感染を信じなくなったのか
In Deep 2021年1月21日


社会を崩壊させたウイルスの水平感染神話 : しかし現実として「感染症が人から人にうつるという概念は幻想」
In Deep 2020年8月11日


ノロウイルスとの対話で少しだけ確信し始める「感染の真実」」という記事には、1927年の「風邪は感染しない」という内容の論文をご紹介しています。この論文の著者は、塩化アンモニウムと塩化カルシウムの投与により、「人為的にインフルエンザの症状を作り出す」ことに成功しています。


 


話を戻します。


今回ご紹介する記事の後半では、「電磁や無線と身体の状態」について述べています。


19世紀後半から 20世紀初頭にかけては、欧米の都市部の大規模な電化が進んだ頃でしたが、それによる人々の身体状態の変化について書かれています。コロナが出てきた 2020年頃にも 5G との関係が言われたこともありましたが、そのことを少し思い出します。


著者は、最終的に「スペイン風邪の原因は〇〇だ」という結論を出していません。しかし、過去の感染症の歴史において必ず出される「画一的な考え方」を疑って、もう少し合理的に考えることを提唱しています。


ここから記事です。

スペイン風邪の誤った神話を打破する

Exploding the Spanish Flu Myth
healthfreedomdefense.org 2024/06/20


ジョージ・オーウェル「1984年」より
過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者は過去を支配する。

 

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言語と性格

「神戸だいすき」記事の一部(遠藤誉の本にあるらしい)だが、これは面白い。つまり、性格は言葉(言語)で作られるという話である。江戸弁を使うから「五月の鯉の吹き流し(威勢がいいが中身が無い)」の江戸っ子になり、京都弁を使うから京都の「イケズ」になるww
欧州でもラテン系は陽気で中身がなく、アングロサクソン系はしんねりむっつりの皮肉屋のイメージである。

(以下引用)


「中国動漫新人類」

漫画、アニメで、育った中国の子供たちが日本人化してしまった。
日本語を話すようになると、しとやかになってしまった。

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DSとの戦いの英雄としてのメル・ギブソン

マイクロソフトニュースの糞記事のタイトルと、記事の一部で、全体はメル・ギブソンを悪しざまに描く内容だが、その中に、彼の「栄光からの転落」の真因を書いている部分がある。

「世界のすべての戦争の原因はユダヤ(DS)だ」というのは、今やネットでは常識化しつつあるだろう。メル・ギブソンほどの大物俳優がこういう発言をしたことは、ユダヤ組織にとっては許せないことだったはずだ。彼の「飲酒癖」や「妻への怒りからの暴行、悪口雑言」など、世間的には些事でしかない。ハリウッドの俳優がみな聖人だと思っているキチガイはほとんどいないだろう。
なお、彼は「陰謀のセオリー」の中で、政治的事件の大半はDS的存在に仕組まれたものだ、とも言っている。私は、この映画こそが彼を本格的にDSの敵にしたと思っている。

(以下引用)

ハリウッドの伝説、メル・ギブソンの栄光と転落:映画界の王者から業界追放まで

反ユダヤ発言©Showbizz Daily International 提供

カナダ・オーストラリア・米国では飲酒運転のかどで何度も逮捕されているが、2006年7月には彼を逮捕した警官に向かって「世界中の戦争の責任はすべてユダヤ人にある」と暴言を吐き、『TMZ』誌にスクープされてしまった。


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聖母子像

私は、夏目漱石的な「非人情」の観照を好む性質の、やや厭人癖のある人間だが、ユージン・スミスの「入浴する智子とその母」の写真を「ライフ」掲載写真集で見た時は、何とも言い難い荘厳の美に打たれたものである。下の記事にある、ミケランジェロの「ピエタ」を私も連想した。
「火葬場に立つ少年」の写真を後日見た時も、それに近い感動をした。カメラマンという存在に価値があるとしたら、このような写真を生涯に一枚でも撮ることだろう。つまり、人間性の崇高な「真」を写し取ることだ。

(以下引用)

ユージン・スミスの『入浴する智子と母』

2021-10-19 19:10:30 | 日記・エッセイ・コラム

 この私のブログを見て下さっている方々は、多分、この写真をご存知でしょう。もしそうでなければ、下のサイト:


http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/wsws/index.html


を開いて、ぜひ、この歴史的な写真を見てください。上の記事の日付は9月17日です。ついでに、この『マスコミに載らない海外記事』という必見のブログの常連読者になって下さい。私もその一人で毎朝読ませてもらっています。ここに翻訳転載された英語原文(8月4日)は


https://www.wsws.org/en/articles/2021/08/04/mina-a04.html


にあります。この写真については、英語のWikipedia にも『Tomoko and Mother in the Bath』という内容豊かな記事があります:


https://en.wikipedia.org/wiki/Tomoko_and_Mother_in_the_Bath


この写真のことは、朝日新聞の10月16日朝刊でも取り上げられています。MINAMATA あの1枚』と題するインタビュー記事です。この写真をめぐる幾つかの重要な問題を知ることが出来ます。この新聞記事を読むことが出来なければ、上の英文ウィキペディアに引用してあるアイリーン・スミスさん(ユージン・スミスさんの元妻)のアーカイブにある2つの記事:


http://aileenarchive.or.jp/aileenarchive_en/aboutus/tomoko_and_mother_in_the_bath.html


http://aileenarchive.or.jp/aileenarchive_en/aboutus/my_life_with_w-eugene-smith_reminiscences.html


を参考にしてください。また、この英文アーカイブと重なる内容の日本語の記事もありますので、ぜひ読んでください:


http://aileenarchive.or.jp/aileenarchive_jp/aboutus/interview.html


 この写真に、最初に私の関心を向けてくれたのは、九州大学での同僚の物理学者後藤賢一さんだったと思います。もう大昔の話です。後藤さんはこの写真をお部屋の壁に掲げて、「僕にとってこの写真は一番美しい写真だ。ミケランジロのピエタより美しい」と話してくれました。この貴重な思い出を、私は擬サイエンス・フィクション『オペおかめ』の中で小説の材料として使わせてもらいました。


 世の中のすべての人がこの母子像を美しいと感じるとは思いません。この写真を一種の踏み絵にして人間を試してみたいという意地悪い思いを私は抱きます。例えば、物理学者で試せば、オッペンハイマーやロートブラットはこの写真の美しさを感得できるでしょうが、テラーやシラードには醜い写真としか見えないのではないでしょうか?


 もう一枚、私の脳裏に焼き付いている美しい写真があります。それは、米国の従軍カメラマンであったジョー・オダネルが長崎の被爆者死体の焼き場で撮った『焼き場にて、長崎CREMATION SITE, NAGASAKI』という写真です。現ローマ教皇であるフランシス教皇がこの写真を讃えたことでも知られています。こちらの写真も多くの方々がご存知のことと思います。ネット上で見ることが出来ます。この写真について語ったオダネルさんの言葉を『トランクの中の日本』(小学館、1995年)という本から引用します:


「焼き場となっていた川岸には、浅い穴が掘られ、水がひたひたと寄せており、灰や木片や石炭がちらばっている。燃え残りの木片は風を受けると赤々と輝き、あたりにはまだぬくもりがただよう。白い大きなマスクをつけた係員は荷車から手と足をつかんで遺体を下ろすと、そのまま勢いをつけて火の中に投げ入れた。激しく炎を上げて燃え尽きる。それでお終いだ。燃え上がる遺体の発する強烈な熱に私はたじろいで後ずさりした。荷車を引いてきた人は台の上の体を投げ終えると帰っていった。だれも灰を持ち去ろうとするものはいない。残るのは、悲惨な死の生み出した一瞬の熱と耐え難い臭気だけだった。


 焼き場に10歳ぐらいの少年がやってきた。小さい体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っている様で見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。


 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐ背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。


 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見てあゆみさった。一度もうしろを振り向かないまま。」


 もう一度、少年の写真をよく見てください。


 我々は、何故、この2枚の写真の美しさに感動するのか。それは、この2枚の写真のどちらにも、不条理の暴力の犠牲となった人間に対してもう一人の人間が注ぐ、注ぎ得る、無限の愛をそこに見るからです。ここで、私はアルベール・カミュのことをしきりと考えます。彼は、政治的イデオロギーからではなく、真正の人間としての立場から、この世界を支配する「不条理」に対して敢然と反抗することを説きました。ユージン・スミスもジョー・オダネルも、カミュの言う意味での、見事な『反抗的人間』であったと私は思います。


 


藤永茂(2021年10月19日)



 

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少子化で部活廃止

まあ、少子化の必然的結果だろう。ここまで少子化を進行させたのは、もちろん歴代自民党政権のおかげである。感謝しようww 
なお、30年以上も前から、大学入試の小論文では、日本の少子化が大きな問題とされていた。つまり、官僚や教育者たちの間では問題視されていたわけだ。(小論文の問題作成者は社会の動向に敏感なのである。)当時の日本は、人口が多すぎるほうが社会問題だったから、私などは「少子化大歓迎」の思想だった。だが、大学関係者にとっては、少子化は将来は自分たちの飯のタネが奪われる大問題だったのだろう。で、その予測は見事に当たったのであるwww

(以下引用)

 【悲報】中学校で全国的に「部活廃止」が進行中wwwwwwwwww

 


1: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 14:57:30.94 0
終わりやね

「運動部活動の地域移行」の波紋…全国的に部活廃止が進行中 中学生親子たちの思いは
https://news.yahoo.co.jp/articles/b246ec56e06c60d0422246e1d6278653ca2e0e7e


7: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:01:43.00 0
先生ありがとうございました

3: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:00:35.45 0
今まで教師に時間外で顧問やらせてたんだろ
もっと早く是正するべきだった



10: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:03:45.31 0
野球に関しては中学部活よりシニアボーイズ等々クラブチーム主体だからな

11: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:04:23.18 0
私立は顧問雇ってどうとでもなるから公立とのスポーツ能力の差が生まれるな

14: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:07:09.15 0
テニスと野球は中学で軟式やったってしょうがねえだろ
高校行ったら硬式やるんだから
外部は中学の年齢時から硬式のところもあるからな

19: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:08:36.16 0
>>14
考え方が逆や
体の成長がおいついてないのに硬式で無理させないように軟式でやってる

46: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:56:40.15 0
>>14
テニスは子供の頃からスクール通ってるレベルじゃないなら同好会みたいなもんだから硬式でも軟式でもどうということはない

20: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:08:51.65 0
近所のグラウンドで練習している少年野球チームは子どもより親が熱心な感じだ

21: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:08:51.71 0
知り合いの子の中学は野球部サッカー部がない衝撃
生徒少ないからみたい

22: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:09:58.61 0
遊びで気軽に決めたら本気じゃないなら辞めろとか言われてすぐ辞めたわ

25: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:17:49.48 0
部活動がなくなると中学生活は実に味気ないものになると
思うけどなあ

27: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:19:35.06 0
試合がつまんなくなるな
練習にも張り合いなくなる
青春感が消えるなあ

33: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:29:04.66 0
みんな部活好きだったんだな
俺は嫌で嫌でしょうがなかった

47: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:57:32.04 0
>>33
授業サボって部活出たら怒られた

35: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:30:04.23 0
学校の先生って大変だったんだな
働き方改革が進む中、学校の先生だけ奴隷でいろってのも無理な話だもんな

36: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:32:23.31 0
学校も部活の事故の責任負わなくて済むな

37: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:34:47.00 0
俺らの時代なんて運動部は親と教師から徴兵代わりにされてて男なら運動部でシゴかれて当然って価値観でほぼ強制入部だったよな

41: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:42:15.36 0
スポーツや音楽絵画といった芸術にしか才能を活かせない人間もいるわけで勉強だけっていうのもなあ

42: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:42:44.70 0
校外でやるのもなぁ
昔住んでたところの近くのグラウンドでたまに少年野球の練習をやってたが小学生に罵声浴びせたりひどいもんだった
今もああいうのは野放しなのか

45: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:56:09.24 0
こっちの方が全然いい
自分とこは強制だったから部活に嫌な思い出しかない
そのせいでちょっと歪んで変な癖がついた人間性になったと思う

48: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 15:58:45.62 0
スポーツでも何でももう部活は学校じゃなくて
地域のクラブとかに参加するようにすればいいだけだろ

50: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 16:04:07.60 0
>>48
そういう事なんだろうけど
家庭の事情で行けない人は才能があっても伸ばせないって事になる

49: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 16:01:05.03 0
才能が埋もれていきそう
なんとなく部活やり初めて才能開花するなんてことはなくなりそうだな

57: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 16:19:02.21 0
場合によっては生徒が足りなくて他校と一緒にやらなきゃいけなくなったりしてるみたいだし
いきなり全部無くすのは極端な気もするけど仕方ない流れなのだろうな
10年後とかは高校野球もクラブチームの大会になってるかもな

73: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 16:44:18.24 0
勉強と生活指導と部活は全部分けた方がいいかもな
その後も障害者とかの扱いとか問題は山積み

77: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 16:46:32.95 0
小中学生ぐらいなら
地域のスポーツが得意なオッサンやオバちゃんの方が上手い
だからそういう地域のクラブに参加させてもらってやるしかないだろ

91: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 17:05:42.70 0
まあ部活の今も実は才能あってもやったことすらないって人はごまんといそうなんで
部活減って才能ある人見つけられなくてもその程度のものよ

93: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 17:09:31.08 0
部活はやった方がいいから
あんな運動してたの学生のうちだけだし

120: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 18:06:33.48 0
スポーツ推薦で進学できなくなるじゃん

125: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 18:11:33.87 0
部活動もタダじゃできんからな
子供の頃は何も考えてなかったけど親に負担かけてたんだろうと今は思う
とにかく貧乏だったから

127: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 18:16:09.41 0
都市部はクラブチーム的なものあるから良いけど地方はなあ

54: 名無し募集中。。。 2024/06/24(月) 16:11:06.30 0
週末や平日の放課後に指導に来てくれる人間が
どれだけいるんだろ

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なぜ日本では子供が不幸なのか

「混沌堂主人雑記」に引用されている記事の一部で、後半は同じような思想の繰り返しになるので省略。現代の人間の「偽善性」の理由として「シツケようとするからだ」というのはあまりに一面的であり、私のような社会主義者は、「それは資本主義が『闘争』を本質としているからだ」と考える。
つまり、あらゆる人間が敵なのだから、偽善でしか自分を守れないわけだ。競争に勝つことを子供のころから求められる以上、子供は敵を倒す、あるいは自分を敵から守ることが生きる条件になり、兵士化するのである。当然、偉い人(親、教師、会社の上司)のご機嫌伺いの卑屈な人生になる。
幕末の日本を訪れた外国人の多くが、「日本の子供は世界で一番幸福だ」と見ていたことを、現代の教育者、教育界の人間は深く考えるべきだろう。


(以下引用)

シツケようとすると躾を失い、シツケなければ躾が身につく皮肉
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
「しつけ」考。
戦前賛美の人の話を聞くと、「昔は子どもを厳しく訓育し、そのおかげでしつけが行き届いていた。今の子どもは甘やかされてダメだ」と聞かされることが多い。
しかし渡辺京二「逝きし世の面影」なんかを読むと、大人は子どもをしつけようとしてるように思えない。ものすごく可愛がる。
叱ることもほぼない。なのに子どもは大人をよく尊敬し、知らぬ間に大人の立ち居振る舞いを覚え、美しくなっていく。まさに「身が美しい=躾」となっていく。
むしろ戦前、軍国主義が始まるあたりから鉄拳制裁が始まり、妙に厳格な教育が施されるようになってから、屈折した人間が増えてるように思う。
幕末から明治初期あたりまでは西洋文明に汚染されることなく、子どもをよく可愛がる文化であったらしい。その頃は「躾=立ち居振る舞いが美しい」が自然と身についたようだ。しかし時代が下るにつれて西洋文明に影響され、ムチと道徳による指導が入ってくると。
抑圧された、表面上は厳格だが内実はヘナチョコな人間を増産するようになったと感じる。
シツケようとしない時代には「躾=立ち居振る舞いが美しい」が成立し、シツケようとしてからは表面的で、しかし内実は醜い人間像を生み出してしまったのでは?という気がする。シツケようとすると躾を失う皮肉。
欧米では、中世キリスト教の厳格な教育(人間は生まれながらにして罪を背負っているから、自分にムチ打ってそれを償わねばならぬ)の影響を長らく引きずって、大人が「外から」子どもを枠にはめようとする伝統を持っていた。それが変化し始めたのはルソーが「エミール」を著したあたりから。
ルソーが現れる前は、人間は放置しておくと野蛮で凶暴だから、教育によって洗練された教養を授けねばならぬ、と考えていた。しかしルソーは、むしろ子どもは生まれもって善良であり、文明に汚されることによって悪徳を身につける、と考えた。
ルソーの「新説」は、それまでの西洋人が子どもを「小さな大人」とみなし、未熟で愚かな子どもをムチでシバいて立派な大人に教育せねばならぬ、という考えていたのを逆転させ、子どもはありのままで素晴らしく、それをなるべく損なわないまま育てた方がよい、という新たな考え方を生んだ。
しかし、ルソーのこの考え方はなかなか広がりを見せなかったらしい。A.S.ニイル「問題の子ども」は1925年の出版だそうだが、当時の西洋人が、キリスト教の厳格な人間観(人間は生まれつき罪人)に影響され、子どもを厳しく規制するのが普通だったことをうかがわせる。
しかしニイルらの考えが次第に普及し、欧米では子どもをありのまま肯定し、そこから出発して子育てを考えるように再構築が進んだ。幕末の日本に遅れること100年ほどかけて、ようやく西洋は「シツケない方が躾が身につく」ことを知るようになったと言える。
ところが日本では、逆転現象が起きてしまったように思う。なんでも西洋のものはありがたがる戦前戦後の風潮で、子どもを厳格に指導する中世キリスト教のような子育て観を輸入し、取り入れてしまった感じがある。子どもをのびのびと育てていたのが、親の監視下に置く感じが濃厚となってしまった。
戦前賛美派の「躾の行き届いた日本人」は、幕末の、変にシツケようとしていなかった時代の遺産で育てられていた世代の人達のような気がする。その後の、厳しくシツケようと育てられた世代は、むしろ表面だけ取り繕い、内心は屈折してねじ曲がった心を育てていたのではないかと思う。

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菩提樹

とあるブログからシューベルトの「菩提樹」の歌詞を引用する。
と言うのは、先ほど言及した「子供たち」の中に、金原瑞人の訳だと「リンデンの木」という言葉が出てきて、非常な違和感を抱いたからである。これは明らかに「菩提樹」だろう、と私は思ったのだが、私より若い世代の人には「菩提樹」という名前は耳慣れないのだろうか。

(以下引用)詩中の「ゆかし言葉」は、私の記憶では「愛の言葉」だったが、記憶違いか、それとも、そういうヴァージョンもあるのだろうか。

わたしにとって、そこで歌われているシューベルトの菩提樹の歌詞の意味が以前から少し謎であった。ここではWEB上で渉猟し検索したものを挙げてみる。はなはだ勝手なことをして、ここまで資料をまとめられた関係者の皆様方、ごめんなさい、そして大変ありがとう。
 わたしの仕事に引きつけて言うならば、菩提樹は日本の中部地方や東北・北海道ほかの山野にあるシナノキの仲間、インドのお釈迦さまの説話に出てくる菩提樹と科が別物である。
 これは都市のオープンスペースや都市近郊ではあまり見かけない樹木である。樹形は円錐形から広卵形で自然に整形を保つ、落葉高木。大径木になる高木性で、ケヤキやサクラと同じく庭木としてはふさわしくない。この樹木は、都内文京区小石川の東大植物園に植樹した樹林がある。

 原語はドイツ語であるが、上段は直訳で詩の文であり、下は日本語訳でよく見聞きする歌詞であるが、近藤朔風さんの名訳とされているもの、その曰くも転載する。
 
Winterreise D 911
Liederzyklus nach Gedichten von Wilhelm Müller
--冬の旅-- ヴィルヘルム・ミュラーの詩による連作歌曲集
5. Der Lindenbaum 菩提樹

Am Brunnen vor dem Tore, 市門の前の 泉の側、
Da steht ein Lindenbaum, そこに一本の菩提樹が立っている。
Ich träumt' in seinem Schatten 僕はその木陰で見たものだった、
So manchen süßen Traum. とてもたくさんの甘い夢を。

Ich schnitt in seine Rinde 僕はその皮に刻み込んだ、
So manches liebe Wort; とてもたくさんの愛の言葉を。
Es zog in Freud' und Leide 嬉しい時も悲しい時も
Zu ihm mich immer fort. 僕はいつもその樹に惹かれていった。

Ich mußt' auch heute wandern 僕は今日も木の側を通って
Vorbei in tiefer Nacht, 真夜中に旅立たなければならなかった。
Da hab' ich noch im Dunkeln その時、僕は真っ暗闇にもかかわらず
Die Augen zugemacht. 目を閉じてみた。

Und seine Zweige rauschten, するとその枝たちがざわめいた、
Als riefen sie mir zu: まるで僕に呼びかけるように。
Komm her zu mir, Geselle, 「こっちへ来なさい、友よ、
Hier findst du deine Ruh'. ここにあなたの安らぎがあります」

Die kalten Winde bliesen 冷たい風が僕の顔に向かって
Mir grad' ins Angesicht, 正面から吹いてきた。
Der Hut flog mir vom Kopfe, 帽子が僕の頭から飛んでいっても、
Ich wendete mich nicht. 僕は振り返りはしなかった。

Nun bin ich manche Stunde いま 僕は何時間も
Entfernt von jenem Ort, あの場所から離れたはず。
Und immer hör' ich's rauschen: けれど僕にはずっとざわめきが聞こえたままだ
Du fändest Ruhe dort! 「あなたはここで安らぎを得られたのに!」

1.
泉にそひて、繁る菩提樹、慕ひ往きては、
美(うま)し夢みつ、幹には彫(ゑ)りぬ、ゆかし言葉、
嬉悲(うれしかなし)に、訪(と)ひしそのかげ。

2.
今日も過ぎりぬ、暗き小夜なか、眞闇に立ちて、
眼(まなこ)とづれば、枝は戦(そよ)ぎて、語るごとし、
来(こ)よいとし侶(とも)、こゝに幸あり。

3.
面をかすめて、吹く風寒く、笠は飛べども、
棄てゝ急ぎぬ、遙(はるか)離(さか)りて、佇まへば、
なほも聴こゆる、こゝに幸あり。


泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
みきには彫(え)りぬ ゆかし言葉
うれし悲しに といしそのかげ

今日もよぎりぬ 暗きさよなか
まやみに立ちて まなこ閉ずれば
枝はそよぎて 語るごとし
来よいとし友 此処に幸(さち)あり

おもをかすめて 吹く風寒く
笠は飛べども 捨てて急ぎぬ
はるかさかりて たたずまえば
なおもきこゆる 此処に幸あり
此処に幸あり

 詞は明治時代の訳詞家近藤朔風(さくふう:1880-1915)の手になる。「菩提樹」「ローレライ」「野薔薇」などの訳詞はあまりにも有名ですが、35歳余りで早世したこともあり、その業績も上記の数曲を除き遠い過去のものになってしまっているようです。『雀の子』のように、クラシック歌曲の日本語化は原詩と関係ない替え歌であった時代に、原詩に沿った訳詞を試み、その後100年も歌い継がれている名訳を残した朔風の偉大さは忘れられてはならないでしょう。
 楽譜により歌詞や漢字と仮名の使い分けなど異同がかなりあります。そこで今回、国会図書館で生前の出版譜(明治43年『女聲唱歌』)を参照して来ました。朔風自身が眼を通した一次資料としてまずは決定的と言って良いのではと思います。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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