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隣のエイリアン 第八章





第八章 子供が親を生む


 


11月になった。


私は、ここのところ、同居人の「教育」を続けている。


まず、念動力で彼の脳神経の損傷個所を修復し、通常の機能は回復したが、彼の記憶の中で私の計画にとって不都合な部分は「書き換え」た。つまり、私の父親であるという架空の記憶に置き換えたわけだ。


彼の名前は衛利保(たもつ)とした。私と同じ一字名のほうが親子らしく思われるかと考えたからだ。


風呂に入れて服装をきちんとさせたら立派な中年紳士の出来上がりだ。鼻の下には口ひげも生やさせたので、知的な感じがする。中学の国語の本に写真が載っていた夏目漱石に少し似ている。もともと頭脳は悪くないようで、何かのために記憶喪失になっていたようだ。つまり、記憶はあるが「想起」はできない、という状態だったので、それを「新しい記憶」で置き換えたわけであるが、古い記憶が消えたわけではないので、「書き換えた」という言い方は誤解されるかもしれない。単に、古い記憶はそのまま水面下に置いたまま、新しい「経歴の記憶」を表(意識される部分)に作ったということだ。


人格そのものはあまり変わっていない。会話も普通にできる。本などを読むこともでき、それが好きなタイプらしい。現在の職業は、自由業で、ネットで株や金融商品の売買をしていることにした。まあ、高校入学程度なら、保護者がそういう怪しげな人間でもさほど問題はないだろう。銀行口座も作り、そこには500万だけ「創造」した。つまり、電子操作で書き込んだ。


彼の古い記憶を発掘すれば、私の「地球人調査」に有益な知識が得られるかもしれないが、とりあえずは私の高校入試のための「偽保護者」が必要なのであって、そのためには今は、古い記憶は邪魔なのである。(なお、私はたまたま精神障害者に出逢って、それを利用したが、普通の人間を同じように精神操作することもできる。ただ、ホームレスのほうが「いなくなっても誰も騒がない」という点で好都合だったわけだ。)


彼は、現在の自分の状態にほとんど疑問を持たず、本当に私の父親だと思い込んでいる。ひとりで外出して隣家の家族に会った時も、そう自己紹介をしたようだ。


彼の「取り引き」のために彼にもパソコンを買い与えたら、ちゃんと操作法を理解し、すぐに本当にネット取り引きのサイトに登録して仕事をしている。まあ、200万円程度を取り引き限度額としているようなので、さほど害は無い。子供の遊びである。スマホも自分で購入できたようだ。


ただ、自分が本当の父親だと思い込んでいるので、時々「父親風」を吹かせるのには閉口する。つまり、一緒にいる時に、自分(保)はこの私(安)より上の存在だと思っているような言動をする。「自分はリベラルな父親だから、ふだんは対等な口を利くがそれは自分が寛容だからだぞ」と思っているのが見え見えである。特によその人間の前だとそうだ。笑止だが、まあ、それも「地球人研究」の材料ではある。


 


この「上下関係」というのが地球人、特に日本人の間ではかなり重要らしいということに私は気付いていた。あらゆる組織はこの「上下関係」が基本になっているようだ。私がこれから入る予定の「高校」などの学校でも、学校に関したフィクションやノンフィクションを読むと、特に運動部などの部活では上下関係が厳しいらしい。なぜかと言えば、そこには「命令⇔服従」関係が存在し、それを可能にするのが上下関係だ、ということかと思われる。これは我々の星とはかなり違うところで、「命令⇔服従」という状況自体があまり無い上に、それが必要な場合でもべつに「命令者が服従者より上」という意識は無い。


もしかしたら、地球の歴史のほとんどを占める戦争と殺戮というものは、「上下関係」から起こるのではないか、という推定もしたが、これはまだ仮説にすぎない。もちろん、ここでの文明の発展が「上下関係」を原動力としているという仮説も可能だろう。少なくとも、命令に対する「絶対服従」というのが軍隊では必須条件であるようだ。まあ、我々の星には軍隊という制度自体発達しなかったので、これは今後の研究課題である。


 


 


私は毎日のように近くの公園に行くのだが、それは緑の木々や花々を見るのが好きだからで、これは私の星には無いものだ。その公園の後ろ側はなだらかな斜面になっており、斜面の終わりは江戸川の岸辺だ。つまり、公園自体が小高い丘にある。名前は美郷(みさと)公園と言う。


その公園にはさほど人は来ない。いても数人程度だ。桜の季節以外はそんなものであるらしい。だが、それらの人々を見ていると面白い。実に平和で幸福そうだ。たとえホームレスでも、安らかな顔をしている。これが、木々や花々の効果、あるいは青い空や白い雲や川の流れなどの美しい景色の効果ではないかと私は考えている。


私の心の在り方すら、故郷の星にいたころとはだいぶ変わっている。つまり、物ごとに感動するという心的機能がかなり増幅されているのは確かである。今でも、テレビドラマや映画などでの「感情過多」の人々の不合理な言動には馬鹿馬鹿しさを感じるが、それでも、以前よりは彼らへの理解は進んでいる気がする。


要するに、彼らの言動が馬鹿馬鹿しいのは、それを作る側の人間、脚本家とか監督が馬鹿なだけだろう、というのが最近の私の判断だ。それにしても、公園で見る人々の表情の美しさに対し、ドラマや映画の俳優の顔の醜さは、なぜなのか。演じる役柄のためだけでなく、「嘘の表情」というものが彼らの顔を醜くしているのではないかと思う。


 


今日は少し面白い出来事があった。こちらの若者の言葉で言えば、「逆ナン」というか、「逆ナンパ」されたのである。どうやら、異性間の交遊は、男から女を誘うのが通常で、その逆を「逆ナン」と言うらしいが、公園で私がぼんやりと散策していると、高校生らしい娘3人(3人とも同じ服を着ていた。)が「おい、顔を貸せ」と言ってきたのだ。


うん、たぶんこれが「逆ナン」だろう、と私は思った。


















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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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